第2話
手元に影が落ちた。客が来たのかと顔を上げて、彼女は少しだけ驚いた。
若い男が、ノアを見下ろしている。十七、八ぐらいだろうか。大きな瞳は薄い水色をしているが、気弱そうに目尻が下がっている。彼は薄い唇を開けて、ぜいぜいと荒い息をついていた。しかし、ノアが驚いたのは自分を見下ろして荒い息をついている若い男が目の前にいることではなく、男が聖衣を身に着けていたからだった。―――――かなり擦り切れて埃まみれで薄汚れてはいるが、元は純白だっただろう真っ白い貫頭衣に腰に朱色の刺繍の施された黄蘗色の帯を締めている。この格好は、アシュヘルクの国教でもあるルダ教の聖職者の出で立ちだ。
別段、町で聖職者を見ることは珍しくない。キシルの町にも教会がいくつかある。
しかし、ノアは教会へ出向いたことは一度もない。彼女はルダの教えには帰依していない。今まで関わったこともなかった。自分とはまったく無関係な僧侶が、なぜ目の前に立っているのかということだ。――――――しかも荒い息をついて。
薬草を買いに来たのだろうか?
「あの?」
「僕と一緒に王都、ルーヴェに来ていただけませんか!」
突然大声で叫ばれて、ノアは面食らった。顔に飛んできた唾を、袖口で拭う。
「えっと・・・・・・? なんですって?」
いまいち意味が理解できず、ノアは耳に手を当てて聞き返した。若い僧侶は頬を真っ赤に染めながら、真剣な目で繰り返した。
「あなたに、僕と一緒に王都ルーヴェにある、ルダ教の総本山聖マティシア教会へ来て頂きたいのです!」
「・・・・・・なぜ?」
「あなたが、魔女だからです」
呼吸が止まった。心臓さえ止まりそうだとさえ、思った。しかし彼女は、内心の動揺が顔に出るのをとっさに押し隠し、まじまじと僧侶を見上げた。まるで子犬のように丸く大きな瞳は、山奥の清水のように透き通っている。ノアが見つめる分だけ、彼も見つめ返してきた。
ふっと、ノアの唇が歪む。ごまかしても無駄だと悟ったからだ。この男は、神の祝福を持っているのだろう。
「よくあたしが魔女だってわかったわね。誰にも言っていないし、人前で力だって使ったことないのに。良い目をしているのね。あんたずいぶんと位の高い高僧でしょ」
「あ、名前も名乗らず失礼しました。僕はラビット・グリアといいます。聖マティシア教会で聖銅位の司教を勤めています」
「あんたほんとうに高僧なのね」
ルダ教の位階は、全部で五位まであり、それらはさらに色分けによって細分化されている。司教は上から三番目、銅の色はさらに司教の中で第三位の位ということだ。年齢や経験によって叙階されるのが普通だが、ラビットの年齢でその位にいるということは、名家貴族の出なのか、よほど特異な能力を持っているかの、どちらかだ。
ノアを魔女と見分けたことも、頷ける。
「それで、その偉い司教様が、あたしを教会へ連れて行ってどうしたいわけ?」
「あなたの、力を借りたいのです」
「あたしの力?」
「そうです。魔女としての力を」
魔女としての力、そう言われてノアはわずかに顔を顰めた。
「悪いけど、偉い司教様に貸し出す力なんて持ってないわ。あたしは確かに魔女だけど、力はとても弱いの。出来ることといえばせいぜい、薬草を見つけたら少しばかり効果を強くすることぐらいよ。魔女に何をさせたいのかは知らないけど、他をあたりなさい」
」
「いいえ!」
ラビットと名乗った司教は、強く首を振った。そして、ずいと顔を突き出してくる。血走った目に思わず、ノアは身を引いた。
「あなたでだければだめなのです。これは、ルダ神からの啓示なのです。あなたにはどうしても、聖マティシア教会に来て頂き、アウレリオ枢機卿猊下に会ってもらわねば!」
枢機卿は、ルダ教において最高位である教皇に次ぐ身分の人間だ。そんな人物が、なぜ自分に用があるというのか。ましてやこっちはまったく面識もなければ見に覚えもない。目の前の司教によれば、神の啓示ということらしいが。さっぱり意味がわからない。
困惑を取り越してあきれ果てているノアの目の前で、不意にラビットの体が傾いだ。「え?」と思っているうちに、彼女に向かって倒れこんでくる。とっさに手を伸ばして受け止めようとしたが、女の体では小柄とは言えど男の体重を一人で支えるのは難しい。ラビットの体を受け止めきれず、二人してばたんと倒れ込んでしまった。
「重っ! ・・・っっちょと、あんた!」
いったいどうしたんだと、胸の上にある男の顔を覗き込めば、ひどく顔色が悪い。触れた肌は冷たく、呼吸が荒かった。彼女は眉を潜めた。そして、やれやれとため息をつく。そこへ、少し離れた場所で店を広げていた男や、通りがかった町の住人が、大丈夫かと助けに入って来てくれた。ラビットを体の上からどけたノアは、はあと深々と息をつくと、何事だと集まる人々へ向かって口を開いた。
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