第41話 桜を見に行こう その1


 日曜。

 同じマンションの住人として、親睦も兼ねて夕食に招待したいとの深雪の申し出で、悠人は小鳥、沙耶、弥生と共に深雪の部屋を訪れた。


 ほのかに灯る青い光。部屋の色調は基本黒。自分の好みにあったその静かな雰囲気に、悠人は思わず溜息を漏らした。

 悠人の体調はまだ本調子とは言えず、食欲も完全には戻ってなかったが、世話になった深雪の招待を断るはずもなかった。また、どんな話をしたのかは分からなかったが、様子がおかしかった小鳥が、深雪と話して元気を取り戻したことへの、感謝も込めてのことだった。




「適当に座ってくれたまえ。ちょうど料理も出来たところだ」


 悠人たちは、二つ並べられた丸テーブルの周りに、それぞれ腰を下ろした。小鳥は深雪のそばに行き、


「手伝いますね」


 そう言って笑った。

 悠人は、小鳥のあんな安心しきった顔を見たことがなかった。おそらくあの日から、小鳥にとって深雪は、安心感を与えてくれる存在になったのだろう、そう感じ嬉しく思った。

 弥生は部屋の薄暗さに慣れていないせいか、どことなく落ち着かない様子だった。対照的に沙耶は何か気になるのか、部屋を眺めては考え込んでいた。




 そうこうしている内に、深雪と小鳥が料理を運んできた。黒いテーブルに並べられる真っ白な皿は、どことなく気品を感じる物だった。皿にはシチューが、そして悠人の体調を気遣ってか、雑炊が盛り付けられていた。


「おいしそうですね」


「で……私はこれをやるのだが、少年はどうする?」


 深雪が、赤ワインの入ったグラスを手にそう言った。


「すいません俺は」


「まだ本調子じゃないかね?」


「ではなくて……」


「悠兄ちゃんは、お酒ダメなんです」


「なんとまあ……少年、人生を損しているね」


 深雪が小さく笑った。


「他の乙女たちは、みな未成年だったかな」


「でわでわ深雪さん、私めがお相手させていただきます」


 眼鏡をキラリと光らせ、弥生が深雪の隣に座った。


「私は無事、成人に昇格しておりますので」


「いや助かる。一人で飲むのも味気ないのでね」


 グラスを渡された弥生は一口飲むと、溜息まじりに言った。


「これはまた……かなりの上物と見ましたが」


「ほう……この酒が分かるとは君、なかなか見所があるね」


 ワインに口をつけ、深雪が満足そうにうなずいた。


「さあ、食べてくれよ少年。それから沙耶くんも」


「じゃあ、いただきます」


 一口食べると、シチューの甘い食感が口の中いっぱいに広がった。体があたたまっていく。


「うまい……」


「お褒めいただき光栄だよ。これは私の故郷、津軽で祖母がよく作ってくれたものなんだ」


「深雪さん、津軽出身だったんですか」


「ああ。こっちに来たのは5年ぐらい前かな」


「ほんとこれ、おいしいです。今度よかったら、作り方教えてくれませんか」


「かまわないよ。私も祖母の料理を褒められて嬉しいよ」


 深雪の料理は、悠人の食欲を取り戻すに十分だった。おいしそうに料理を口にする悠人を見て、小鳥も満足そうに笑った。





 食事が終わり、深雪が入れてくれた紅茶を飲みながら、談笑は続いていた。

 しかし不思議と沙耶だけは、この部屋に入ってからほとんど言葉を発していなかった。


「サーヤどうしたの?ずっと黙ったままで」


「そういやそうだな、お前らしくない」


「料理が口に合わなかったかい?」


「いや……料理は大変に美味であった。母上が作ってくださるシチューに勝るとも劣らぬものだった」


「うん、深雪さんのシチュー、ほんとおいしかった」


「……」


 沙耶が深雪の顔をじっと見つめた。


「どうした沙耶くん。私の顔に何かついているかね」


「いや……この部屋に入ってから、ずっと気になっていることがあるのだ」


「どうした沙耶」


「うむ……お前、名を深雪といったな。遊兎の家で会った時には感じなかったのだが、この部屋に入ってから私の中に、一つの疑問が生じているのだ」


「なんだね、何でも聞いてくれたまえ」


「あの絵は」


 そう言って沙耶が、壁にかかっている風景画を指差した。


「あの絵はお前が描いた物なのか」


「サーヤも気になった?そうだよあの絵、深雪さんが描いてるんだよ。堤防で初めて会った時も深雪さん、描いてたんだ」


「ああ、私の絵だ。自慢出来る趣味じゃないがね」


「……名前が深雪、そして色鉛筆で描かれたあの風景画……」


「おいおいどうした沙耶、何か言いたいんだ」


「深雪。お前はあのMIYUKIか」


「え?」


 悠人に小鳥、そして弥生は、沙耶の言葉の意味が分からなかった。


「どうなのだ深雪、お前はMIYUKIなのか」


「私を知っているのかね」


「やはりそうか……」


「サーヤ、深雪さんがみゆきさんって、どう言うこと?」


「私が今言った深雪とは、アルファベットのことだ。やつはM・I・Y・U・K・I、水彩画家だ」


「画家……ええええええっ!深雪さんって、本物の画家なんですか!」


「いやいや、お恥ずかしい……確かに私は、手慰めに描いた絵を生計の足しにしてはいるが、画家なんてたいそうなものじゃない。しかし沙耶くんが知ってたとはね……君も絵が好きなのかね」


「うむ……幼少の頃より、芸術はそれなりにたしなんでいるのでな……お前の絵に初めて出会ったのは、三年ほど前だ。あの頃の私は色々と疲れていてな、そんな私を気遣ってくれた母上が、お前の個展に連れて行ってくれたのだ。

 私は衝撃を受けた。日々の葛藤の中で、私の心に巣食っていた闇が消えていくようだった。私が息苦しいと思っているこの世界を、こんなに温かく描く者がいるのか、ひょっとしたらこの世界、まだ捨てた物ではないのかもしれない……そう思った物だ」


「気恥ずかしいが沙耶くん、私のことを知ってくれていて光栄だよ」


「無論だ。ちなみに深雪、お前とは恐らくブログで何度か会っているぞ」


「ブログで?確かに私は、いくつかのブログの読者ではあるが」


「うむ。私は『カーネルの囁き』の主、カーネルだ」


「カーネル!これは驚きだな。君があのカーネルくんだと言うのかね。私はてっきり、カーネルくんは男だと」


「俺もそう思ってました」


 悠人が照れくさそうに笑う。


「いや、これは面白い出会いだ。こんなところでネットの友人と会えるなんてね」


「同意だ。しかし深雪よ、お前はある意味、私が思い描いていた深雪像にかなり近かった。嬉しいぞ」


「いやはやなんとも……小鳥くんが同じマンションと言うだけでも驚いたのだが、こんなこともあるのだね」


「いや、私も驚いた。そして嬉しいぞ。お前の絵に、私はいつも敬意を表していた。ある意味私は、お前のことを敬愛していると言っていい。深雪、この出会い、私は大切にしたい」


 そう言って、沙耶が深雪に手を差し出した。深雪が笑ってその手を握る。


「よろしく」





 話は弾み、時間は瞬く間に過ぎていった。お開きの雰囲気になった頃、深雪が悠人に

 言った。


「少年、今度の週末は何か予定あるかね」


「週末ですか。特には何も」


「よければ花見でもどうだね。その頃には体調も戻っているだろう」


「花見ですか」


「ああ。勿論小鳥くん、沙耶くん、弥生くんと、それから先日会った乙女……菜々美くんだったね、彼女も一緒に誘いたまえ」


「菜々美ちゃんもですか」


「みんなで花見……悠兄ちゃん、行こう!」


 小鳥が歓声をあげた。


「私も断る理由はないな。ネットやテレビで見たことはあるが、実際に参加したことはない。庶民の春の宴、楽しみだぞ遊兎よ」


「で、どこに行くのですか」


「知り合いから声がかかっていてね、福井に行こうと思ってるんだよ」


「福井ですか……って、まさか泊まりですか」


「おおっ!これはまさかの温泉イベント発生ですか!」


 妙なテンションで弥生が乗ってきた。


「土曜の朝からでどうかね。レンタカーでも借りて、みんなで行こうじゃないか」


「やったーっ!」


 小鳥と弥生が抱き合って喜ぶ。その姿に悠人も笑って答えた。


「分かりました。じゃあ土曜日に」

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