第39話 インフルエンザ その4
一時間後、深雪が点滴を外しにやってきた。
「本当、お世話になりました」
「気にすることはないさ。病人はいらぬ気を使わず、しっかり休んでおきたまえ。それはともかく……」
深雪が、悠人の右手をつかんだまま眠っている小鳥に目をやった。
「彼女は起きないな。君が倒れたのが、余程ショックだったんだろう」
「……」
「しかし、いつまでもこのままと言うわけにもいくまい。このままじゃ彼女も病気になってしまう」
そう言って深雪は、小鳥の肩を揺すった。
「小鳥くん、小鳥くん」
しばらく揺り動かすと、小鳥がゆっくりと目を開けた。目は泣き過ぎたせいか少し腫れていた。
「……悠兄ちゃん!」
目覚めると同時に、小鳥が悠人にしがみついてきた。
「悠兄ちゃん大丈夫?苦しくない?」
また小鳥の瞳から、涙があふれてきた。
「大丈夫だよ」
悠人より先に深雪が答えた。
「君も聞いただろ。彼の症状はインフルエンザだって」
「ほんとに」
「ああ本当だ。季節外れだから驚くのも無理ないが、よくあることだよ。疲れや寝不足で、抵抗力がなくなってたんだろう。あと二日も休んでいれば治るさ」
「心配かけたな小鳥」
そう言って、悠人が小鳥の頭を撫でた。
「体には気をつけてるつもりだったんだけど、小鳥の前でみっともないところ見せちゃったな」
「ほんとに大丈夫なんだよね、休んだら元に戻るんだよね」
「ああ大丈夫さ。デートでも何でもまかせてくれ」
「……」
小鳥が肩を震わせ、ひっくひっくと泣きながら悠人の腕にしがみつく。
「もてもてだな、少年」
深雪が意地悪そうに笑った。
「気に入らないぞ、遊兎よ」
小鳥の反対側で、黙って座っていた沙耶が口をとがらせながら言った。
「心配したのは私も同じだ。私の頭は撫でてくれないのか」
「あ、ああ……すまん沙耶。お前にも心配かけちまったな、ごめん……」
悠人が頭を撫でると、沙耶は顔を赤くして喜んだ。
「顎の下も撫でてくれ」
「お前は猫か」
「さて……」
深雪が少し真顔になって、小鳥を見た。
「小鳥くん、君も疲れただろう。どうだ、少し私とお茶でもしないかい」
「え……」
「実はもう用意してあるんだ。前に約束しただろう?また会って話をしようって。まさか同じマンションだったとは思わなかったが、これも何かの縁だ。少し私に付き合ってくれないかね」
「私……悠兄ちゃんから離れたくない……」
「少年はどこにも行かないよ。少年、小鳥くんを少し借りるよ」
「小鳥、行っておいで」
「でも……」
「大丈夫だって。おとなしくしてるから、心配しなくていいよ。深雪さんとお茶しておいで」
「少年の許可も出たよ、小鳥くん」
小鳥の手を取り、深雪が立ち上がった。
「……」
心配そうな視線を悠人に向けながら、小鳥は深雪に肩を抱かれ、歩いていった。
「遊兎、小鳥はあの女と何かあったのか」
「いや、俺もよく分かってないんだ。でも小鳥のことを心配してくれてるようだったし、俺より力になってくれそうな気がするんだ」
「ふーん」
「なんだよ、その棒返事は」
「お前はてっきりロリコンだと思っていたのだが……姉属性も持っていたのかと思ってな」
「なんでそうなる。大体彼女は俺より10も年下なんだぞ」
「年の問題ではない。あの全身からあふれるオーラ、尋常ではない。どう見てもお前のほうが年下だ」
「それは俺がガキだと言うことか」
「なんだ、自覚してなかったのか」
「くっ……否定しきれない自分が恨めしい……」
「入りたまえ」
ドアを開けると、中は暗かった。深雪がリモコンのスイッチを押すと、青いLEDの照明が優しい光をはなった。
悠人の家と間取りは同じはずなのに、違う世界に来たような気分になった。深雪に続いて中に入ると、沙耶の部屋と同じく、奥の二部屋の壁が取り払われていた。奥は黒いカーテンで仕切られていて、ベッドが置かれているようだった。窓にも黒の遮光カーテンがかけられ、弱いLEDの光の中、さながら占いの館といった趣の部屋だった。
「適当に座ってくれていいよ」
深雪の勧めで、丸テーブルの前に小鳥が座る。初めは少し驚いたが、座って改めて周りを見ると、不思議と落ち着く空間だと小鳥は思った。
「暗いかね?」
「いえ……ちょっとびっくりしましたけど、なんかこう……ほっとする感じです」
「お褒めいただき光栄だね。昔から光も音も、抑え気味のほうが好きなものでね」
「でもかっこいいです。大人の雰囲気っていうか」
「君も吸血鬼の素養がありそうだ」
深雪がティーカップを小鳥の前に置き、音も立てずに紅茶とミルクを注いだ。
「いい香り……」
「アッサムだ。さあ、飲みたまえ」
「いただきます」
小鳥が両手でカップを持ち、一口飲んだ。
「おいしい……」
体が温まっていく感じがした。心が穏やかになっていく。
少し落ち着いた小鳥の目に、色鉛筆で描かれた風景画が、何枚も壁にかかっているのが映った。
「あれは全部、深雪さんが描かれたんですか」
「ああ、お粗末な趣味なんだけどね」
「そんなことないです。川でも見ましたけど、とっても優しい絵だって思ってました。こんな優しい絵を描ける人なんだから、きっと深雪さん、すっごく優しくて温かい人なんだろうなって」
「おいおい褒めすぎだよ。言っておくが紅茶しか出ないよ」
「大丈夫です。こんなおいしい紅茶なら、もっと褒めても損しませんから」
「ははっ」
「ふふっ」
深雪は紅茶に、ブランデーを少し混ぜて口にしていた。そしておもむろに立ち上がると、棚から古いレコードを取り出し、プレイヤーにかけた。古びたスピーカーから、優しいピアノの曲が流れる。
「さて……」
深雪が、細巻きの煙草に火をつけて言った。
「小鳥くん。私と君は、まだ出会って間もない他人だ。私は君のことを知らないし、君も私のことを知らない」
「はい」
「だからこれから君にしようとしているお節介は、失礼極まりないことなのかもしれない。でも、お互いを知らないからこそ、言えることもあるものだ。例えばそう、先日君が打ち明けてくれた時のように」
「あの時は本当に助かりました」
「いや、たいした助言はしてないよ。だが人に話すことで、今まで自分が背負ってきた荷物が軽くなることもある」
「……」
「君の背負ってる荷物、少し軽くしてみないかい?」
「え……」
「私は人付き合いが得意ではないんだが、その分、気に入ってしまった相手には、ついついお節介をしてしまうんだよ」
「私は……」
「誰にも頼らず、自ら背負って生きていくのも、それはそれで尊い生き方だと思う。でもその重みが限界を超えた時、人は押しつぶされてしまう。どうだい小鳥くん。先日の続きだと思って、話すだけでも話してみないかい」
「……」
「少年にも内緒だ。言って見れば、二人だけの秘密の共有というやつだ」
「共有?」
「ああ。君の話を聞くんだ。私も少し、自分のことを君に話そう」
「そんな……私たち、まだ会ったばかりなのに」
「人の付き合いは時間じゃないよ。それに私は……君という人間にかなり好感を持ってるようだ。あの少年にもね」
そう言って深雪は笑った。
「おかわりを持ってこよう」
ポットにお湯を注ぐ後姿を見ながら、小鳥は深雪に対し、不思議な魅力を感じていた。そして同時に、自分の荷物が軽くなる……そう言った深雪の言葉に、安心感を覚えていた。
(不思議な……人だな……)
その頃、悠人は部屋で修羅場を迎えていた。
夏コミ対策合宿から帰ってきた弥生が部屋に乱入、寝込んでいる悠人に驚愕の表情を浮かべて側にはべり、動こうとしなかったのだ。
当然その向かいには、沙耶が座っている。
(少し……眠りたいなあ……)
「肉団子」
「スケートリンク」
(始まった……)
「どうだ、ここは一つ、休戦ならぬ同盟というのは」
「へっ……」
その意外な言葉に、悠人が思わず言葉を漏らした。
「目的が同じであれば、敵もまた同志ということですね。受けましょう」
「なんのことだ、お前ら」
「時に川嶋弥生。遊兎は見ての通り、昨晩から寝込んでいる」
「そのようですね。過度な発熱による、発汗の跡が見て取れます」
「医学的見地からも、この状態が良いとはとても思えぬ」
「然り」
「注射と点滴、睡眠によって山場は越えたと思われる。水分補給は問題なく、またプリンを摂取するなど、食欲も出つつあり、症状は間違いなく快方に向かっていると言っていいだろう。しかし……」
「そう、しかし……」
弥生の眼鏡がキラリと光る。見ると沙耶も、悪魔のような笑みを浮かべていた。
二人の雰囲気に、悠人の背中に悪寒が走る。
「症状が落ち着いた、一日中発汗を続けた病人に」
「成すべきことは……一つ!」
悠人が声を出すより早く、二人が悠人に襲い掛かってきた。
「な……ななっ!」
「じたばたするでない遊兎、このままでは治るものも治らぬ」
「そうですよ悠人さん。こんな時ぐらい、私たちに甘えていいんです」
そう言いながら、二人は悠人の布団をはがし、次に悠人の服を脱がしにかかった。そこでようやく悠人は、二人の目的を悟った。
「ままま、待て待てお前ら。体なら自分で拭くから」
「何を言いますか悠人さん、体を拭くのは我々婦女子の仕事です」
「そうだ遊兎、こんな時に遠慮は無用だ」
「じゃなくてお前ら、俺を裸にしたいだけだろうがっ」
「生娘でもあるまいし、じたばたせず我らに身を委ねるのだ」
「そうですよ悠人さん、あったかいタオルで優しくしてさしあげますから」
「ひゃああああああっ!」
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