第38話 インフルエンザ その3


「気がついたかい、少年」


「……」


 目を開けると、目の前に黒髪の女がいた。

 悠人がぼんやりとした頭で、今の状況を把握しようとする。

 自分の部屋の天井が見えた。と言うことは、ここは俺の家だ。

 左手が動かしづらい。その上にあるものを見て納得する。どうやら点滴をされているようだった。

 そうだ俺……急に吐き気が来て……トイレで吐いて……


「小鳥は!」


「彼女なら君の隣だよ」


 女がそう言った。頭を動かすと、自分の手を握ったまま、枕元で寄り添う様に眠っている、小鳥の姿が目に入った。悠人がほっとした様子で微笑む。小鳥の頬には、涙の跡が幾筋も残っていた。


 まだぼんやりしていた。目が回り、息が熱い。


「タオルを変えよう」


 女がそう言って額のタオルを取り、台所に歩いていった。


「……すいません……お世話になったようで……」


「気にすることはない。これも何かの縁なんだろう」


 タオルを絞って戻ってきた女が、悠人の額にタオルをそっと乗せた。


「あの……それで……」


「私は深雪、木之本深雪きのもとみゆきだ。この部屋の下の住人だ」


 そう言われて悠人は、深雪の顔に見覚えがあることを思い出した。何度かエレベーターを待っている姿を見ていた。


「しかし驚いたよ少年。エレベーターに乗ろうとしたら、中に少女がいた。見たら小鳥くんだ。ああ、小鳥くんとは以前、そこの堤防で会ったんだがね……様子が尋常じゃなかった。泣きながら私の顔を見て、しがみついてきた。

 混乱している小鳥くんに困っていたら、小鳥くんの後にいた金髪少女が説明をしてきた。沙耶くん……だったね。彼女の話で、君が嘔吐したままトイレから出てこないと言うことが分かった。

 申し訳なかったが部屋に入らせてもらい、トイレの扉をこじ開けさせてもらった」


「こじ開けた……」


「ああ。鍵がかかっていたからね、悪いが破壊した。君は彼女たちに、情けない姿を見せたくないと思い、無意識に鍵をかけたんだろう。しかしこんな時に鍵をかけるのは、無謀だぞ」


「ははっ……」


「とにかく開けると、君は便器を抱えたまま気を失っていた。その君を布団に運ぶのには往生したよ。小鳥くんは混乱して、泣きながら君から離れない。熱を測ったら39度越えだ。すぐに近所の医者に電話をして、ここに来てもらった訳なんだが……おめでとう少年。季節外れのインフルエンザだそうだ」


「インフル?」


「そうだ。君、最近体調がすぐれないので、何度か風邪薬を飲んでたみたいだけど、残念ながら無駄な抵抗だったようだ」


「まいったな……今年は予防注射、うってなかったしな……」


「注射と点滴の処置をして先生は退散、そうして今に至るわけだ。ちなみにこれが最後の点滴だ」


「今、何時ですか」


「昼前、11時だよ」


「ええっ!じゃあ俺、あれからずっと寝てたんですか」


「よく眠ってたよ」


「会社!」


「朝、君の携帯に会社から電話がかかってきたよ。すまんが取らせてもらった。なんて言ったかな……そう、白河くんって女性からだったよ。一応君の状態を報告しておいたから、安心したまえ。白河くんは今週いっぱい休むよう、社長に伝えておくと言ってたよ」


「……」


「白河くんも心配してたよ。君の様子を告げると、耳がつぶれるぐらい叫んでいたからね。多分あの乙女も今夜辺り、ここに来るんじゃないかな。まだ具合が悪いから来るべきじゃないと言ったんだが、顔だけでも見たい、そう言ってたからね」


「そうですか……」


「しかし色男だな、君も。たかがインフルぐらいで、三人もの女を泣かせるとはね」


「いや……それはちょっと違うでしょう……そうだ、沙耶は?」


「金髪少女なら隣の部屋で寝ているよ。大丈夫だから家に帰りなさいと言ったんだが、そばにいたいと言って聞かなかった。彼女も明け方までこの部屋にいたんだが、流石に沈没しそうだったんで、隣に布団を敷かせてもらった。離れたくないと言ってたが、何かあればすぐ知らせると言って説得した」


「色々と……お世話になったみたいですいません。それから……ありがとうございました」


「気にするな少年。世知辛い世の中だが、ご近所のよしみだ。こんな時ぐらい助け合っても、罰は当たらないだろう」


「下の階の人なんですよね、いつもうるさくしてご迷惑かけてます」


「全くだ。私は静かな生活を望んでいる。だからこのマンションが好きだったわけだが、どうもこの一ヶ月ほど、上の階が騒がしいと思っていたんだよ」


「……申し訳ないです」


「おいおい冗談だよ、真面目に受け取らないでくれ。しかし驚いたよ。ついこの前小鳥くんに出会ったんだが、まさか同じマンションの住人だったとはね。年頃の女の子が、こんな過疎マンションに住んでいたとは驚きだ」


「まあ、色々ありまして」


「だが君を見て、彼女のことが少し分かった気がするよ」


「え?」


「大好きな悠兄ちゃん」


「な……」


 悠人の顔が赤くなった。


「あははははははっ、かわいいな、君は」


「からかわないでくださいよ」


「いやすまない。まあ小鳥くんも少年も、しっかり悩んで成長したまえ」


「いやだから……と言うか、さっきから少年少年って気になるんですけど、どう見ても深雪さんって、僕より年下ですよね」


「そうだね。女性の年を詮索するのはいただけないが、それも若さ故と言うことで許してあげよう。ちなみに私は三十路前だ」


「ほら、思いっきり年下じゃないですか。僕はこれでも39歳です」


「39にしては、きれいな瞳をしている」


 そう言って深雪が、悠人の顔を覗き込む。


「え……ちょ……ち、近いですよ深雪さん」


「純情だねえ。やっぱり可愛いじゃないか少年。年は10ほど上かもしれないが、それでは私から少年と言われても仕方ないな」


「ゆ……悠人です。せめてそう……呼んでください」


「悠人くんか……いい名前だね、少年」


「だから悠人ですって」


「そう言うな少年。君にはなぜか、こっちのほうがしっくりくる」


「しっくりって……」


 悠人が小さくため息をついた。しかし確かに、年下なのに姉のように感じた。


「さて……」


 深雪が立ち上がった。


「約束だからね、あの金髪少女を起こすとしよう。彼女もかなり心配してたようだし……ちゃんと謝っておくんだよ。私はひとまず退散する」


「あ……深雪さん」


「なんだい少年」


「本当にお世話になりました。このお礼は、改めてさせてもらいます」


「楽しみにしてるよ。君はとにかく、しっかり栄養を取って休むことだ。それから……すまないが、後で小鳥くんを少し借りてもいいかね」


「小鳥をですか?」


「ああ色々とその……ゆっくり話をしてみたいと思ってね」


「分かりました」


「冷蔵庫にプリンが入ってる。少し食欲が出たら食べたまえ」


「はい、ありがとうございます」


 深雪は隣に行き、沙耶に声をかけた。しばらくして沙耶が、寝癖で爆発した頭のまま部屋に駆け込んできた。


「遊兎、気がついたのか!」


「ああ沙耶、迷惑かけたな」


「馬鹿者が……迷惑などと言うでない……よかった……本当によかった……」


 そう言って沙耶が、悠人の頭を抱き締めた。その姿に微笑みながら、深雪は部屋を出て行った。




「遊兎、何か欲しいものはないか。お前は病人だ、なんでも私に言うがよい」


「お前、バイトは?」


「連絡はすませてある。遊兎が倒れたと伝えたら、私と小鳥に日曜まで休暇をくれた。こっちのことは気にせず、お前をしっかり看病してやれと言ってたぞ」


「そうか……色々すまんな」


「それより遊兎、何かないのか。喉は渇いてないか」


「ああそうだな……じゃあ少し、ポカリをもらえるか」


「まかせておけ!」


 沙耶が小走りで、冷蔵庫からポカリを持ってきた。そして起き上がろうとする悠人を制した。


「病人は寝ていろ、私が飲ませてやる」


「いや、ポカリぐらい自分で……」


 そう言ってポカリを取ろうとしたが、左手は点滴をしていて動かせなかった。


「点滴はあと一時間はかかる。それぐらいに深雪が来て抜いてくれるそうだ」


「抜くって……そんなこと、勝手にして大丈夫なのか」


「うむ、どうやらあの深雪という女、看護師の資格を持っているらしい。医者とそんな話をしていた」


「そうなのか」


 仕方なく右手を動かそうとしたが、右手は小鳥に握られている。


「そうだった……」


「むふふふふっ」


 沙耶が悪人顔で、にんまりと笑った。


「観念しろ遊兎。こういう時は安静にしているものだ。ポカリは私が……口移しで飲ませてやろう」


 そう言うと、沙耶が口にポカリを含んだ。


「ちょ……沙耶……」


 沙耶の小さな唇が、悠人に迫ってくる。甘い香りがする。


「沙耶、や、やめ……」


「……」


 万事休すかと思ったその時、ひらめいた悠人が言った。


「沙耶、どうでもいいけどお前、頭が爆発してるぞ」


「……!」


 その言葉に沙耶は飛び跳ね、慌てて自分の頭を触った。そして顔を真っ赤にすると、洗面所へと走っていった。


「ふぎゃあああああっ!」


 沙耶の叫び声が聞こえる。悠人は苦笑しながら、左手をゆっくりと動かし、ポカリを飲んだ。

 そして再び小鳥の顔を見る。

 可愛い寝息を立てて眠っている小鳥。昨夜の小鳥の混乱した様子を思い出し、悠人の瞳が少し曇った。あの狼狽は普通じゃなかった、あの時、小鳥に一体何が起こったんだ……悠人は小鳥を脆く、そして儚く感じた。


(小百合……小鳥に一体、何があったんだ……)

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