第37話 インフルエンザ その2


 小百合がサークルの先輩、柴田和樹と交際を始めたその日から、5年の歳月が流れていた。


 悠人は大学卒業後、物作りに興味があったこと、人とそれほど接する必要がないこと、時間が決まっていて自分の時間を確保できること、そういった理由から、自宅から電車で一時間ほどの所にある金型工場に就職していた。


 毎日が平凡。


 しかし悠人にとって、それこそが望んでいたものだった。職場では鉄の塊と向かい合い、僅かな寸法との妥協なき戦いを楽しみ、プライベートでは自分の世界を更に深く追求していった。特に人と付き合うこともなく、ただただ一日一日をしっかりと消化していた。


 小百合とはあれ以来、ほとんど会うことがなくなった。そして風の噂で、小百合が大学を中退して結婚したことを知った。


 悠人は今なお、あの時の後悔から前へと進むことが出来ずにいた。

 一番近くにいた女性、一番大切だった女性が、一瞬にして自分の手の中からこぼれ落ちていった。あの時に出なかった勇気が、全てを変えてしまった。

 小百合は、自分にとって大切な家族。家族なら離れ離れになることはない、そう思っていた。しかしそれは、余りに稚拙な考えだった。自分の愛した「水瀬小百合」は、今「柴田小百合」として自分の知らない人生を歩んでいる。


 大切なものを失った悠人の傷は癒えず、これまで以上に人と接することを避けるようになっていった。

 人を大切に思えば思うほど、別れが来た時に心が壊れそうになる。そのことに対する恐怖が、彼を支配していた。

 ならば初めから好きにならなければいい。そうすればもう二度と、あのような思いをすることはない。大丈夫、俺にはゲームもあれば、小説やアニメもある。空を見上げれば星もある。それらは決して、自分の前からいなくなったりしない。それだけで十分だ、そう思っていた。

 時折心の中に生まれる空虚感をごまかしながら、悠人は日々を生きていた。





 ある日。帰宅ラッシュの満員電車から開放され、小さく息を吐いて自宅へと足を運ぶ悠人の目に、鮮やかな夕焼けが映った。


「きれいだな……」


 自然と足が、近所の公園へと向いた。ブランコに腰をおろし、缶コーヒーを飲みながら夕焼けを見つめる。


(久しぶりだな、ここも……昔は毎日、ここで小百合と遊んでたよな……)


 悠人の中に、しばらく封印していた小百合との思い出が蘇ってきた。




 まだ……心が痛む。




 悠人がうつむき、自分の長く伸びた影に目をやった。

 仕事に追われて忙しい毎日。自分に課した課題の数々。それは彼にとって、心の痛みを忘れるための防衛手段でもあった。しかし時に、こうしてふと我に帰る瞬間が訪れる。その時に蘇る心の痛み。この痛みはいつまで続くのだろうか。




 その時、悠人の長く伸びた影を、誰かが横切った。

 見るとまだ、足元もおぼつかない幼児がそこにいた。見たことのない顔だった。


(どこの子かな……)


 赤い野球帽を斜めにかぶったその子は、悠人に気付くと笑いながら近付いてきた。


「え……」


 その屈託のない笑顔に、悠人の方が驚いた。


 その子は悠人の元にたどり着くと、


「おんいちわ」


 そう言って、ぺこりと頭を下げた。


「あ……は、はい、こんにちは」


 つられて悠人も頭を下げた。悠人が顔を上げると、その子は嬉しそうに笑いながら、悠人の膝を叩いてこう言った。


「ブアンコ、ブアンコ」


 ブランコに乗せろと言っているようだった。どこの子だ、この子は……辺りを見渡したが、人影はない。


「ボク、お母さんは?」


 その言葉に、その子が声を上げた。


「ちーあーうー!おーんーあーのーこー!」


 そう言って、野球帽で隠れているリボンをつかみ、悠人に見せた。


「え……ああ、ごめんごめん。お嬢ちゃんは女の子だよな。うん、かわいいリボンだね」


「かぁーいい」


 オウムのように、悠人の言葉を返して笑う。そして悠人の膝をつかみ、


「ブアンコ」


 そう言った。


 ま、いいか……すぐ親も来るだろうし、さすがに顔見知りしかいないこの街で、犯罪者扱いされることもないだろう。そう思い悠人がその子を抱きかかえた。

 膝にそっと乗せると、その子は手を叩いて喜んだ。悠人は落ちないようにしっかりつかみ、ゆっくりとブランコをこいだ。

 女の子が歓声をあげると、不思議と悠人も楽しい気持ちになった。あまり感じたことのない安息感だった。




 その時だった。悠人のすぐそばで、聞き覚えのある声がした。


「悠……人……?」


 振り返るとそこに、小百合が立っていた。


「小百合……」


 何年ぶりだろう……いや、でもなんでここにいるんだ?いきなり訪れた小百合との再会に、悠人が動揺を隠せずにいた。しかし次の瞬間、悠人は更に動揺することになった。




「おかーさん」




 悠人の膝から飛び降りた女の子が、そう言って小百合の足元に抱きついた。


「お……お母さん?」


「お兄ちゃんに遊んでもらってたの?よかったね」


 そう言って女の子を抱き上げた小百合が、悠人に向かって小さく笑った。





「悠人、紹介するね。この子は小鳥。私の宝物、かわいい一人娘です」

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