第36話 インフルエンザ その1


 沙耶が越して来て二週間が過ぎ、暦も3月から4月へと変わっていた。


 新生活の季節。


 悠人は小鳥の入学式についていった。

 小鳥の大学は、悠人の家から電車とバスで一時間ほどの所にあった。

 キャンパスで楽しそうに話している学生たちを見て、この大学なら小鳥も楽しくやっていけるだろう、悠人はそう思った。


 小百合は入学式にやってこなかった。

 一人娘の入学式。顔を出すと思っていたのだが、小百合はなぜか一年前に携帯を解約していて、連絡が取れずにいた。学生時代、悠人に携帯を持つよう言っていた彼女の心境の変化に、相変わらずマイペースだなと悠人は思った。


 小鳥の話だと、先日公衆電話から連絡があり、陸奥みちのく女一人旅を延長する、楽しくやってますと言っていたとのことだった。

 初恋の相手である自分が悠人と会えば、きっと悠人の心は乱れてしまう。娘の恋を応援する親として、今悠人と会う訳にはいかないから、とのことだった。

 ラスボスは最後に登場するものだから、との意味深なメッセージに、小百合らしいと悠人は苦笑していた。




 小鳥は沙耶と共に、バイトに勤しんでいた。沙耶と一緒に働くようになってから、小鳥は今まで以上に楽しい様子だった。


 沙耶はと言えば、相変わらず接客の方はまるで駄目だったが、バイトを始めて三日ほどたった頃には、商品の名前と値段、場所全てを記憶していた。

 そして一日の店の売り上げ、売れ筋の商品や売れ残りなどをチェックし、山本に店の大幅なディスプレイ変更を申し出た。

 最初は首をかしげていた山本だったが、沙耶の理路整然とした、客の流れや購買心理・商品の見せ方の説明に聞き入るようになり、その申し出に乗った。


 翌日から、商品の売れ具合が激変した。これまで売れていた商品は勿論、売れなかった商品も次々と売れ、売り上げが一気に上がっていった。

 更に沙耶は、客一人あたりの単価を上げる次の策として、商品によって、セットで買うと翌日から使える商品券の発行を提案した。例えば弁当と一緒にお茶を買うと50円の商品券がつく。その策がまた当たり、沙耶に対する山本の信頼度は瞬く間に上がっていった。


 接客には看板娘、小鳥がいる。山本は小鳥に「サービス部長」、沙耶に「販促部長」の称号を与え、時給アップを宣言した。 沙耶も自分の提案が通り、そしてその効果が現れることに喜びを感じた。山本や小鳥の喜ぶ顔を見るのも嬉しかった。

 小鳥も沙耶も、新しい生活のスタートを順調にきっていた。





 水曜の夜。

 悠人と小鳥、沙耶の三人が夕飯を囲んでいた。

 店であった出来事を楽しげに話す小鳥とは対照的に、悠人は料理を口に運ぶ手もたどたどしく、小鳥の話に力なくうなずいていた。


「遊兎どうした。今日はやけに静かだな」


「悠兄ちゃん、嫌いなもの入ってた?」


「あ……いやすまん、そういう訳じゃないんだけどな……なんかちょっと、体がだるいと言うか、何と言うか……」


「過労か?」


「いやいや、そこまで働いちゃいないよ」


「食べられないなら、無理しなくていいよ」


「うん……小鳥ごめんな、ちょっと残すよ」


「いいよ。あ、コーラ飲む?」


「コーラか……いや、いいや。それより」


 悠人が冷蔵庫から麦茶を取り出した。


「今日はこれにするよ」


 そう言って小さく笑い、自分の部屋に行った。


 テレビにアニメが流れ出すと、小鳥は沙耶と顔を見合わせ笑った。


「アニメが見れるなら、大丈夫だ」


「だね」




 しばらくして二人は一緒に風呂に入った。その間もアニメを流れていた。

 風呂から上がり、


「お風呂あがったよ。悠兄ちゃんもあったまっておいでよ」


 そう言って部屋に入った小鳥の目に、テレビの前でうずくまっている悠人の姿が飛び込んできた。


「悠……兄ちゃん……?」


 手に持つタオルを床に落とした小鳥が、震えながら悠人に近付いていく。悠人は苦しそうに、肩で息をしていた。


「悠兄ちゃん!どうしたの、悠兄ちゃん!」


 小鳥が悠人を抱きかかえて叫んだ。大声に驚いた沙耶が部屋に駆け込んでくる。


「どうした小鳥」


「悠兄ちゃん!悠兄ちゃん!」


 栓をしていない麦茶が倒れ、畳が濡れている。荒い息をする悠人の目に、泣きそうな顔をしている小鳥の顔が映った。


「ごめんごめん、大丈夫だ。ちょっと熱っぽいだけだから……」


 そう言ってその場に座った悠人が、薬箱をあけて風邪薬を取り出した。


「ああ……こぼしちまったな。悪いけど麦茶、持って来てくれないか」


 しかし小鳥は悠人の腕をつかんだまま、その場から動こうとしなかった。代わりに沙耶が冷蔵庫まで小走りに行き、麦茶を持って来た。


「すまんな、沙耶……これで大丈夫だから……」


 悠人が風邪薬を口に含み、麦茶を一気に飲み干した。


「ふうっ……ま、後はあったかくして寝たら大丈夫、多分ただの風邪だよ」


「悠兄ちゃん……」


「ん?」


 小鳥の視線は定まっていず、わずかに瞳が濡れていた。


「ただの風邪だから大丈夫たよ」


 悠人が力なく笑い、小鳥の頭を撫でる。


「悠兄ちゃん……熱……あるの……?」


「風邪だからな。でも、薬飲んだから大丈夫だよ。たまに調子が悪くなった時も、これ飲んだら一発で治ってたから……今日は念のため、風呂やめとくな。悪いけど先に寝かせてもらうよ」


「布団は私が敷こう」


 意外にも沙耶がそう答え、押入れから布団を出し始めた。悠人が、その場に座り込んでいる小鳥の手を取って言った。


「小鳥、そこにいたら沙耶が布団、出せないよ」


 悠人の声に小鳥がうなずき、悠人の手を握ったまま立ち上がった。足が震えていた。


 その小鳥の様子に違和感を感じ、大丈夫か?そう言おうとしたその時、悠人は強烈な嘔吐感に襲われた。

 口を抑えたまま、悠人はトイレに走っていった。そしてドアを閉めると同時に、一気に嘔吐した。


「悠兄ちゃん!悠兄ちゃん!」


 ドアの向こうで小鳥の泣き声が聞こえる。嘔吐は収まらず、悠人は便器を抱えて吐いた。

 全てを出しつくしても、吐き気は治まらなかった。明らかにいつもの風邪と違っていた。

 ドアの向こうでは、小鳥が何度もドアを叩き叫んでいる。


(どうした小鳥……いくらなんでも、心配しすぎだぞ……)


 便器を抱えながら、悠人の意識は次第に遠のいていった。

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