第35話 謎の美女・深雪 その4


 小鳥は彼女に、昨晩から自分の身に起こっている変化を話した。

 鉛筆を走らせながら、その女性は黙って聞いていた。




「なるほど……」


 鉛筆を止め、コーヒーを一口飲むと、その女性は小鳥の顔を優しくみつめた。


「可憐な乙女、悩むことはない。君は今、本当の恋をしてるんだよ」


「本当の……恋……」


「君は今までその……悠兄ちゃんなる男性に憧れ、慕い、そばにいると安心感を得ることが出来た。それは『家族』から得ることの出来る安らぎに近い。君は彼を一人の男として愛してきたというより、兄や父に近い思いで見て来たんだと思う」


「家族……」


「しかし今、君は彼のことを考えると苦しくなる。きっと君は、彼を一人の男として意識し始めているんだよ」


「人を愛するって、苦しいことなんですか」


「苦しみもある、と言った方がいいかな。その人を想い、心に描くだけで胸が締め付けられそうになる。でもそれは、幸せ故の苦しさなんだよ」


「よく分かりません」


「失いたくない、もっと自分を見て欲しい。意識して欲しい、愛して欲しい……相手に求めるその気持ちは、自分だけではどうにもならない。相手の気持ちに入ることは出来ないからね。だから苦しむし、不安にもなる。

 でもその苦しみがあるからこそ、相手をいたわり、大切にしようとする気持ちが育まれていく。お互いがそういう気持ちになったらどうだい?最高の関係が築けると思わないかい」


「そうですね……はい、そう思います」


「本当に素直だな、君は。その素直な気持ち、大切にして欲しいと切に願うよ。君のような人種、今じゃ絶滅危惧種だからね」


「褒められてます?」


「ああ、褒めているとも。で、だ。もう一つの君の疑問も、今の答えから導き出される。

 乙女。君は悠兄ちゃんを、男として意識するようになった。愛して欲しい、自分を女として見て欲しい、そう願う自分になった。そう思って改めて周りを見ると、自分と同じく、彼を男として意識している者たちがいた。その時君は彼女たちに対して、今まで感じたことのない嫌な気持ちを感じた」


「はい」


「それは嫉妬という感情だ」


「嫉妬……」


「そう。人は異性を愛すると、時を同じくして嫉妬という感情が芽生えてくる。これまで悠兄ちゃんは、君にとっては家族、父や兄のような存在だった。だから彼に好意を持つ者が現れた時、君は喜んだ。そして彼女たちと仲良くしたい、そう思った。

 だが彼を一人の男として意識した今、彼女たちは正真正銘の『恋敵』になったんだ。勿論君は彼女たちと、これからも仲良くしていくことだろう。だが、彼のことになると話は別だ。君にとって彼女たちは、同じ男を奪い合う敵なのだから」


「そんな、敵だなんて」


「なぜだか分かるかね?」


「……」


「恋人の席は、一つしかないからだ」


「あ……」


「家族であれば、隣に座る席はいくらでもある。友人であるなら、その席が多いほど、それはその人の財産になるだろう。だが恋愛だけは別だ。

 複数の異性と同時に恋することが出来て、相手もそれを認める例外的な人種は別だが、隣に座る席は基本一つしかない。

 その席に誰が座るのか。悠兄ちゃんの隣に座れるのは誰なのか。そう思った時、ライバルに対して芽生える感情、それが嫉妬なんだ。誰にも取られたくない、他の子を見ないで欲しい、自分だけを見ていて欲しい……自然な感情だよ。そのことで自分を責める必要もない」


「……でも私、サーヤや弥生さんたちのことも大好きなんです」


「ああ、それは素晴らしい気持ちだ。友達は大切にするがいい。友情は人生の宝だよ。愛する異性は一人でいいが、友情を育む同性は多ければ多いほど、君の人生を豊かにするからね」


「……」


「少し難しかったかね、乙女」


「いえ……でも、恋愛が苦しいなんて……私がサーヤに嫉妬なんて……」


「多いに悩むがいいさ。一つ一つ、人生の階段を上っていけばいい。そうしていつか振り返った時、今悩んでいることが全て、君を大きくするための糧だったことに気付くよ」


「そんなものでしょうか」


「最後にもう一つ。悩んでいる乙女に人生の先輩、恋愛の先輩としての助言をしてあげよう。

 恋愛は求めるものじゃない。求められるように自分を磨くものなんだ。

 彼が別の女性に目を向けた、他の女性が彼に色目を使っている。そんなことで一喜一憂するのではなく、自分が愛されるためにどうあるべきなのか、それを考え行動していく。そうすればきっと君は、誰よりも輝いた魅力ある女性に成長していくよ」


 その言葉に、小鳥がはっとした。


(そうだ……私は誰よりも、悠兄ちゃんのことをずっと思ってきたんだ……この気持ちだけは誰にも負けない。誰が悠兄ちゃんのことを見ていても、悠兄ちゃんはきっと私を見てくれる、でなきゃ私が振り向かせてみせる、そう思ってた……なんで私、忘れてたんだろう……)




「先生、ありがとうございました」


 小鳥が晴れやかな顔で頭を下げた。


「何か見えたようだね、乙女。私の話が役にたったのなら、嬉しい限りなんだが……その先生と言うのはちょっと気恥ずかしいな。私は深雪みゆきだ。そう呼んでくれて構わんよ」


「分かりました、深雪さん。私は小鳥、水瀬小鳥です」


「小鳥くんか。いい名前をもらったね。きっと君のご両親は、君のことを心から愛しているんだろう」


「ありがとうございます。私もこの名前、すっごく気に入ってるんです。深雪さん、また会えますか?」


「ここに来れば、また会えると思うよ」


「分かりました。今度は悠兄ちゃんのこと、いっぱい話してあげますね」


「ああ、楽しみにしてるよ」


「じゃあ私、帰って悠兄ちゃんの晩御飯作ります。今日は奮発して、すき焼きにしちゃいます」


「そうか。悠兄ちゃんも、きっと喜ぶよ」


「はい。じゃあ失礼します」


 小鳥が大きく頭を下げて、その場から走り去っていく。


「元気な乙女だね」


 小鳥が走っていく後姿を、深雪が優しいまなざしで見送った。


「悠兄ちゃん待っててね。今日も小鳥の愛情、いっぱいあげるからね」





 朝の小鳥の様子に心配していた悠人だったが、帰宅してそれが杞憂だったと感じていた。

 小鳥は玄関まで小走りで迎えに来て、抱きついてきた。


 テーブルを囲み、小鳥はいつものように陽気に話しかけてくる。対照的に、今度は沙耶が無口になっていた。

 初めての立ち仕事で足が筋肉痛になっている沙耶は、心身共に疲れた様子だった。しかしすき焼きなる物を口にした途端、その味に衝撃を受け、気がつけばいつもの饒舌さが戻っていた。


「なんだ、このうまさは。牛丼と言いすき焼きと言い、小鳥よ、庶民はいつもこのようなものを食しているのか」


「そんな訳ないよ。すき焼きは庶民の夢なんだよ」


「いつの時代だよ、それは」


「そうか、やはりこれはご馳走なのだな、納得だ。しかし庶民は面妖な食し方をするものだな。この肉と生卵のコラボは絶妙だぞ」


「足りなかったら言ってね。卵はまだあるから」


「ところで沙耶。バイトの方はどうだったんだ」


「聞いてくれる?悠兄ちゃん」


「なんだ小鳥、やっぱりなんかあったのか」


「あったじゃないよ、すごかったんだから。サーヤってこの通りでしょ。でも流石に仕事だから、接客ぐらい出来ると思ってたのに……お客さんが何か尋ねてきた時、『私に聞くな、自分で探せ』って突き放すんだよ」


「やっぱりか……」


「それにね、トイレを借りに来たお客さんにも、『貴様の家にトイレはないのか』って」


 悠人が頭を抱える。


「当然だ。どこの世界に、コンビニで用を足すバカがいるのだ」


「だからサーヤ、それもコンビニのサービスなんだってば」


「明日、おばちゃんに謝っとかないとな……」


「最後にはもう立てないって言って、カウンターの中で椅子に座ってたんだよ」


「どんな店員だよ。で、クビにはならなかったのか」


「うん。おばちゃんも、『初めてなら仕方ないね』って言ってくれて、結局小鳥一人で走り回ってたんだから」


「おばちゃんは?」


「それがね、おばちゃんサーヤを気にいっちゃって、可愛い可愛いって言って、サーヤと一緒にずっとおしゃべりしてたんだよ」


「なんだそりゃ」


「でもね、お客さんの反応は不思議とよかったの」


「よかった?」


「うん。最初はサーヤの言葉や雰囲気にびっくりするんだけど、それが癖になってくみたいで、わざわざサーヤに話しかけに来る人もいるんだ」


「……ここの住人たちはドMなのか」


「とにかくだ」


 沙耶が口を開いた。


「遊兎、それに小鳥……ありがとうございます」


 そう言って、沙耶が二人に頭を下げた。


「今日は私にとって、記念すべき一日になった。生まれて初めて勤労の厳しさ、楽しさを知った。私は本当にここに来てよかったと思っている。遊兎よ、それに小鳥。お前たちには感謝してもしきれない」


「いや、勤労になってないぞ」


「朝起きて働いて、そして夜にはこうして皆で食事を楽しむ。これまでになかった喜びだ」


「続けていけそうか」


「うむ。足は痛いが、勤労後の食事がこんなに美味だとは知らなかった。これは病みつきになる」


「そうか。なら俺からも、おばちゃんに頼んでおくよ」


「サーヤ、明日も頑張ろうね」




 明かりのついた家に帰る。食卓で会話がはずむ。これまでになかった安息間。

 あらためて悠人は、この今のあたたかさがもう少し続いて欲しい、そう思った。

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