第34話 謎の美女・深雪 その3


「遊兎、遊兎……」


「……」


 悠人の耳元で声が聞こえる。


「遊兎、大丈夫か遊兎、目を覚ますのだ」


「……」


 悠人が目を開けると、心配そうに自分を見つめる沙耶の顔があった。


「沙耶……か……」


「遊兎、泣いているのか……」


「え……」


 頬に涙が伝っていた。沙耶が白く細い指でその涙を拭う。


「悲しい夢でも見たのか、遊兎……」


 沙耶が悠人の頭を優しく抱きしめた。


「いいんだぞ遊兎。悲しい時は、泣いてもいいんだぞ」


「沙耶……」


 また悠人の目に、涙が溢れてきた。


「だな……悲しい夢だったよ、沙耶……」


「そうか……」


「まだガキだったんだ……そんな言葉で誤魔化せたら、どんなに楽か……」


「遊兎……」


「やり直せるものなら、もう一度あの頃に……」


「いいのだ……分かってる、分かってるぞ、遊兎……」


 沙耶の優しい声、甘い香りに悠人の心が少しずつ落ち着いていく。


「……ああ……もう大丈夫だ。ありが…………ん?」


 悠人の頭が現実にシフトした。


「沙耶。ところでお前は何をしている」


「些細なことは気にするな。さあ、私の腕の中で、傷ついた心を癒すがよい」


 悠人の顔に暖かい肌の感触が伝わってきた。


 沙耶の生の胸だった。




「うぎゃああああああああっ!」




 悠人が飛び跳ねた。見ると沙耶は、全裸の上から昨日プレゼントしたダウンジャケットを着込んでいた。


「な、な、な、沙耶、お前、その格好は」


「ん?ああ、これか。いや、あまりにも着心地がよかったのでな、昨夜はこのまま眠ってしまったのだ。遊兎、改めて礼を言わせてくれ。こんなに軽くて暖かい服、私は初めてだ。ありがとう。どうだ、似合うか?」


 上機嫌な沙耶が悠人の目の前で立ち上がり、くるりと回った。裸エプロンの妄想はしたことがあったが、裸ジャケットは流石になかった。

 それが今、目の前で繰り広げられている。モデルは金髪の美少女。


「と、とにかく……何かちゃんと着てくれ!」


「悠兄ちゃん、どうしたの?」


「おお小鳥。おはようございます」


 裸ジャケットの沙耶が、そう言ってぺこりと頭を下げた。


「サーヤ、また悠兄ちゃんの布団にもぐってたの?しかもそんな格好で」


「うむ。遊兎の布団は……なかなか快適なのでな」


「悠兄ちゃんも、鼻の下のばして」


「ひっ……」


 また小鳥のプロレス技が炸裂すると、思わず悠人が頭を抱えた。


「あ……」


「え?」


 しかし悠人の予想に反して、小鳥は言葉を詰まらせた。


「小鳥?」


「……サ、サーヤは早く戻って着替えてきて。早くしないと、バイト初日から遅刻しちゃうよ。悠兄ちゃんも顔を洗ってきて。朝ごはん、もうすぐ出来るから」


 そう言うと台所に小走りで去って行った。




「……」


 火をかけたやかんを見つめながら、小鳥は両手を胸に当てて立ちすくんでいた。胸の動悸が治まらない。


(何これ……どうしちゃったの……なんでこんなにドキドキして……悠兄ちゃんの顔、ちゃんと見れないよ……)


 そして同時に、悠人の布団にもぐりこんでいた沙耶への複雑な思いが交錯した。

 それは、小鳥の中にこれまでなかった感情だった。


(胸が締め付けられて……苦しい……悠兄ちゃんをサーヤに取られてしまう気がして……何これ、何なのこれ……胸が……胸が痛いよ、お母さん……私、どうしちゃったの……)





 夕刻。

 バイトを終えた沙耶は、初めての仕事に少し疲れた様子で、先に家に帰っていった。

 今朝の感情にまだ違和感を感じていた小鳥は、すぐに帰って夕食の準備をする気分にはなれず、堤防に来ていた。


 茜色の空を眺めていると、再び悠人のことが頭に浮かんできた。


 いつも公園で遊んでくれた優しいお兄ちゃん。

 転んで泣いた時、優しく抱き上げてくれたお兄ちゃん。

 会えなくなってからも、事あるごとに手紙や電話をくれたお兄ちゃん。

 誕生日にいつもプレゼントを贈ってくれたお兄ちゃん。


 父親も兄弟もいない小鳥にとって、悠人は本当の父親であり兄のような存在だった。

 いつからだろう、その憧れの気持ちが恋へと変わっていったのは……小鳥が自問した。


 10年ぶりに会えた時、本当に嬉しかった。胸の高鳴りを感じた。抱きついた時、悠人のぬくもり、悠人の匂いに安心感を覚えた。それが「恋」なんだと、信じて疑うこともなかった。心から安心し、信頼出来る悠人の妻になることを想像し、心がときめいた。

 そして、悠人の前に現れる女性たちが、悠人に惹かれていくことを嬉しく思い、同じ男性に心奪われた者同士、仲良くなりたいと心から思った。


 しかし、今の自分のこの感情は何なのだろう。

 自分がこれまで想像していた以上に、優しい心を持っていた悠人。昨夜その思いに触れた時から、小鳥は明らかにこれまでと違う何かを感じていた。

 安心感は確かにある。悠人の大きな背中に憧れ、腕の中でぬくもりを感じたいと願っている。しかしそう思っただけで、小鳥の心は大きく揺れた。

 体が熱くなっていく。胸が締め付けられ、苦しくなる。

 そして、共に戦おうと誓い合った沙耶や弥生、菜々美が悠人と親密になることを想像すると、これまで感じことのない動揺を覚えた。何か分からないが、それが嫌な感情であることだけは分かった。




「はあぁ……」


 自然に出た大きな溜息。


 その時、ハスキーな女性の声が、小鳥の耳に入ってきた。


「溜息一つで幸せが一つ逃げていく。お母さんに教えてもらわなかったかい?」


「え?」


 辺りを見回すと、自分と同じく土手に座っている女性の姿が目に入った。


「あ……すいません」


「謝ることはないよ、乙女。君の年頃には、悩みも多いことだろう。だけど溜息には気をつけた方がいいと思ってね。

 溜息は『後悔』や『失望』がたまりすぎて、『諦めよう』『逃げよう』と、自分でも知らずの内に出した答えのようなものだからね。だから昔の人は『幸せが一つ逃げていく』という例えを残してくれたんだと思うよ」


 黒い大きな帽子を斜めにかぶり、コートを着込んだその女性が、小鳥の方を振り返ることなく話し続ける。長い黒髪が、時折風に乗ってなびく。


「そうなんですか……溜息にそんな意味、あったんですね」


「私の解釈も入っているけど、大きく外してもいないと思うよ」


 小鳥が立ち上がり、その女性の元へと近付く。見るとその女性は、画用紙に水彩の色鉛筆で絵を描いていた。夕焼けが映りこんだ川面。あたたかく優しい絵だった。


「すいません、隣……いいですか?」


「ああ、構わんよ」


「優しい絵ですね」


「ありがとう」


「……よくここに来られるんですか?」


「そうだね、ここの景色は好きなんだ。流れることを忘れているような穏やかな水面は、心を落ち着かせてくれる。忙しい時やちょっと疲れた時、ここに来て描くんだ」


「……分かる気がします……この川って本当、静かですよね」


「ここに来ると、自分が悩んでることや焦っていたことも、小さいことのように思えて来るんだ。自然はこんなに大きくて、穏やかであたたかい。自分の抱えていることの小ささを気付かせてくれる」


「悩んでいることが……小さい……」


「人間が抱えている悩みなんて、自然の前ではちっぽけなものだよ」


「私の悩みも……ちっぽけなのかな」


「多感な思春期は悩み多きものだよ。私が今言った『ちっぽけ』とは、この自然を前にした時の気持ちだ。君の悩みがちっぽけだなんて思わないさ。例えどんなことであれ、人は皆、その悩み一つ一つを乗り越えて大きくなっていくものだからね」


 画用紙に色を重ねながら、その女性が穏やかに話す。

 透き通るような白い肌。薄い唇に切れ長の瞳。座っていても分かるすらりとした長身の彼女は、どこかのモデルなんだろうか?小鳥はそう思った。




「あの……よかったら話、聞いてもらえませんか。お邪魔でなかったら」


「構わんよ。乙女の思索の腰を折ってしまったお詫びだ。たいした助言は出来ないが、話すだけでも心は軽くなるからね」


「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと待っててくださいね」


 その声に小鳥自身が驚いた。いつもの自分に少し戻ったような気がしたからだ。

 小鳥は小走りで近くの自販機に向かい、缶コーヒーを買うと再び彼女の元へと戻ってきた。


「授業料です、先生」


「授業……あははははは。乙女、君は面白いな」


「そうですか?」


「ああ、かなり面白いよ。いい魅力だ」

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