第33話 謎の美女・深雪 その2


 一ヶ月が過ぎた。


 あの後、小百合はサークルの合宿に行っていた。この間悠人は一人、自問自答を繰り返していた。


 自分にとって小百合とは何なのか。

 あの時、あまりに唐突だったこともあり、彼自身動揺してまともに頭が働かなかった。

 しかしこの一ヶ月、小百合のいないこの町で一人、結論を出すには十分な時間だった。



(俺にとって、小百合はかけがえのない家族だ。両親と同じく、この世で一番大切な存在だ。しかしそれだけなのか……

 違う……俺は自分の気持ちに気付かないふりをして、避け続けてきたんだ。恋愛をする恐怖に怯え、自分の心をだまし続けてきたんだ……)


 小百合のいない一ヶ月が、果てしなく長く感じられた。

 あの時見せた小百合の涙。言葉にこそしなかったが、自分を想ってくれる小百合の心。そう思うと、胸がしめつけられそうになった。



 物心ついた時から、ずっと一緒だった。

 初めは頼れる姉のような存在だった。何をしても自分よりもよく出来る姉だった。

 しかし、自分のいじめられる姿を見られたあの日。夕焼けに染まる帰り道で、初めて見た彼女の涙に、この人は本当は、こんなに儚くもろい人なんだ、そう感じた。あの時、俺が彼女を支え守っていこう、そう心に誓った。


 中学に入ると、いつの間にか自分の方が大きくなっていた。

 小百合はスポーツ万能でソフトボール部キャプテン。中学最後の試合で勝った時、ウイニングボールをプレゼントしてくれた彼女の笑顔がまぶしすぎて、思わず目を背けてしまった。その時の胸の高鳴りは、今でも覚えている。


 高校で練習中に脱水症状で倒れた時、拒む彼女を無理やりおぶって家まで帰った。今まで自分より頑丈だと思っていたのに、実は自分よりも遥かに小さく、か細い人なんだと知った。大切に大切にしないと壊れてしまうんじゃないか、そう思った。そして、背中に伝わる胸の感触に動揺した。

 自分の趣味をなんだかんだとけなしながらも、毎日のように家に来ては一緒に映画やアニメを見ていた。


(小百合は俺のことを理解しよう、俺をもっともっと知ろう、そう思っていた。しかし俺はどうなんだ?俺は本当に小百合を見ていたのか?小百合のことを理解しようとしていたのか……)


 これまでを振り返れば常に、悠人のそばに小百合がいた。小百合なしで、悠人の人生は成り立っていなかった。自分の人生は小百合と共にあった。

 そして悠人の考えは最後に、自分ですら目を背けていた事案へと向けられた。




 俺にとって小百合とは何なのか――




 今、小百合の隣には自分ではなく、自分の知らない男が立とうとしている。そう考えた時、悠人の中に言い知れぬ感情が沸き起こってきた。それは間違いなく「嫉妬」だった。小百合の隣に俺以外のやつが立つんじゃない、そう強く思った。


 悠人は小百合を、いつの間にか女として見ていた自分を強く感じた。

 小百合を守りたい。

 小百合を見ていたい。

 俺だけを見て欲しい。

 小百合を抱きしめたい。

 ずっとそばにいて欲しい――



「そうか……俺、いつの間にか小百合のことを……ごめんな小百合……俺、やっと自分の気持ちに気付けたよ……」


 そしてこの思いを、今すぐにでも小百合に伝えたい、そう強く思った。





 それから数日後、合宿から帰ってきたことを聞いた悠人は、小百合に連絡をとった。

 河原で一人待つ悠人。あの日と同じ場所、泣きながら去っていく小百合を追いかけられなかった場所。

 許されるものならば、悠人はここからもう一度、小百合と新しいスタートを切りたい、そう思った。


「おまたせ、悠人」


 背後で小百合の声がした。振り返ると、少し雪焼けしている小百合が笑顔で立っていた。


「ただいま」


 小百合が、缶コーヒーを悠人に渡して隣に座る。


「あ、ああ……おかえり」


 隣に座った小百合の匂いに、悠人はこれまでに感じたことのない動揺を覚えた。胸の動悸が治まらない。


(な……なんだ……いつもの小百合の匂いなのに、なんで俺はこんなに動揺してるんだ……)


「ねえ悠人、どう思う?似合うかな」


 そう言って小百合が、かぶっていた毛糸の帽子を脱いだ。その姿に悠人は驚いた。

 今まで背中の辺りまであった長い髪が、ばっさりと切られていた。


「……切ったのか」


「うん、あっちでね。私って、ずっと髪長かったでしょ。これって結構手入れ大変だったんだ。ソフトボールやってた時も思ってたんだけど、スキーしてたら本当邪魔に感じてね、この際だと思って切っちゃったの。流石に切る時は寂しかったけど……なんていうのかな、ニュー小百合?新しい自分よこんにちはって感じて、あはははははっ……先輩たちからも評判いいんだよ、これが」


 短くなった髪を触りながら、小百合が陽気に笑う。しかしその笑顔は、悠人の知っている小百合の笑顔には見えなかった。




「小百合……この前の話なんだけどな」


「え?あ、ああ、あれね。ごめんね悠人、何か悠人に心配かけたんじゃないかなって、私も気にしてたんだ。なんかさぁ、憧れの先輩に告白されて舞い上がってたんだと思う。なんかこう、感情に飲み込まれちゃったって言うか」


「俺の答え、今更だけど言っていいか」


「……」


「俺……あれから考えたんだ、お前のこと……お前にああ言われて初めて、自分の気持ちに向き合ったんだ」


「悠人……私……ね」


 小百合が立ち上がり、手を後ろに組んで川をみつめた。


「あの後、私も色々考えたんだ。自分の気持ちとしっかり向き合ったつもり。そしてね、答えを出したんだ。合宿に行く前に、先輩に返事したの。『よろしくお願いします』って」


「……」


「先輩、すっごく喜んでくれたんだ。サークルのみんなも、もう大騒ぎで大変だったんだから」


「小百合……小百合、俺は、俺の気持ちは」


「ごめん悠人!」


 小百合が悠人の言葉を切った。


「合宿で私……先輩と……」


「さ……」


「私もう……悠人の顔、ちゃんと見れないの……悠人以外の人と私……私……」


「小百合……」


「でもね、先輩の腕の中でも私、ずっと悠人のことを考えてたの……悠人じゃない人の腕の中で、ずっと悠人のことを考えてたの……その時私、泣いちゃって……先輩びっくりしてた。何も悪くないのに何度も謝ってくれて……その顔を見て思ったの。もう悠人のことは忘れよう、この人を見ていこう、愛していこうって……でないと私、悠人だけじゃなく、先輩まで裏切ってしまうって……」




 小百合の声は震えていた。


「俺は小百合のことが好きだ。やっと、やっと自分の気持ちに気付けたんだ」


 悠人も、いつの間にか泣いていた。


「もう……」


 再び悠人の言葉を切った小百合が、涙を拭いながら言った。


「もう遅いんだ、悠人……私は今、先輩と付き合ってる。だからお願い……それ以上言ったら私、今度こそ本当に、悠人も先輩も傷つけてしまう……」


 小百合が歩き出した。


「今までありがとね、悠人。本当、悠人にはすっごく感謝してる。これからも私、いつまでも悠人の幸せ、祈ってるから」


 悠人の涙が止まらない。小百合にかける言葉もみつからない。


(クソ!クソ!なんでだ、なんでこんなこと……こんなことに……俺のせいで、俺が臆病だったせいで、俺は小百合を失って、小百合は、小百合は……)


「悠人、ありがとう……さよなら」


 小百合が、その場から走り去っていく。

 悠人はその場で、肩を震わせ泣いた。




 小百合がくれた缶コーヒーは、冷たくなっていた。

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