第32話 謎の美女・深雪 その1


 その夜、悠人は川の土手で小百合を待っていた。


 大学に入ってもうすぐ一年になる。この一年、二人はこれまでにないぐらいすれ違った日々を送っていた。

 悠人は大学に入ってからも、自分のペースの生活を続けていた。年間に読む小説の冊数を決め、攻略するゲームの本数を決め、映画館に行く回数を決め、そしてアニメは基本全てをチェックする。

 月に一度プラネタリウムに行き星と触れあい、あとは健康維持のため、ウオーキングを始めていた。

 どちらにしても一般の生徒とは一線を画して、我が道を進んでいた。

 人と接触することで生じる責務や、関係が壊れることへの不安はこの年になっても拭われることなく、彼は以前にもまして自分の世界へと入っていった。

 一方小百合はサークルとバイトに明け暮れる、忙しい毎日を過ごしていた。




「ごめん悠人、遅くなっちゃった」


「遅いぞ小百合」


「ごめんごめん、出る前に先輩から電話がかかってきちゃって……ふうっ、走ってきたから疲れちゃったよ、あははっ」


「相変わらず忙しいみたいだな」


「まぁ……ね。はいこれ」


 小百合が差し出した缶コーヒーを受け取り、一口飲んだ。


「それにしても悠人、いい加減携帯持ったら?いまどき連絡先が家だけなんて、ほんと不便なんだから」


「いいんだよ俺は。携帯なんか持って、どこにいても捕まっちまう生活なんて、考えただけでもぞっとする」


「あったらあったで便利だよ」


「そんなもん持ってたら、一人の時間が台無しだ。大体俺に連絡してくるやつなんて、親父と母さん、それとお前ぐらいのもんだろ。それに基本、俺はいつも家にいるぞ」


「そうなんだけど……ね」


「携帯の話で呼んだんじゃないよな。何かあったのか、こんな時間に呼び出しなんて」


「……」


 急に小百合が黙り込んだ。変な沈黙、緊張感が二人を包む。その緊張感が悠人に、小百合がこれから話すであろう内容の重さを感じさせた。




「あの……ね」


 しばらくして小百合が話し出した。


「悠人……私たちって、子供の頃からずっと一緒だったじゃない」


「なんだ、薮から棒に……まあそうだな、最近は会う時間も少なくなっちまったけど、俺らが一緒にいた時間を考えたら、家族その物って感じだな」


「家族……」


 小百合がうつむき、つぶやくようにそう言った。


「悠人……私って、悠人にとって何なんだろう」


「俺にとって?」


「うん。私の隣にはいつも悠人がいた。そしてそれが当たり前だった……なのに大学に入ってから、私たちずっとすれ違ってるじゃない」


「でも、安心感はあるぞ」


「安心感?」


「ああ。家族ってそんなもんだろ。一緒にいても自然、すれ違っても自然。家族は離れ離れになることがないから。だから安心して、一緒に生活が出来る。俺にとっては親父と母さん、そしてお前は大切な家族だよ」


「……」


「決して損得の関係じゃない。何があっても裏切らないし、何があっても信頼出来る。俺にとっては小百合も、大切な家族なんだ……が……」


 小百合はうつむいたまま、肩を震わせていた。


「どうした。何か俺、悪いこと言ったか」


「悠人は……悠人はやっぱりそうなんだよね……私のこと、家族としてしか見てないんだよね」


「……」


「私、前に話したことあったでしょ、サークルの柴田先輩のこと。人気者の先輩」


「……ああ、覚えてる」


「その柴田先輩に今日……告白されたんだ」




 その言葉に、悠人の頭の中は真っ白になった。全身の血が逆流し、胃が締め付けられ、息も出来なくなった。


「……ずっと私を見ていたって。初めは可愛い後輩だったんだけど、いつの間にか恋に変わってた、この気持ちをもう抑えられないって……付き合って欲しい、そう言われたの」


「……お前は……なんて」


「返事は待ってもらってるの。いきなりだったし、しっかり考えたいと思って……それで今日、自分の気持ちを確かめたくて、悠人に会おうって思ったの」


「……」


 この時の悠人はまだ、小百合に対して恋愛感情を持っていたとは言えなかった。

 だがそれは、いつまでも小百合が自分のそばにいてくれると言う、何の根拠もない思い込みが前提のことだった。小百合が他の男と恋愛関係になることなど、考えたこともなかった。


「悠人……もう一度聞かせてね。悠人にとって私って……なんなんだろう……」





 悠人は混乱した。

 いつまでも仲のいい幼馴染でいよう、そんな夢物語を語れる年でなくなってきたことは分かっていた。だが悠人は、そのことを考えないようにしてきた。

 しかし今、突然その時がやってきた。そのことを恨めしく思った。そしてそれは、柴田なる男への憤りにもなっていった。


 柴田は確かに、小百合のことが好きなんだろう。思い、悩み、時間をかけて自分の心と向き合い、結論を出して告白したのだろう。


 だけど俺はそうじゃない。

 今、いきなり柴田の告白のおかげで、俺には何の了解もなく、考える時間すら与えられずに結論を出せという。何て勝手なんだ、柴田ってやつは……と。


「私ね……先輩から告白された時、正直嬉しかったんだ。先輩は大学でも人気者で、しょっちゅう他の女子から告白されたりしてる。なのに、私なんかを好きになってくれた。

 告白してくれている時の先輩の目は、本当に真剣だった。だけど私はその時悠人……悠人のことが頭から離れなかったんだ」


 その先は言わないでくれ、今の俺にはまだ言わないで欲しい……悠人が心の中で叫んだ。


 悠人にとって小百合は、本当に大切な人だった。だがそれは、家族としての愛情だった。家族なら離れることはない。しかしそれが男女の関係になると、いつか壊れてしまうかもしれない。だから悠人は小百合のことを、一人の女性として見ないようにしてきた。

 卑怯で自分勝手な言い訳なのは分かっていた。しかし悠人にとって小百合は、絶対に失いたくない大切な人だったのだ。


 今まで目を背けてきた結論を出すには、余りにも時間が足りない。しかし今、小百合はその答えを待っている。小百合は自分に対して、男としての答えを望んでいた。




「よ……」


 悠人の口が自然と開いた。


「よかったんじゃないか」




 その言葉を発した瞬間、悠人は自分自身に対して怒りの衝動が湧き起こった。自分を殴り飛ばしたくなった。


 何を、何を言ってるんだ!何を言ってるんだ俺は!


 しかしそんな自分をあざ笑うように、思ってもいない言葉が虚しく続いていった。




「柴田ってやつ、いいやつそうじゃないか。何よりお前が言ったように、お前みたいなやつのこと、そんなに真剣に好きになってくれたんだろ。悩むことなんてないんじゃないか」


「……」


 悠人の言葉に、小百合は無言でうつむいた。やがて顔を上げると、小百合は星を見上げた。


「さ……」


 小百合は笑っていた。しかしその笑顔は、これまでに見た事のない、寂しく哀しいものだった。




 頬には涙が伝っていた。




「そっか……そうだよね、あんないい先輩に告白されるなんて、私ってやっぱ、いい女だったんだよね」


 大きく深呼吸をすると、頬の涙を拭って言った。


「ごめんね悠人、変な話聞かせちゃって」


 小百合が立ち上がり腰の砂を払った。


「私決めたよ。柴田先輩と付き合う」


「……そっか」


「うん。悠人も頑張るんだよ。いつまでも家にこもってないでさ、外に目を向けてごらん。周りにはいい子、いっぱいいるんだからさ。好きな子が出来たら相談はいつでも受けるし。なんたって私は、悠人より恋愛の先輩になるんだからね」


 違う、小百合、違うんだ。俺が言いたかったこと、望んでることは、そうじゃない、そうじゃないんだ……その思いに、胸の中が張り裂けそうになる。しかし臆病な気持ちがそれらを飲み込み、空虚な言葉を吐き出していく。


「頑張れよ」


「うん。じゃあ私、帰るね」


「送ろうか」


「ううん、まだ頭に血がのぼってるし、ちょっと夜風にあたって帰るから。冷まして帰らないと、家の中で爆発しそうだからね。なんたって私、恋する乙女だもん」


「なんだよそれ」


「じゃね、悠人。話聞いてくれてありがとう」


「ああ、じゃあな」


 小百合が小走りにその場を去っていく。

 小百合を追いかけたい衝動、行くなと叫びたい衝動が湧き上がってくる。しかし悠人は動けなかった。ただ小さくなっていく小百合の後ろ姿を、いつまでも見つめ続けることしか出来なかった。




 小百合は振り向くことなく走った。拭っても拭っても、涙が止まらなかった。

 悠人は最後まで自分に、好きだと言ってくれなかった。

 ずっと自分の中で大切にしてきた、恋の終わりだった。




「悠人のバカ……あれだけアニメ見てる癖に、幼馴染の気持ちぐらい分かってよ……」


 電柱の前にうずくまり、小百合は声をあげて泣いた。

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