第20話 悠人争奪戦開始 その5


 風呂からあがると、沙耶も小鳥の部屋に入っていった。何やらこそこそと話をしている。悠人はそのことには突っ込まず、煙草をもみ消すと、


「二人とも湯冷めするなよ」


 そう言って風呂に入った。


 小鳥が来てからというもの、悠人は毎晩湯につかっていた。浴槽に湯をはるのは年に一度か二度だった彼だが、いつの間にかその習慣が日常になっていた。

 冷えた体で湯船に入った時の感覚は、確かに贅沢この上ない物だ。目の辺りに水で濡らしたタオルを置き、そのまま肩まで湯船につかる。


(あさっては沙耶の引越しか……人の引越しの手伝いなんて、小百合が田舎に引っ越した時以来だな……沙耶のやつがどんな家具を持ってくるのかも気になる……まさかプリンセスバージョンのベッドとか来るんじゃないだろうな……それと……ここしばらく小鳥をほったらかしだから、明日は仕事が終わったら早めに帰って、ゆっくり付き合ってやるか……)


 湯船から出て体を洗い出したその時だった。勢いよくドアが開かれたかと思うと、小鳥と沙耶が乱入してきた。




「どわああああああっ!」




 悠人が前を隠しながら絶叫する。見ると二人とも、どこから持ってきたのかスクール水着を着ていた。


「お、お、お、お前ら」


「悠兄ちゃーん、今日は美女二人でご奉仕してあげるよ」


 沙耶は胸の辺りを両手で隠し、もじもじしている。


「おい小鳥……こ、これはさすがに少し……恥ずかしいのだが」


「だったらするなよ!」


「可愛いから大丈夫だよ。胸の辺りにゼッケンつけて、平仮名で『ほうじょうさや』って書いたら完璧、悠兄ちゃんのストライクゾーンだよ」


「意味不明だ小鳥!」


「いいからいいから、さあ悠兄ちゃん、美女二人がお背中流しますよー」


「小鳥、私は背中を流させたことはあるが、他人の背中を流した経験などないのだが……」


「大丈夫だってサーヤ。これは男の人にとって究極の夢なんだから」


「そうか、ならば是非もない。何事も経験だからな。それから遊兎、あまりじろじろ見るでない」


「いやいやいやいや、この状況で恥ずかしがられても困るぞおい。それにまじまじと見てるのはお前だ沙耶。39のおっさんの裸を凝視するな」


「いや、これはすまない……だが遊兎、男の裸体など私は子供の頃、お父様と一緒に入浴した時に見たぐらいだからな……その……色々と興味はあるのだ」


「その目をやめろ、視姦するな!」


「いや……しかしなんだ、その……男の背中というものは……大きいものだな」


 沙耶が泡のついた手で悠人の背中を撫でていく。


「ひゃあああああああっ!」


「ずるいサーヤ、私だって!」


 小鳥も両手に泡をいっぱいつけると、悠人の背中を撫でだした。


(理性が……俺の情けない理性が……)


「今思いついたぞ。手で洗うには背中が広すぎる」


 そう言うと沙耶はボディソープを手にすると、それを自分の体につけだした。


「これぞまさしく、ボディソープだな」


 そのまま悠人の背中に抱きつくと、体を上下に動かしだした。


「どうだ遊兎……いや、主人よ」


 赤面した沙耶が、上気した声で耳元でささやく。


「む……胸、胸が当たって……」


 悠人のむなしい抵抗が、沙耶の上下運動でかき消されていく。小鳥も負けじとボディソープをつけ、同じく悠人に抱きついた。


「悠兄ちゃん、小鳥と結婚したら毎日こうやって洗ってあげるからね」


 反対の耳元で小鳥がささやく。


「こ……」


 悠人が体を痙攣させながらうなる。


「これって俗に言うところの……泡踊り……」


「どうだ、気持ちいいか、主人よ」


「悠兄ちゃん、小鳥、いい奥さんになれるかな」


「た……たすけてくれえええっ」





『オムライス』の項目に丸をつける。


「今日も一つ丸がついたよ、お母さん」


「小鳥日記」を書き終えた小鳥が、窓から夜空を見上げてつぶやいた。日記を片付け、ホットミルクを口にする。


「悠兄ちゃんの家に来てまだ一週間なのに、もう何ヶ月もここに住んでるような感じだよ……それに友達が二人も出来たよ。毎日楽しくやってるから、心配しないでね」


 最後の一口を飲み干すとカーテンを閉め、布団にもぐりこんだ。


「明日もいいことありますように……って、きっと楽しい一日になるよね。だって悠兄ちゃんと一緒だから」


 再びそうつぶやき、悠人の匂いのする布団に顔をうずめた。





(またか……)


 気配を感じた悠人が、目をつむったまま身構える。


 沙耶だった。寝たふりを続けていると、そっと枕を置き悠人の布団に潜り込んできた。


「おい」


「ひゃっ……」


 悠人の声に、沙耶が声にならない声でそううなった。


「な……なんだ遊兎、まだ起きていたのか」


「起きてたかじゃないぞ沙耶。なんでまた、お前はここに来てるんだ」


「ビルが……」


「ビルが来るまでここで寝るつもりか」


「そ……そう言うな遊兎、別によいではないか。いかがわしいことをする訳でもなし」


「当たり前だ」


 もう寝てるだろう小鳥に気遣いながら、小声で沙耶の方を向いた。


「……!」


 息がかかるほどの距離に沙耶の顔があった。その近さに思わずとまどったが、暗さに目が慣れてきた悠人が見たものは、涙をいっぱいにためた沙耶の瞳だった。


「……か……勘違いするな遊兎、こ……これはその……違うのだ」


 涙を見られた沙耶が、顔を真っ赤にして慌てて涙を拭く。


「これは……そう、ビルにナパーム弾を落とされた夢を見てだな……その……なんだ……硝煙で目がやられて、ガソリンの匂いで鼻をやられてだな……それで目が覚めたらこんなことに……」


「ぷっ……」


「お……お前、何を笑うか何を。ここは笑うところではないぞ失敬な」


「なんてディープな言い訳をしてるんだよ、お前」


「い……言い訳ではない。ほんとにその……ビルのことを考えてたらこんな……こんなことに……」


「分かった分かった」


 まだ笑いながら、悠人が言葉をさえぎった。


「要するにお前は、カーツの次に大好きなビルの夢を見て目が痛くなったんだな」


「そうだ、分かればいいのだ分かれば」


「で、それと俺の布団に入ってくるのと、何の関係があるんだ?」


「……お前は思っていたより意地悪なやつなのかも知れんな」


 沙耶が口を尖らせた。


「はははっ、すまんすまん」


 布団から手を出して沙耶の頭を撫でる。


「ふぎゃ……」


「しょうがないやつだな、ちゃんと布団かぶれよ。風邪ひくからな」


 にっこり笑い「おやすみ」そう言って向こうを向いた。


「遊兎……」


 気がつくとまた涙があふれてきていた。沙耶自身も、この涙の意味がよく分からなかった。


 寂しいから?怖いから?遊兎のあたたかさが嬉しいから?遊兎のぬくもりが心地いいから?


 そう自問しながら沙耶は、悠人の背中に擦り寄るように身を寄せ、目を閉じた。


(あたたかいな、遊兎の背中は……)


 その時、今度は沙耶が何かの気配を感じた。見上げると、枕を抱いた小鳥が立っていた。小鳥は人差し指を立てて口元に置くと、にっこり微笑んで沙耶と反対方向、悠人の隣に枕を置いた。


「どわっ!なんだ小鳥、まさかお前も」


「折角だからみんなで寝ようよ」


「あ……あのなあ……」


 そう言いながらも、なぜか悠人もそうするのが一番いいような気になっていた。三人が別々の部屋で寝るのではなく、同じ部屋で枕を並べるのも悪くない。二人とも、なんだかんだ言って寂しいんだろう、そう思った。それに悠人自身もなぜか、この状況を望んでいたように思っていた。


 これまで一人での生活、一人の夜が当たり前だったはずなのに、この一週間の生活の中で、一人じゃないことに馴染んでいる自分を感じていた。そしてそう思った時、同じ家にいながら別々の部屋で寝ていることに、変な寂しさを感じていたのだった。


 夜になると、妙にこの部屋が広く感じられていた。だから沙耶が潜り込んでくることにも、小鳥が一緒にやってきたことにも怒る気にはならなかった。二人が年頃の娘だということを除けば、ごく当たり前のことだと思った。


「サーヤだけずるいよ。悠兄ちゃん、一緒に寝たいのは小鳥も一緒なんだよ」


 首を少し傾け小鳥が小さく笑った。


「小鳥もずっと我慢してるんだよ、悠兄ちゃん」


「またお前はそうやって……小悪魔的に笑いやがって」


「えへへへっ」


「布団、ここに並べるか」


 そう言って小鳥と沙耶の部屋から布団を持ってきた。流石に三つ並べるには無理があり、端は折れ曲がり間は重なった。


「ま、しゃあないか」


「こんなのもいいよね」


「庶民の夜だな、なかなかいいぞ」


「じゃあ電気消すぞ」


「はーい」


 電気を消すと三人が並んで布団にもぐった。


「これって川の字だよね」


「なんだ小鳥、その『川の字』とは」


「ほら、三人が並んで寝てる姿が漢字の『川』みたいでしょ」


「おお、なるほど。それは何か、貧乏な庶民が狭い部屋で一緒に寝るしかなく、その姿を惨めに思わないよう、そういった言葉で慰めてるということなのか」


「まあ……そんなところだね」


「おい小鳥、そこはしっかり否定しとけよ。また間違った知識をインプットしちまうだろ」


 その時悠人の右手にぬくもりが伝わってきた。小鳥の手だった。


「悠兄ちゃん、手をつないで寝よ」


「それはつなぐ前に言うこと……」


 左手を沙耶が握ってきた。


「……」


 悠人の両手に、これまで感じたことのなかったぬくもりが伝わってきた。どちらも小さい手だった。でもあたたかい、確かなぬくもりだった。沙耶の方は少し震えているようだった。


(まだ……不安なんだな、こいつ……)


 悠人が少し強く握り返すと、一瞬沙耶の体がピクリとした。だがその後安心したのか、震えは収まっていった。右手にも力をこめた。すると小鳥も、力をこめてきた。





(大好きな悠兄ちゃんの匂い……今日はこんなに近くに感じる……)


(なんだこの、変な安心感は……遊兎に手を握られているからなのか……)


(お休み小鳥、沙耶……)

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