第12話 後輩・菜々美 その3
帰宅すると、すでに小鳥が夕食の準備を終えて待っていた。
「おかえりなさーい」
小鳥が元気な声で悠人を迎える。その言葉は長年一人暮らしを続けてきた悠人にとって、少し照れくさく感じる言葉だった。
電気のついた家に戻るのも、そしてドアを開けた時に鼻をついた味噌汁の匂いも、全てが新鮮で心温まるものだった。
「ただいま。小鳥も今日はお疲れだったな」
手を洗いながら悠人が話しかける。そして台所に入ると、テーブルに並んだ夕飯と、エプロン姿の小鳥が目に入った。
(小百合……)
悠人が一瞬、小鳥と小百合の姿を重ねてしまった。その瞬間、小鳥が悠人に抱きついてきた。
「おかえりなさい、悠兄ちゃん」
その時そこに、もう一人の声が響いた。
「小鳥さん、いきなりなんと、うらやまけしからんことを」
その声に振り返ると、そこには同じくエプロンをした弥生がいた。
「……私めもっ!」
そう言うと、弥生も悠人に抱きついてきた。二人の重みに、悠人がその場に崩れた。
「どわっ!」
「おかえりなさいませ、悠人さん」
赤面しながら、そう言って弥生が悠人にしがみつく。
「今日も一日お疲れ様でした。それで……どうなさいます?弥生にします?弥生にします?それとも……や・よ・い?」
三人がテーブルを囲む。ニコニコしている小鳥とは対照的に、弥生は顔を真っ赤にしていた。悠人も弥生から抱きつかれて気が動転していた。
「いっただっきまーす」
小鳥がその場の空気そっちのけで夕飯を食べだした。
「労働の後のご飯はおいしいね、悠兄ちゃん」
「あ、ああ……」
悠人も動揺を隠しながら、食事を始めた。小鳥は、今日一日のバイトの話を嬉しそうに話してくる。
「それで……」
食事も終わり、お茶を入れたところで小鳥が言った。
「今日は弥生さんから悠兄ちゃんに、重大な報告があるそうです、こほんっ」
小鳥がそう言うと、弥生はまた顔を真っ赤に染めた。そう言えば抱きついた後から、ずっと弥生は無口だった。
「弥生さん♪」
もじもじしながらうつむいている弥生に、小鳥が声をかけた。
「……小鳥さん、やっぱ無理かも」
「あ、なら私が言っちゃおうかな」
「そ、それは駄目っ」
小鳥の言葉に弥生が慌てた。明らかにいつもの弥生と違う。
「弥生ちゃん本当、どうしたんだい?顔もずっと赤いし、熱でも……」
と言って悠人が弥生の額に手を当てた。
「ひゃうっ!」
悠人の手が当たるや否や、弥生がエビのように体をぴょんと浮かした。
「あ、ごめんごめん」
悠人も罰悪そうに頭をかいた。
居心地の悪い空気が辺りを包む。なんとかこの空気を変えないと……そう思って悠人が再び弥生の方を向くと、弥生の右耳に光るイヤリングが目に入った。これだ……!
「弥生ちゃんのイヤリング、ダークナイトのキラだね」
「さすが悠人さん!」と言葉が返ってくることを期待した悠人だったが、その期待は裏切られた。弥生はますます赤面してうつむいてしまった。
「……」
気まずい沈黙がリビングに重くのしかかっていた。
「駄目……駄目駄目駄目、やっぱこんなの、私らしくない!」
空気の悪さに耐えられないのは、それを作り出した弥生もまた同じだった。
弥生がずずっと、まだ少し熱いお茶を飲み干した。
「やたっ、弥生さんガンバっ!」
「悠人さん、私こと川嶋弥生、今日は大事なお話があってこちらに参上致しました」
熱い視線に悠人が少したじろいだ。
「すでに小鳥さんにはお話済みです。悠人さん、今から私めが話すこと、どうか真剣に聞いていただきたく」
緊張からか変な言葉使いになっているが、弥生の真剣な雰囲気に、悠人も一口お茶を口に含むと姿勢を正した。
「なんだか分からないけど、真面目な話のようだね。分かった、俺も真面目に聞くよ」
「ありがとうございます、悠人さん」
大げさに頭を下げ、そして深呼吸をすると、悠人の目をしっかりと見据えて口を開いた。
「悠人さん、好きです!」
悠人の頭の中が真っ白になった。
……弥生ちゃんはお隣さんで、メガネをかけたヲタっ娘で……いつもアニメ話に華を咲かせてかれこれ一年……気兼ねなく話せる可愛い妹みたいな女の子で……その子が今俺に、何て言った……スキ……すき……好き……
「ええええええええっ!」
「やたーっ!弥生さん、言ったーっ!」
小鳥が大喜びで手を叩いた。
「悠人さんの家に初めておじゃました日から、ずっと悠人さんのことが気になっておりました。いつも会うたびにドキドキしてました。でもそれが恋なのかどうか、自分でもよく分かりませんでした。
ですが昨日小鳥さんから、悠人さんの奥さんになるために来たと聞いた時、自分の中にこれまであった気持ちが爆発しそうになったのを感じました。憧れ、独占欲、嫉妬……それらをつなぎ合わせた時、この気持ちが悠人さんへの恋心なんだと気付きました。そう思ったらいてもたってもいられなくなって……
今日小鳥さんに打ち明けました。そうしたら小鳥さん、こう言ってくれたんです。『ようこそ
「小鳥は3ヶ月の期限付きだけどね」
小鳥がそう言って小さく笑う。その小鳥に弥生が抱きついた。
「あーっ、やっぱり小鳥さん、かわいくていい人ですーっ!」
「きゃーっ!弥生さーん!」
女二人が目の前で抱き合っている。その姿を悠人はいつの間にか、頬杖をつきながら微笑ましく見ていた。
「で、悠兄ちゃん。弥生さんの告白、どうするの?」
小鳥がにんまりとしながら悠人に言った。
「20も年の離れたピッチピチの女の子からの告白だよ。しかもメガネっ娘だよ。巨乳だよ。ヲタクだよ、料理うまいよ。どうする、どうする?」
「答える前に」
悠人が小鳥の言葉を遮った。
「お前、俺の嫁になるとか言っておきながら、なんで人の告白の応援してるんだ?」
「なんでって、応援したかったからだよ」
「え?」
「小鳥、弥生さんの気持ちすっごく分かるから。私もずっとずっと、悠兄ちゃんのことを考えてきた。会えなかったけど、入学の時に電話くれたり、誕生日にプレゼント贈ってくれたり……その度にいつも、悠兄ちゃんへの気持ちを自分で確認してた。私は悠兄ちゃんのことが大好きなんだ、そう思ってきた。だから弥生さんが悠兄ちゃんのことを好きになる気持ち、すっごく分かるの」
「でも普通、自分の恋敵になる子の応援、するか?」
「弥生さんのことも好きだから。それに応援したのは告白のことだし。小鳥、一人で抜け駆けして悠兄ちゃんを独り占めになんてしたくない。
どんな人が悠兄ちゃんのことを思っていても、小鳥が一番悠兄ちゃんのことを好きだって自信を持ってる。だからライバルにも同じスタートラインに立ってもらって、一緒に走りたいの」
「やっぱり小鳥さん、好きです私」
弥生が手を握り瞳をうるうるさせる。告白が済んで力が抜けたのか、弥生もいつもの雰囲気に戻っていた。
「そっか……そんな所も小百合そっくりだな、お前」
再び小鳥の頭に手をやり、髪をくしゃくしゃとする。
「さて……」
悠人が弥生の方を向いた。
「弥生ちゃん、いきなりの告白には驚いたんだけど、その……ありがとな」
「なんで悠人さんがお礼を……そんな、私こそ、告白を聞いてくれてその……ありがとうございます!」
弥生がまた赤面し、頭を下げた。
「昨日帰る前に言ってたのは冗談かと思ってたんだけど、まさか本当だったなんて……正直びっくりしてるし、なんか……照れるよね」
「あ……はい……私もこんな形での告白になるとは思っても見ませんでしたし、でも昨日だけで終わってたら、悠人さんが言った通り、勢いで口走ったただの冗談で終わってしまいそうで……それも嫌だったんです」
「そっか……じゃあ、弥生ちゃんが告白してくれたことに、俺も真剣に答えるね」
「はい、よろしくお願いします!」
「俺に告白してくれた女の子は、小鳥も入れたら三人いる」
「そうなんだ。あと一人って、学生時代とか?」
「いやそれも最近……なんだけどな」
「と言うことは……」
小鳥の目が鋭く光る。
「今も身近にいるってことだよね……」
「まぁそれはいいじゃないか。それこそその人の思いだし、その人のことを今ここで言う気はないから……で、その人に言ったこととダブるかもしれないんだけど……」
煙草に火をつける。
「俺、40になろうかってのに、恋愛ってのがまだよく分かってないんだ。今までずっと一人で生きてきたし、空想の中だけで十分満足してたから。
世間から見れば欠陥人間かもしれないけど、少なくとも俺はそうやって生きてきたし、これからもそうなんだろうって、ずっと思ってた。
遠い昔にただ一人だけ、女性として好きになった人はいたけど……まぁそれが、小鳥の母さんなんだけどな」
「そうなんだよね、小鳥、自分の母親ながら嫉妬全開だよ。それにこんないい男を振るなんて、本当母さん、男を見る目がないんだから」
腕組みをして、自分の言葉に納得するかのように小鳥がうなずく。
「でもおかげで、小鳥が悠兄ちゃんのお嫁さん候補になれたんだけどね」
そう言って腕にまとわりついてきた小鳥に、
「わたっ、火、火」
と慌てて悠人は煙草の火を消した。
「で……だから弥生ちゃん、それから小鳥も聞いて欲しい、今の俺の素直な気持ちだ。俺のことを思ってくれる気持ちは嬉しい、本当だ。俺も弥生ちゃんのこと、小鳥のこと、大好きだ。でもそれは、女性としてのものじゃなく家族として、友人としての愛情だと思ってる。
それに俺自身、まともな経験もないし、恋愛をしていく自信もないんだ。だから出来れば、今の関係が居心地いいんだ」
自分で言いながら、優柔不断で勝手な言い草だと思っていた。だが、こと恋愛に関してだけは、悠人は極端に臆病になっていた。小百合との過去、小百合への思いが清算できない限り、次の恋愛に進むことなど考えられなかった。
(嫌われただろうな……)
そう思って悠人が目を開くと、瞳をキラキラと輝かせて自分を見つめている弥生と目があった。
「悠人さん!」
「あ……は、はい」
「ありがとうございます!私の告白に対してそこまで真剣に考えてくれた……そこまで真剣に語ってもらえて、弥生はそれで十分です。勿論、告白したからにはこれからが勝負、私は今日この時より小鳥さんに宣戦布告し、必ずや悠人さんの心をつかんでみせますです。でも今日は……今は悠人さんのその真剣なお気持ちを頂けただけで十分です」
「だよね、弥生さん」
「小鳥さんもお力添え、ありがとうございました。これからは共に恋敵として戦うことになりますが、一友人としてのお付き合いの方も、なにとぞよろしくお願いしますです」
二人が手を握り合う。
「こちらこそよろしく、弥生さん。同じ人を好きになった者同士、きっと仲良くなれると思う。
……それにしてもやっぱ、お母さんの言った通りだったよ。悠兄ちゃんって、ほんとにお母さん一筋なんだから。これはまた作戦を考えないと……やっぱ女の魅力ではお母さんに負けるから、こっちは若さで誘惑していくしかないかな」
「悠人さん、巨乳はここにいますよ」
「小鳥は貧乳だけど、小鳥の見立てでは……多分悠兄ちゃんは貧乳属性だから大丈夫」
「な、なんですと」
「お母さんも胸、そんなに大きくなかったしね」
「……あのなぁお前ら、告白した男の前で何の話をしとるんだ」
「いえ悠人さん、女にとって殿方の属性のチェックは必須事項ですから」
「でももし悠兄ちゃんが巨乳好きだとしても、小鳥の胸はまだ育つかもしれないし。でも貧乳属性なら弥生さんはどうしようもないしね」
「な……小鳥さん、それは言ってはいけないことだとあれほど」
「だーかーらー」
二人の会話に悠人も笑ってきた。
「嘘でも告白した男の前で、乳の話で盛り上がるなって」
「悠兄ちゃん、笑いながら怒ってる」
「いえ悠人さん、これはですねその、女子にとっては非常に大事な大事な問題でして……」
その日、遅くまで悠人の家では笑い声が絶えなかった。
日課であるウオーキングには、弥生も参加した。途中で何度もへばる弥生にペースを合わせながら、三人は河川敷を歩いた。
そしてその後、弥生は告白の任務を完了した自分への祝砲として、またロケット花火を打ち上げた。
こうして小鳥が来てからの数日、弥生も巻き込んでの騒がしい日々が続いた。
これまで人との関わりを最小限にしてきた悠人にとって、それは新鮮で楽しい時間だった。人との関わりがおっくうだった悠人も、そのことが不思議でならなかった。
それは小鳥にかけられた魔法かも……そんな気がしていた。
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