第10話 後輩・菜々美 その1


 翌朝。悠人が布団をたたんでいると、小鳥が部屋に勢いよく入ってきた。


「悠兄ちゃん、なんで普通に起きてるのよ」


「なんだ、朝からいきなり」


「今日から仕事だから、目覚まし止めて二度寝する悠兄ちゃんの布団をはだけて『起きろーっ、早く起きないと遅刻するよー』ってするのが夢だったのに」


「いやだから、朝からそんな幼馴染ネタはいいから……な」




 朝食を済ませると、ジーパンにパーカー、その上にジャケットの軽装で小鳥が玄関に向かった。


「また夜に会おうね、悠兄ちゃん。いってきまーす」


 それから30分ほどして悠人も部屋を出ると、まずコンビニに向かった。


「あら悠人くん、おはよう」


「おばちゃん、今日からその……うちの小鳥がお世話になります」


「まかしといて。おばちゃんも久しぶりに若い娘が入ってくれて喜んでるんだから。それより悠人くん、小鳥ちゃんから聞いたわよ。あの娘、悠人くんのお嫁さんになるんだって?」


「あ……いやあのそれは」


「ちょっと年が離れてるけど、まあでも20ぐらい最近じゃ普通だし、気にすることなんかないわね」


「いやだから、その……」


「でもおばちゃんびっくりしたわよ。悠人くんのお嫁さんはてっきり弥生ちゃんだと思ってたから」


「とにかく」


 悠人が赤面で話をきった。


「今日から小鳥のこと、よろしくお願いします」


 そう言うと悠人は、栄養ドリンクを一本買って逃げるように店から飛び出した。


 自転車を走らせ駅に近づくと、駅から出てくるサラリーマンにちらしを配っている小鳥が目に入った。


(ちらし配りか……頑張れよ、小鳥……)





「おはようございます、悠人さん」


 悠人が事務所に入ると、机を拭いていた菜々美が笑顔で挨拶してきた。


「悠人さん、ジェルイヴ見ました?」




 菜々美は、この町工場に入社して3年になる。

 女性といえば経理担当の社長の奥さんただ一人。定年間近の工場長に、作業員も50代が3人。一番年齢が近いのが悠人だった。

 当時23歳だった菜々美は、悠人が自分より5歳ぐらい年上だと思っていた。そしてある時、彼の年齢が自分と一回りも違うことに驚いた。


 現場だけでなく事務仕事も任されていた悠人が、必然的に菜々美の世話係となった。

 入社当時は初めてのことばかりで不安いっぱいだったが、自分のことを可愛がってくれる社長夫妻や現場の人たちのおかげで、次第に職場が居心地のいい場所になっていった。そして優しく、丁寧に仕事を教え、力になってくれる悠人に好意を持つようになっていった。悠人も、一人奈良から大阪に出てきた菜々美を、妹のように可愛がっていた。


 菜々美の悠人への思いは少しずつ強くなっていき、自分に興味を持ってもらおうとアピールするようになっていった。しかし悠人の菜々美に対する態度は『妹』の域を出ず、菜々美が望む展開にはほど遠い状態が続いていた。




 菜々美はそれとなく社長の奥さんに探りを入れてみた。悠人はどんな女性に興味があるのか、そしてどんなことに興味を持っているのか。その時社長の奥さんは笑いながら言った。


「工藤君は難しいかもよ。彼は……ヲタクっていう人らしいの。大学を出てからずっとここで働いてもらっているけど、あの子に女の子の話って全然出てこなかったしね。確かヲタクって、普通の女の子には興味がないんでしょ」


 菜々美の目の前が真っ暗になった。憧れの人がヲタクだったと聞かされたのだ。彼女のショックは計り知れなかった。




 奈良の温泉街で生まれ育った菜々美の周りには、ヲタクと言われる人種はいなかった。いや、いたのかもしれないが、少なくとも菜々美は分からなかった。

 テレビやネットで彼女が知るヲタクとは、二次元の女性をこよなく愛する変な人たちで、社交性や協調性のない異人種だった。世間が伝えるヲタクのイメージ、気持ち悪く、家に引きこもっている醜悪でいびつな存在。彼女はそのイメージを真に受けていた。


 菜々美はしばらくの間、悠人を観察することにした。自分が知るヲタクと悠人が同じ物なのか見定めるためだった。

 ヲタクと聞いて、世間から与えられた先入観から悠人への憧れが覚めていく自分を感じてもいたが、しかし本当の妹のように接してくれて、いつも優しい悠人を諦めきれない自分がいたことも確かだったからだ。


 観察を続けていくうちに、自分が知るヲタクとは違う、二次元の世界に対する『好き』という気持ちを持ち続けて大人になっただけの人なんだ、そう感じるようになっていった。




 菜々美は悠人と同じ土俵に立つために、アニメの世界へと足を踏み入れる決意をした。男心をつかむために必要なのは、胃袋をつかむことと、好きな物を理解する寛容な心だと思ったからであった。


 しかしアニメの世界に興味がなかった菜々美にとって、その世界は思っていた以上にハードルの高い世界だった。


「なんでこんなに目が大きいの?」


「なんで髪の色がピンクなの?」


 何から見ればいいのかも分からず、手当たり次第に見ていくことにしたが、深夜に放送されているアニメの量の多さにも驚かされた。


 ある日突然現れた美少女が、自分を守ると言って家に転がり込んでくる。両親は都合よく海外出張。隣に住む幼馴染や血のつながっていない妹が出てきてのハーレム状態、そこに現れる異能の敵。その時主人公の隠された能力が……

 とても理解できる内容ではなかった。

 違うアニメでは超未来でロボットバトルの話、事故で死んだと思ったら、中世風の世界にそのままの姿で転生して無双する話、はたまた歴史上の人物がなぜか全員女の子のものなど、これまで彼女が知っていたアニメとはほど遠い内容の連発だった。しかも手当たり次第にチェックしていったのはいいが、何がどの話だったかも頭の中で整理できず、お手上げの状態になっていった。




 そんなある日、頭の中に詰め込むだけ詰め込んだ菜々美が、意を決して悠人に話しかけた。


「悠人さん『突撃オメガ5』見てます?あの艦長すらっとしててかっこいいですね、それに声もしぶいし。あ、そうだ『たんぽぽ』のつくしちゃん、かわいいですよね。あと『侍エンジェルミカ』のダークエリア?での戦闘シーン、迫力ありましたよね。『ブルーシーズン』の伊庭将宗の悪っぷりにも目が離せないですよね、あと……」


 と、アニメのタイトルと、必死に考えてきた感想を一気にまくしたてて言った。一瞬唖然とした悠人だったが、まくしたてた後で、


(自分でも何言ってるのか分からない……悠人さん、きっと呆れてるよね……)


 と涙目になっている菜々美に、苦笑しながらこう言った。


「それだけのアニメ、全部見たの?」


 菜々美が見上げると、穏やかな悠人の笑顔があった。その笑顔に菜々美の足の力は抜け、へなへなとその場に座り込んでしまった。そしてその次に、自分でもなぜだか分からないが、大粒の涙がこぼれてきた。


 泣きじゃくる菜々美の頭を、悠人は優しく撫でた。




 しばらくして菜々美が落ち着くと、悠人が言った。


「しかしよくそれだけのアニメを見たね。菜々美ちゃんって、あんまりアニメとか見ない子だと思ってたけど」


「ゆ……悠人さんと同じ話をしたくて……」


「なるほど……にしても頑張りすぎだろう。だって今菜々美ちゃんが話したタイトルの半分も、俺見てないし」


「ええっ!」


「まぁ、基本一話は目を通すようにしてるけど、その中でいいやつを選んでるから。1シーズンで大体10本ぐらいになるかな、最後まで見てるやつって。放送してるやつを全部チェックするなんて、仕事してたらまず無理だし」


「そ、そうなんですか……私てっきり、みんな全部見てるものだと」


「にしても……頑張りすぎだって菜々美ちゃん。深夜アニメなんて見たこともなかったんだったら、2期の作品で話も全然分からなかったのもあっただろ」


「2期?」


「ははっ……それに、キャラの顔の区別もつかなかっただろう?」


「なんで分かるんですか」


「分かるよそれぐらい。それにね、菜々美ちゃん。これはとある漫画のキャラが言った言葉で、俺が感動したものなんだけど『ヲタクはなろうとしてなるものじゃない、気がついたらなってるものなんだ』ってのがあるんだよ」


「そ……そんなぁ……じゃあ私がしてたことって無駄だったんですか」


「そうは言わないよ。今まで全然知らなかった世界に挑戦する気持ちは立派だし、そこから菜々美ちゃんの中に眠っている新しい菜々美ちゃんを発見できるかもしれない。頑張ることに無駄なんて何もないから。ただ、闇雲に入るにはディープすぎる世界だってことかな、ははっ」


 悠人が小さく笑った。


「とりあえず今見た中で、菜々美ちゃんが自然に見れそうなやつってあったかい?」


「え……えぇっと……魔法天使イヴとか」


「ジェルイヴか」


「ジェルイヴ?」


「うん、マジックエンジェル・イヴを略してそう言うんだ。そうか……確かにあれなら菜々美ちゃんも入っていけるかもね。じゃあさ、これからジェルイヴだけを見ていったらどうだい?で、毎週その話をしていこう。そして興味が続くようだったら、また俺がお勧めを探してあげるから」


 悠人の言葉一つ一つに、胸の高鳴りを抑えられなくなっていく菜々美が立ち上がって言った。


「そうします!悠人さん、よろしくお願いします!」




 菜々美の挑戦が、悠人との新たなる絆を生んだ瞬間だった。


 悠人との距離が縮んだことに喜びを覚えつつ、菜々美は悠人の勧めるアニメを、悠人に言われたように無理なく見ていくようになった。悠人も菜々美の反応を見ながら、菜々美が素直に見ることが出来るものを選別し、教えていった。


 元々そういった世界に縁がなく、ファッション雑誌を見ておしゃれをして、ブランド物に憧れを抱く普通の女の子だった。そんな子がなんでわざわざヲタクの道を目指そうと思ったのか、この時悠人は分かっていなかった。


 ただ悠人は、人が頑張る姿が大好きだった。だから素直に、応援したいと思っていた。


 話す内容が増えたことで、会話する時間も長くなっていった。その中で菜々美は悠人のことを知り、悠人もまた、白河菜々美という女性のことを深く知っていった。

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