第8話 お隣さん・弥生 その3


 日曜の昼下がり。小鳥がベランダで、いつもの歌を歌いながら洗濯物を干していた。


 週に2回、夜に洗濯して室内に干していた悠人にとって、昼間にベランダが洗濯物でうまっていくのは新鮮な眺めだった。肌寒いが気持ちのいい風が入り込む中、悠人は煙草を吸いながら小鳥が干すのを眺めていた。


 言いようのない生活感だった。こんなことで生きている実感を感じる物なんだな……悠人はしみじみそう思った。




「ところで悠兄ちゃん。悠兄ちゃんっていつも同じ服を着てるよね。どうして?」


「ああこれか……俺は下着も服も靴も、同じものしか持ってないんだ」


「え?」


「小百合から聞いてないのか。色んな服があったら着る前に悩むだろ。そんなことで悩むのがバカらしいから、全部同じにしてるんだ。年に一回、下着も服も靴もセットにしてまとめ買い。合理的だろ?」


「う~ん、そんな人に会ったの初めてだからよく分からないけど……でもその日の気分で服を変えたりするのって楽しいよ。逆に、着る服でその日の気分が変わることもあるし」


「よく言われるけどなぁ……なんかそう言うのって苦手と言うか、興味ないんだよな」


「それに悠兄ちゃん、真っ黒だし」


「だな」


「でもTシャツも黒、ジーパンも黒、パンツも靴下もワイシャツも靴も、ジャンバーまで黒って……どこかの危ない人みたい」


「落ち着くんだよな、黒って」


「じゃあ小鳥が今度、悠兄ちゃんに服をプレゼントしてあげるよ。小鳥が買ったら悠兄ちゃん、着てくれる?」


「うーん……会社の子にも同じことを言われたけど、その時も結局返事できなかったんだよな。着るかどうかの自信がなかったから」


「じゃあ悠兄ちゃん、気に入らなければ着なくていいってことなら、小鳥が買ってきてもいい?」


「いやまぁ……買ってくれるのは嬉しいけど、でも俺にプレゼントしても甲斐がないと思うぞ。それなら小鳥が着たい服を買った方がいいと思うけどな」


「大丈夫だよ悠兄ちゃん。小鳥にはお母さんからもらったあらゆる情報があるから。悠兄ちゃんが着たくなる服、探してきてあげる」


「お前は小百合から、一体どんなことを吹き込まれてるんだ」




 この日は朝から二人で、昨夜の『魔法天使イヴ』を見ていた。あと数話で最終回、一気に盛り上がってきた。これまで明かされていなかったイヴの出生の秘密、実はイヴが敵である堕天使のプリンセスだったという鉄板的展開に、二人は息を呑んだ。




「ところで」


 悠人が煙草を消して言った。


「明日から俺は仕事だけど、小鳥は一人で大丈夫か?」


「うん。小鳥も明日からバイトだしね。明日は早番だから、4時までなんだ。それから晩御飯の支度してるから、楽しみに帰ってきてよね」


 洗濯物を干し終わり、小鳥が冷たくなった手をこすりながら部屋に入ってきた。


「う~、奈良に比べたらまだましだけど、やっぱ大阪でも寒いよね」


「紅茶入れてやるよ」


「ありがとう、悠兄ちゃん」


 悠人が台所でやかんに火をつけたその時、インターホンがなった。


 悠人がモニターを覗くと、そこにはメガネをかけた女の子が映っていた。弥生だった。


「悠人さーん、少し早いですが川嶋弥生、アキバから無事帰還しました!」


 そう言って弥生が手を振っている。


「誰?」


「ああ、お隣さんだよ」


 悠人が小さく笑って玄関の鍵を開けた。




 扉を開けると、よくここまで持ってこれたなと感心するほどの紙袋を両サイドに置き、リュックにポスターやら何やらを差した弥生が立っていた。そしてなぜか、いつもはしていない赤のバンダナを巻いている。それに気付いた悠人が反射的に突っ込んだ。


「いやいや『妹僕(いもぼく)』のあかねさんはいいから」


 その姿はアニメ『妹と僕の不健全な日常』に出てくるモブキャラの地味な真似だった。


「さっすが悠人さん、今日も冴えてますね」


「しかしその姿……俺の若い頃のヲタクそのまんまだな。今時そんなヲタク、アキバにもいないだろうに」


「はい、今回の遠征テーマは原点回帰でしたから」


 笑顔の弥生に、悠人もつられて笑った。


「で、どうだった、アキバは」


「もぉ最高でした。全盛期に比べ衰えて来たとはいえ、相変わらずこっちとはエネルギーが違いますね。さすがヲタの聖地、店の数もこっちとは桁が違ってるので……

 大型店はなんとか全て抑えることが出来ましたが、この調子だとサークルで合宿第2弾第3弾を企画しないととてもとても……興奮しすぎて貧血起こして倒れるわ、半年貯めに貯めてた貯金を全て使い果たすわで大変でした」


「はははっ、でもまぁそうなるよな。俺も一回しか行ったことないけど、あの場所はまさしく俺らにとって聖地だからな」


「まさしくその通り。この感動をどうしても早く悠人さんに伝えたくなってしまったので、打ち上げをキャンセルして帰ってきた次第なんですが……ん?んん?」


「どうかした?」


「女子の……匂いがします……それも……私にとって馴染みの深い匂いが……」


(ヲタ探知レーダー搭載ですか……)


 悠人の後ろから小鳥が顔を出した。


「こんにちは」


「ぬえっ!」


 弥生が小鳥を見てのけぞった。


「なななななななな、なんですか悠人さん。私がいないこの三日の間に、悠人さんの中の何が変化したのですか」


「変化?」


「なぜに悠人さんの家に女子が」


「はじめまして。私、悠兄ちゃんの幼馴染の娘で、水瀬小鳥って言います」


 そう言って小鳥がぺこりと頭を下げた。


「あ、これはどうもご丁寧に。私は悠人さんのお隣さんで川嶋弥生と申します、はじめまして」


 つられて弥生も頭を下げた。


「……って幼馴染って悠人さん、どーゆーことですか!悠人さんには運命の赤い糸で固く結ばれた私がいるというのに、幼馴染なんて無敵の存在がいたとは」


「あ、いや弥生ちゃん、それは」


「幼馴染!」


 やっぱ聞いちゃいない……拳を握り締めて天を仰ぐ弥生に、悠人が溜息をついた。


「それは血のつながっていない妹やパンをくわえて走る転校生に匹敵する、ヲタにとって最強の妄想戦士!子供の時からいつも隣に彼女はいて、やたらとおせっかいでしかもツンの要素もあって、受験勉強なんかも一緒にやったり一緒にいることでいじめの対象になったり、そしてそのことで同級生と喧嘩したり『くっつくなよ』とか言いながらもいつも一緒にいたり、思春期を迎えて互いに異性としての意識をしだしたりとか、ああああっ!幼馴染最強おおおっ!」


「あのぉ……もしもーし、弥生さーん」


「そしていつもは気が強いくせに、ある時見せた寂しそうな横顔に一体どれだけの男たちが妄想し、憧れ、そして散っていったことか!よく考えたら俺に幼馴染なんかいねぇしー的な」


「ふんっ!」


 悠人が人差し指を弥生の眉間につきたてた。


「ふにゅぅ……」


 弥生が声にならない声をあげた。なぜか分からないがスイッチが入った時にこうすると、弥生はいつも通常モードに戻るのだった。


 弥生がメガネをかけなおして言う。


「……失礼悠人さん、私また宇宙と交信していたようです」


「戻ってきた?」


「はい」


「あはははっ」


 小鳥がお腹に手を当てて笑い出した。


「お隣さん、面白いね。こんにちはおとな……弥生さん、あらためまして私、水瀬小鳥です。しばらくここに住ませてもらうことになりました。よろしくお願いします」


 小鳥が差し出す手を握り、弥生がメガネの奥で鈍く光る視線を悠人に向けた。


「悠人さんとご一緒に生活……悠人さん、説明はしていただけますでしょうね」


「あ、ああ……とにかく中に入るか。荷物、持ってあげるよ」


「ちなみに」


 小鳥が割って入った。


「近い将来の、悠兄ちゃんの嫁です」


「ぬげえっ!」


 弥生がのけぞった。

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