番外編 第16話 薄暗い夕闇の底で

 すっかり日が沈んだ夕闇の時分。

 マリーナという少し年上の娘をロビンとラシェルが追い返した後、彼女はまた三号車を訪れた。今度はルペシュールの個室を素通りして貨物室に向かったようだ。

 サフィアはカーテンの向こうの廊下側の物音に聞き入っていた。貨物室へ通じる扉が閉められる音を聞いたアシルはミシェルに目配せし、頷き合う。

「んじゃ、行ってくる」

「貨物室を調べるなら、あたしも行く」

 サフィアもアシルに同行を申し出た。サフィアはそこまで戦いの役に立つわけではないし、アシルのような技術を持っているわけではない。

 ――でも、ひどく嫌な予感がする。

 血の中に流れる魔力がサフィアに何かを告げている。

「オレが前に出るから、サフィアは常に奥に隠れて、いざというときは逃げろよ」

 アシルもその点は承知のようで、しぶしぶながらも同行を許してくれた。

 黒いフードつきのコートを着た、同年代の少年の背中を追う。フロッセに来てからサフィアをずっと助けてくれた、頼もしい仲間の背中だ。

 サフィアたちは三号車を出た。列車の連結は外になっており、冷たい外気が勢いよく吹き抜けた。外はすっかり夕闇に沈んでいる。

 五号車へ続く扉と、手摺りのついた通路だけがある。風に嬲られながらサフィアは身軽なアシルの後ろに続き、四号車の扉に取りつく。

 音を立てないように四号車にそっと入る。薄暗い貨物車は大量の荷物が積まれていて狭くなった通路を通るしかない。窓はあるようだが積み上がった荷物のせいで光は遮られていた。アシルがどんどん先に進むので、サフィアも後に続いた。

「あの女はいないな。もうひとつ奥の車両かな」

 あちこち見回しながらアシルが呟く。

「あの人が犯人で、貨物車に隠した凶器を捨てに行ったのかな?」

「もし犯人が貨物車に凶器を隠してたなら、オレたちの部屋の前を通る。静かに通っても何かの拍子で凶器を持ってるところを見られるかもしれない。凶器を捨てるなら窓か連結部から投げ捨てれば楽だし絶対に発見されない。三号車に凶器は隠してないだろ」

 言われてみればアシルの言う通りかもしれない。サフィアは犯人が凶器をどこかに隠していたと思い込んでいた。

「サフィア、物音と気配は消して五号車まで行くぞ」

「わかった」

 アシルの後ろに続いて、サフィアも五号車へ向かう。また連結部へ出て、五号車の扉の前に立つ。アシルが前に出て、音が出ないようゆっくり扉を開ける。

 中にマリーナがいるはず。彼女に見つからないように近づく必要がある。アシルが扉の中に身を滑り込ませる。彼の真似をしつつ、サフィアは静かに扉を閉めた。

 サフィアはあることに気づいてアシルのコートの袖を引っ張った。振り返ったアシルが頷く。彼も気づいている。

 この車両に入った瞬間に、新鮮な血の臭いがむっと漂ったのだ。ここで何かが起こっている。マリーナに何かあったのか。それとも彼女がしたことなのか。

 四号車と同じように荷物が積み上げられている。その陰に隠れつつ、奥の様子を窺う。暗闇が溶け込んでいるが、夜目が利くサフィアたちなら問題ない。

 積み上がった荷物が壁のようになっているが、人が通って奥まで行けるようにはなっている。壁になった荷物の奥で、投げ出された足が見えた。

 女物の靴とふくらはぎにかかるスカート。あの服の色はマリーナが着ていたものと同じだ。床に倒れているのは明白だ。背筋に嫌な予感が這い上がる。

 アシルは意を決したように前に進む。サフィアも遅れないように続いた。

 揺れる列車の音だけがする貨物車。荷物とともに暗闇も沈殿した静かな空間に、アシルは慎重に足を踏み入れていく。マリーナに近づく。上半身を隠す荷物の前まで来る。マリーナを含め、人の気配をまったく感じない。

 アシルは荷物の向こう側へ踊り出た。

 アシルの肩越しにサフィアも確認するが、誰もいなかった。

 マリーナを見下ろすと、彼女は喉を真っ赤に染めながら倒れていた。

 アシルが真顔で屈み、彼女の死体を調べ始めた。

 子供だけで旅をしているという理由で疑ってきた嫌な人だった。だからってこんな死に方をされて、「ざまをみろ」なんて気持ちにはまったくなれない。

 何故、いつ、誰に、という色々な疑問と、ほんの少し前まで生きていた人が死んでいるショックで、サフィアは目の前の死体を見下ろすことしかできなかった。

「サフィア、これ見ろよ」

 アシルは真っ先にマリーナの襟元を脱がし、首筋に吸血鬼の嚙み跡があるのを確認した。サフィアもショックを受けたままではいられない。

 信じたくないけど頷くしかない。剣で人体を貫けるほど力が強く、血を吸って殺すとなると犯人は吸血鬼以外にありえない。

 マリーナは何故か貨物車に入った。来ないといけない理由があったか、呼び出されたかのどちらかだろう。そこを襲われたのだ。

「自殺は、ありえないよね?」

「自分で自分の首に噛みつけるなら自殺かもな」

 そんなことは絶対にありえないのに、サフィアはアシルにわざわざ否定してもらわなければこんなことすら受け入れられない。

「でも、どうして? だってあたしたち、この人が貨物車に入った後を追って入ったんだよ。でも、貨物車に入ってからは誰とも行き違ってない。犯人を見てないのよ」

「簡単だよ。犯人は列車の上を通ったんだ」

 それは、列車の中ではなく列車の屋根に当たる部分を通路にして誰にも見つからないように移動したということだろうか。

「オレでもできる。串刺しにするほど力のある犯人にならできるだろ」

 サフィア、とアシルが鋭い声を上げた。アシルがマリーナの真っ赤に濡れた首筋を指差す。血に濡れながらも、小さな傷は四箇所並んでいるのだ。

「嚙み跡が四つ? 二回噛まれてるの? うち一回は血を吸われたことで殺されてるわけだから……」

 殺される以前に血を吸われているとなると、その意味はひとつしかない。

「もしかしたら、犯人は事前にこの人を噛んで、傀儡にしたんじゃない? あたしたちを疑ったのも、貨物車に来たのも、吸血鬼の命令なのよ」

「血を吸われると言いなりになるって本当の話なのかよ」

 うわあとアシルは嫌そうに顔を歪ませた。

「とにかく、このことを早くミシェルたちに……」

 伝えなきゃ、と言おうとしたところで、アシルが懐から出したナイフを投げたのは同時だった。ナイフはサフィアの横を通り抜けた。

 サフィアが後ろを振り返ると、闇の中でナイフを掴む影が踊り出た。

 アシルは舌打ちしながらサフィアを庇うように前に出た。

「あんたがあの男を串刺しにした奴か。この女を殺したのは何でだ?」

 影は闇の中で何も言わず、アシルと対峙している。これが吸血鬼。

 サフィアの目には、フードで顔を隠し、黒いマントのようなものを着た人物ということしかわからない。性別までわからなくしているなんて徹底的だ。

「言わなくてもいいや。捕まえて連れてくだけだからな」

 アシルはナイフを構えた。吸血鬼は無言で掴んだナイフを放り投げた。

 アシルが仕掛けた。素早い動きで吸血鬼に肉薄し、ナイフを振った。敵はナイフを避ける。アシルのナイフの軌道を吸血鬼は軽やかに避け続けた。アシルの攻撃がみんな見切られているのだ。

 アシルはもう片手に大振りのナイフを取り出した。すかさず吸血鬼へ向けたとき、相手は狙っていたようにアシルの腕を掴んで動きを封じた。

 もう片方の手でアシルの首を絞め上げる。吸血鬼の腕はびくともしないようで、アシルは呻いたまま動けない。

 サフィアが助けに出ようとしたとき、吸血鬼の呻きが聞こえた。アシルの蹴りが腹に叩き込まれたらしい。首を解放されたアシルは吸血鬼の足を払い、相手の体勢を崩す。絶好の隙を逃さず、アシルが放ったナイフが吸血鬼の喉元へ吸い込まれていく。

 吸血鬼が仰向けに倒れたと思った瞬間。

 相手は夜に溶け込んだ。

 まるで液体のように実態が黒く溶けたのだ。

 黒い影は動いてアシルの側面に回り、再び実体を表す。相手の長い爪がアシルの腹を狙う。反射的に彼は避けるが、爪はアシルの脇腹を掠った。血の霧が広がる。

「アシル!」

 サフィアはすぐにアシルの前に出た。吸血鬼がサフィアへ長い爪を向ける。

 相手が吸血鬼ならば退ける方法はある。

「来ないで! この人を殺すつもりなら、あたしが相手になる!」

 サフィアは空気中から水を呼び出す。川のように質量のある水の膜で吸血鬼を囲った。足元から天井まで水で覆い、水流の檻を作り続ける。

 吸血鬼ならば流れている水は渡ってこられない。サフィアはアシルの腕を掴み、吸血鬼の脇を通って五号車を駆け抜ける。アシルの動きはいつもよりずっと鈍いが、遅れずについてくる。きっと脇腹からの出血がひどいのだ。けれどここで治療しては吸血鬼に追い詰められてしまう。安全な場所まで抜けなければ。

 急いで四号車も抜け、三号車の扉を開ける。連れてきたアシルを振り返る。

「サフィア、無茶しやがって……」

 アシルが苦しそうに呻きながら腹を押さえている。

「すぐ治すから、しっかりして!」

 サフィアはすぐに彼の傷を治しにかかった。アシルが傷を押さえていた手をよける。押さえていた手の隙間から血が溢れていた。サフィアが手を翳すと、瞬時に光が弾け、彼の傷を塞いだ。

 サフィアの魔法は傷を塞ぎ、痛みを和らげることはできるが、失った血が元通りになるわけではない。傷を塞いでもアシルは辛そうな顔に脂汗を浮かべたままだ。

「ごめん……。本当は、オレがお前のこと守んないといけないのに……」

「何言ってるの。アシルみたいな能力はないけど、あたしだって守られるだけじゃないんだよ!」

 サフィアの魔法と物音に気づいた仲間が部屋から出てきた。

「アシル! どうした!」

 すぐにレブラスがアシルに肩を貸し、部屋の中へ連れて行って彼を座席に座らせた。アシルの足元にミシェルが屈む。

「大丈夫か? ……すまない。お前だけに無理をさせすぎたな」

 ミシェルは明らかにしょげていて、珍しく謝罪を口にした。対してアシルはいつもの軽い調子で、脂汗を浮かべながらも穏やかな顔だった。

「なーに言ってんだよ、らしくねえなあ。ミシェルの考えはいつも正しいだろ。女を張ったおかげで犯人が出てきた。怪我したのはオレの力不足だって」

「アシルが怪我をするほどって、相当だな」

「完全な判断ミス。ナイフじゃなくて銃で戦えばよかったわ」

 レブラスに言葉を返すアシルの言外には、「レブラスも剣で戦うなら気をつけろ」と言っているようだった。

「何があったんだ?」

 ミシェルの質問にサフィアが答える。

 貨物車へ向かうマリーナを追ったら、彼女は五号車で血を吸われて殺されたこと。二回分の噛み跡から彼女は既に犯人の傀儡にされていたこと。

「多分、あの女の人は吸血鬼に操られて貨物車へ向かった先で殺されたんだと思う。死体を見つけたあたしたちを襲ってきたなら、その子を囮みたいに使ってあたしたちを始末するつもりだったんじゃないかな」

 アシルの腕を掴んだ力の強さ、影に溶けて実体を変えた能力。吸血鬼に間違いない。吸血鬼は魔力と自我と理性も併せ持つ人外種だ。ただ生者の生き血を吸わなければ力も弱くなり、生きていけなくなる。サフィアも本物に会ったことはない。両親から、そういう隣人がいることだけを聞き知っていた。

「犯人の顔を見たのか?」

「完全に顔も体格も隠してたから、わからない」

「わかった。サフィア、ここにいてアシルについててやれ。ルイ、レブラス、出るぞ。〈黒猫〉に今のことを伝えたら犯人を捕らえる」

 サフィアはミシェルの指示に頷いた。犯人がもう一度アシルを狙っても、サフィアがついている限りは守ってみせる。

 ミシェルの炎の魔法は吸血鬼に効くだろうし、レブラスの聖剣は魔法の力を帯びた神聖な武器。きっと吸血鬼に対して有効な武器になるはずだ。

 ミシェルたちが撃って出るため部屋を出ていく。サフィアはここで自分のやるべきことをやると思い決めた。

 窓の外はすっかり日が落ち、外は夜の闇に沈んでいるようだった。列車内のあちこちにも影が滲み出ている。吸血鬼に有利な時間がくるとサフィアは思った。

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