番外編 前半「結成の夜」
番外編 第1話 路地裏の世界
めまぐるしく移り変わる車窓の景色を、ルイはぼんやりと眺めていた。
なだらかな丘陵が、青い空とともに地平の先へ広がっている。もうずっと同じような景色が続いていた。最初は窓に手をつけて座席から身を乗り出すほど新鮮なものに思えたのに。
ルイは二人掛けの座席の端に座って、窓の外に目を向けていた。
他にやることがないのだ。
向かい側の座席に座る茶髪の少年は、景色がさほど珍しいものではないのか、組んだ足に紙の束を載せてペンで書き物をしている。たぶん仕事に関係する書類なのだろう。列車は揺れるのに字がぶれたりしないのだろうか。
彼はロビン。本名はロバート・ブラック。
十六歳ながら、王都から招聘された凶悪犯専門の特別捜査官だ。次々に凶悪犯を捕える彼は、着ている黒いコートから〈黒猫〉と呼ばれている。フードの部分の両端が、まるで黒猫の耳のようにぴんと立っているからだ。
今は列車の中なので黒いコートは脱いでいる。かわりに、中に着ているグレーの地に黒いラインが入った特別捜査官の制服がよく見えた。
大人びた表情で紙束に目線を落とすロビン。同じ子供なのにルイより四つ年上というだけで、ロビンはずっと大人のようだ。
初対面のときも大人の警官だと思ったほどだ。冷静で落ち着いた態度のせいか、ルイより背が高くて顔の輪郭が大人っぽいせいなのか。
ふとロビンが顔を上げた。
「退屈ですか?」
見ていたことがバレて少しどきっとしたが、別に悪いことをしたわけじゃないし、ルイは正直に答える。
「うん。景色は見たことなくて面白いけど、ずっとだと飽きるよ」
そうかもしれませんね、とロビンは苦笑した。
ロビンは警察に捕まってひどく暴力を受けていたルイを庇ってくれた唯一の警察官だった。そして仲間の元へ返すという約束を、身を挺して守ってくれた。犯罪者や孤児を人とも思わない他の大人の警察官たちとは違う。
ルイは、犯罪行為も厭わず町に巣食う未逮捕の悪人をやっつけて回っていた義賊「ルペシュール」の一員だ。他に仲間が四人いる。全員十五歳以下の子供だ。
力の弱い子供や労働者たちを悪い方法で利用して利益を啜る大人がターゲットだった。盗まれたものや誘拐された人を元の場所に返したりもした。けれどルペシュールが話題になったのは、どんなに警備の厚い場所でも潜入し、ターゲットを暗殺してきたからだろう。
潜入も殺害も窃盗も、法では罪。元々いたフロッセの町の民衆にはヒーローのように扱う小新聞もあったけれど、警察はルペシュールを犯罪者として手配していた。
その際のいざこざでルイを助けてくれたのがロビンだった。
大人も警察官も本来は信用できない人種だが、ロビンだけは信用できる。ロビンはそれだけのことを、身体を張ってしてくれたのだ。
つい先日、フロッセ市警が密かに行っていた人身売買の罪が明るみに出たことで、他所の警察官がたくさん捜査に訪れた。潜伏している犯罪者の逮捕にも力が入れられ、ルイたちルペシュールのは町を離れることになったのだ。
新天地を求めて南下する、列車の中。
ロビンとは途中で列車が分かれるので、ルイは少しでもロビンと過ごそうと彼のコンパートメントにお邪魔していた。他のルペシュールの仲間たちは隣の個室にいる。
急行列車が発っておおよそ半日。
「では、せっかくなので何か話でもしましょうか」
ロビンはそう言いながらペンに蓋をはめる。
「その、今書いていたやつはもういいの?」
「ひと段落ついて、ちょうど休憩しようと思ってましたから」
ロビンは紙束とペンを横の座席の上に置き、組んでいた足を元に戻した。お互いちゃんと前を向いて座ると、自然と二人で向き合う格好になる。
「実はずっと気になっていたのですが、ルイはどうしてルペシュールに入ったのですか?」
「へ……?」
そんなことを訊かれるとは思ってもみなかった。
「怒らないで聞いてほしいのですが、他の四人は僕が捜査に当たるような第一級の凶悪犯とされています。ですが、ルイは元々フロッセの路地裏で過ごしていた孤児でしょう。盗みの技術は抜きん出ていますが、孤児や浮浪児は他にもいますし、正直どうしてルペシュールのメンバーになったのか、ずっと疑問だったんです」
「別に怒りはしないけど……」
確かに他のみんなは、ルイには到底できない技術や知識を持っていて頼りになる。世間一般では凶悪な犯罪者でも、ルイにとっては無二の仲間だ。
「実はほとんど成り行きなんだよ。みんなで悪い大人と戦おうって決めたのは」
それがルペシュールの、根本的で絶対的な基本の理念だった。
最初も、それが理由だったのだ。
「話すのはいいけど、あんまり面白い話じゃないよ」
「ルペシュールが手がけた事件ならば、君たちが許せない大人がいたということなのでしょう。ひどいことがあったのですね?」
そう。本当にひどい話だったのだ。だからルイたちは動いた。
「誰にも言わないならいいよ」
お約束しましょうとロビンがはっきり言うので、ルイも頷いて口を開いた。
からりと乾いた風が吹いていた。
北方の町フロッセは、夏でも吹く風が涼しい。それを爽やかと感じるか、夏でも寒々しいと感じるかは住んでいる環境によるかもしれない。
ルイは後者だ。あたたかい服も食べ物もなく、路地裏で丸まって眠る孤児や浮浪児にとって、夏でも震えながら夜を過ごすのは苦痛でしかなかった。
薄いシャツと膝が隠れる程度のズボン姿も原因だろうが、上着やコートを調達するのは難しい。
表通りを歩く人が、風が涼しくて気持ちいいと言っていたのを聞いたことがある。
薄暗くて狭い路地裏では空は遠く、工場が噴き出す黒い煙が空を覆っていて、いつも町は薄暗い。夏の心地よさなんてちっとも感じない。冬より過ごしやすいだけである。
炭鉱の奴隷としての生活から何とか逃げ出したルイだが、家も身寄りも働くあてもない子供は路地裏に吹き溜まるしかなかった。親には売られ、奴隷として酷使され、そこから逃げても居場所はないし、どこにも行けないのだ。
表通りの人々は路地裏の子供を無視する。一度表通りを歩いたことはあるが、誰もが汚いものを見るような目でルイをちらりと見て、あとは無視するだけだった。
それだけならまだいい方で、警察に通報されれば保護の名目で捕まってしまう。ルイは一度警察に追われてから、表通りにはなるべく出ないようにしていた。
去年の冬、炭鉱から逃げて町を彷徨っていたルイは、逆上して警察官を刃物で刺した。そこからすべてが振り切れた。
人殺しの自分の、血で汚れた手はもう何をしても雪げない。それならもう、どれだけ手を汚したって構わない。
ルイはそれから必要なときだけ表通りにこっそり出て食べ物や着るものを盗むようになった。半年で経験は積んだ。失敗して店の者に追われ、捕まって殴られ血を吐くこともあったが、今では目当てのものを大抵は盗み出せる。
ルイはそうやって食い繋いできた。
肩にかけた薄い革のショルダーバッグの中に、表通りで盗んできたばかりのパンが二つ入っている。子供の手には少し大きめの固いパン。
これがあれば一日は食い繋げる。
ルイは薄い革靴で石畳の道を蹴り、迷路のような路地裏を進んだ。
「食べ物盗ってきたよ」
ルイが声をかけると、灰色の建物の陰からのっそりと小さな影が出てきた。
薄いボロ布で身体を包んだ、ぼさぼさの黒い巻き毛の少年だ。毛布で見えないが、手足はルイ以上に痩せ細っている。
ルイが盗ってきた固いパンを両手で受け取ると、少年はふにゃと笑った。
「ありがと、ルイ」
か細い声。疲労が滲んだ目元。弱々しい手つき。それでも少年はルイがあげたパンにかぶりつき、時間をかけて食べていく。
ルイも少年の隣に座り込んで、同じパンを一緒に食べた。
この少年はナレシュ。ルイと同じ孤児だ。
年頃は多分ルイと同じか、ちょっと下くらい。痩せ細った身体をいつも寒そうに縮ませているから随分幼く、小柄に見える。
肌の色が浅黒いのは多分生まれ持った色だろう。だからってルイは何とも思わないけれど、その色はこの町の外を知らないルイにも異国の風情を感じさせる。
ナレシュとはこの路地裏で出会った。
ルイが服や毛布や食べ物を盗んできたところに、ナレシュはひとり冷たい地面に横たわっていた。半開きの目が虚ろで、ルイと同じような子供がこんな目に遭っているのが可哀想だった。
その子とパンを分け合ってから、ルイはナレシュと食べ物も毛布も分け合って過ごすようになった。
いつもお腹を空かせて震えているナレシュはあまり走り回ったりできない。だからルイがいつも食料調達に走る。かわりにナレシュには休める場所を探してもらったり、雨水を貯めてもらったりしていた。
彼と組んでもう二ヶ月ほどになる。盗むものが増えたのは少し大変だったが、寒い夜を一緒に乗り越える仲間がいることは胡乱な毎日への張りになっていた。
「ねえ、ルイ」
「どうしたの」
「世の中はさ、ふっくらした白いパンとか肉を食べて、夜には柔らかくてあったかいベッドで眠るのが普通なんだよね」
それが普通なのかどうかはルイにはわからない。ルイにとっての普通は盗みで食い繋ぐ路地裏の生活だ。それ以外の生活を知らない。
優しい両親に囲われ、暖炉のある部屋で色々な料理がテーブルの上に並んでいるような生活は――窓の向こうに広がっている世界なんてものは、全部幻想なのだ。
「ナレシュはそういうのに憧れてるの?」
「ルイがいてくれるから、今の生活もそこまで嫌じゃないよ。でも、暖かいってどんな感じなんだろうなって」
改めて言われると、ルイにはちっとも想像できない。
「わかんないね」
「そうだね」
「世界が違うみたい」
「そうなんだと思うよ」
そうだ。世界が違うのだから、想像するだけ意味がない。
ルイはそう思っていたけれど、もしかしたらナレシュは違ったのかもしれない。
もっと強い気持ちでそうした「普通」に憧れを持っていたのかもしれない。
けれどルイはナレシュのそうした気持ちにはまったく気づかなかったし、大した憧れじゃないと本気で思っていた。
その次の日、ルイがいつものようにパンを盗んで路地裏に戻ってくると、ナレシュは羽織っていたボロ毛布だけを残して忽然と姿を消していた。
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