第33話 未明の急行列車にて
ルイは駅というものを初めて見た。
四つも線路が伸びていて、その隣に人が乗り降りするためのホームがいくつもある。
看板の文字にも「〇〇行」という名前がいくつもあって、どれがどこに行く列車なのか全然わからなかった。
深夜、外灯が点々と灯るだけの暗いホームに、ルイたちルペシュールの五人とロビンはいた。
ホームの横には既に列車が止まっている。
夜行列車。王都とは別方向の、南方へ行く列車だ。
切符代は五人で稼いだ分を合わせて何とか足りた。列車代はけっこう高いらしいが、ルイとサフィアは子供用の運賃が適用されるのでギリギリ何とかなったのだ。
列車の旅にロビンも一緒になるとは思わなかった。どうやら大体の仕事を終え、王都に帰ることになったそうだ。
いつも通り、警察官の服装に黒いコート。フードは取っている。少し大きめの茶革のトランクをひとつだけ持っていた。
「まさか、列車でも一緒になるとは思わなかったぜ」
アシルは呆れたようにちゃっかりメンバーの輪の中に入り込んでいるロビンを見た。
「いいじゃん、ひとり増えても」
ルイは、今日でロビンとはお別れだと思っていたから、少し嬉しかった。
ロビンは王都行きの列車で途中乗り換えらしいから、そこまでしか一緒にはいられないけれど、少しでも一緒にいられる時間が増えるのは嬉しい。
「ルイがいいならいいけどな」
ルイがロビンを慕っているので、他のメンバーもロビンにあまり嫌な感情を持たなくなったようだ。今では敵意を向けるメンバーはいない。
列車に乗り込む。狭い廊下へと進み出る。
ランプが壁に、等間隔に設置されている。夜行列車は半分が貨物らしい。客席は少ないらしいが、それでも列車内は静かで、あまり他の客はいないみたいだ。
ルイたちのようなお尋ね者の、訳ありそうな五人組の子供の客なんて怪しいだろうから、人がいない方が都合はいい。
木の床板が敷かれた廊下を進む。一面が壁になっていて、扉が等間隔についている。扉のガラス窓の向こうは二人がけの座席が向かい合う四人用の小部屋のようになっていた。部屋で座席が分けられた列車をコンパートメント車と呼ぶとロビンが教えてくれた。
ルイたちは六人。四、二で分かれることになった。ロビンがひとりで部屋に入ろうとしたので、ルイはロビンについていくことにした。
ルイは目だけで仲間たちに目配せする。
レブラスが頷き、ルイたちの隣の扉を開けて入っていった。
ロビンがトランクを、座席の上の荷物置き場らしき棚へと乗せた。上が荷物置き場になっていることも、向かい合う座席の間に窓があることも、座席のふかふかの椅子も、何もかも初めて見るものばかりだ。
ロビンは窓際の方に座ると、ついてきたルイに微笑む。
「いいのですか、こちらで」
「いいよ。ロビンの方が早く別れちゃうから。それまではこっちにいる」
ルイはロビンの向かい側の席に座った。
「そうですか。いいですよ」
ロビンは座席の背もたれにゆったりともたれながら言った。
ルイも同じようにしてみる。背中がふわふわしている。こんなものに初めて触った。藁の寝床より気持ちがいい。今日はよく眠れるかもしれない。
汽笛の音が響いた。もう発車らしい。自分が座っている場所が移動するなんて、どんな感じなのだろう。
どきどきしていたら、一度がたんと揺れて、ゆっくりと列車が動き出した。するすると足元ごと滑っているような不思議な感覚だった。
窓の外では、先にあった風景がどんどん後ろへと流れていく。暗いけれどわかる。町が遠ざかっていく。
犯罪者と汚い大人が巣食う悪徳のるつぼのような町だった。
いい思い出なんてほとんどない。ルイにとっては奴隷として酷使され、孤児のままどこにも行けなかった、ただ寒く暗い石の町だ。
ルペシュールのみんなやロビンと出会えた町ではあるけれど、戻りたいとまでは思わない。
「フロッセを離れるのは寂しいですか?」
遠ざかるフロッセの町を窓から見ていたルイに、ロビンが尋ねる。ルイは窓の外を見たまま答える。
「ううん。でも、何だろ。オレ、一生フロッセの路地裏で生きるんだと思ってたから、変な感じがする」
町を離れていく自分に、今の状況に、実感が湧かない。
「僕もあちこち出張しますが、それでも行ったことがある場所は世界のごく一部です。どこまで行ってもきっと、新しいものでいっぱいでしょう。君の世界はフロッセだけではなく、これからもどんどん広がっていきますよ」
フロッセの路地裏だけが世界じゃない。
どこに行ったっていい。
そう言われているような気がした。
フロッセの暗い路地裏から出られないと思っていたのに。
どこに行ったって、どうやって生きたって、自分で決めたことならそれでいいのだ。
ルイは自由になりたかった。
鎖に繋がれた奴隷でもなく、手錠に繋がれた犯罪者でもない。ただのルイズとしていられる場所なら、どこでもいいからそこにいたかったのだ。
遠ざかるフロッセの町を見て、ようやく路地裏から出て、ルイは自分の本当の願いを知った。
「ルイ。もし旅先で何かあったら、王都にいる僕を頼ってください。直接来てもいい。手紙でもいいし、電話でもいい。知らせてくれたら、必ず僕が助けに行きますからね」
「うん」
今ではロビンの言葉をすんなり受け入れることができる。
ロビンならきっと助けてくれる。そう信じることができた。
「ルイ、僕はまだ十六歳で、ちゃんとした大人ではありません。今までひどい大人しか目にしていなくて、僕の言葉を受け入れられないかもしれませんが、これだけは忘れないでください」
突然、ロビンが改まった様子でそう前置きした。
ルイは窓から離れて、ロビンと向き合った。
「――どうか、生きて、大人になってください。親の存在や周囲の環境や不運に振り回されても、大人になれば自分の足で立つことができます。そのかわり、自分のしたことには自分でけじめをつける必要がありますが」
「大人……」
――どんな大人になりたいんだ?
ミシェルの言葉がふと蘇った。
わからなかった。
ルイが内心納得も理解もしていないことはわかっているのだろう、ロビンは真剣な面差しを和らげた。
「今は、この言葉を覚えていてくれるだけで十分ですよ。さて、今夜はもう休みましょうか。眠れそうですか?」
「大丈夫。フロッセの真冬の路地裏でも眠れるから」
自慢になんかならないが、ルイはそのことを初めて笑って話すことができた。
何故だろう。話しても、もう辛くなかった。
座席に横になって丸くなると、すぐに眠ることができた。
列車の揺れで目を覚ます。
眩しい。もう朝のようだ。夢も見ずにあっという間に時間が過ぎた気がする。
起き上がると、向かい側の席に座って既に起きていたロビンがこちらに笑いかける。
「おはよう、ルイ」
「……おはよ。もう朝?」
「ええ。先ほど駅に停まったときに買いました。よかったら食べてください」
ロビンは座席に置いていた紙の包みを差し出した。
それを貰って包みを解くと、レタスと厚切りのハムを挟んだパンだった。途端にぐうとお腹が鳴って、思いきりパンにかぶりつく。厚いハムに野菜、柔らかいパンなんて朝から贅沢だ。
一気に食べ終える。ロビンが水の入った革袋を渡してくれた。冷たい水を思いきり飲むと頭が冴えた。
窓の外を見る。
緑色の平原の景色が通り過ぎていくのが見える。明るくて、雪がない。
こんな景色が町の外に広がっていて、今まさにルイの目の前に飛び込んできている。
それが不思議でルイはまた窓の外を見ながら過ごした。
少し経つと隣で寝泊まりしていたメンバーが様子を見に来てくれた。アシルなんかは「〈黒猫〉にいじめられてないか?」なんて冗談を言って笑い、ロビンの冷たい視線を浴びていた。
列車で過ごすこと二日目。
南の方へとやってきた列車が大きな駅に着いた。
ロビンはここで乗り換えて王都へ行く。
トランクを荷物棚から出すロビンを見て、もうお別れなのだと感じた。列車はまだ走っているが、ロビンはコートを羽織り、忘れ物がないか座席を見渡した。
部屋の扉を開けて部屋を出ると、ルペシュールのみんなが廊下にいた。
「色々と世話になったな」
ミシェルが口火を切る。
「ええ。こちらこそ、ご協力には感謝します」
ロビンの応対は取り調べのときと同じように少し硬い。
「ルイにはあまり無理をさせないように」
「ふん、保護者気取りか。報われんな」
ミシェルは不敵に笑う。
ロビンはそれには答えず、ルイを振り返り、ルイに布包みを差し出した。それを受け取る。
「ルイ、お元気で。何かあったら、この中に書かれている住所か番号に連絡をください」
「うん、ロビンも元気でね」
いよいよお別れ。
捕まって、話をして、助けられて、ルイの話をちゃんと聞いてくれた。せめて笑って見送ってあげたいのに、喉の奥から何かがこみ上げてくる。変な声が漏れる。
目の奥が熱くなって、涙が零れてくる。
あの冬の日もこうだった。悲しくて寂しくて憎らしくて、感情の渦が涙になって溢れてしまうのだ。
ロビンは泣いているルイを抱きしめてくれた。
「ありがとう、ルイ。君に出会えてよかった」
頭が優しく撫でられる。
人にこんなふうにされたことはない。
誰かの手に温かく触れられることが、こんなに嬉しいことだとルイは知らなかった。
列車が止まった。駅に着いてしまった。
ロビンはルイを離し、ルイに微笑みかけると列車を降りるべく廊下を進んだ。ルイも追いかける。
何人かの乗客に交じって、ロビンも列車を降りる。
ルイは廊下の窓からロビンの姿を追う。
ロビンがトランクを手にホームに立ち、こちらを見ている。列車の発車ベルがけたたましく鳴った。
列車が動き出す。スピードを上げていく。
ロビンの姿が遠ざかっていく。
ロビンを置いて列車は次の駅へと向かってしまう。
涙を零しながら、ルイはずっと窓の外を見ていた。
ロビンが見えなくなっても、しばらくルイは遠ざかった駅の方をずっと見ていた。
部屋にひとりでいるわけにもいかないので、ルペシュールのみんながいる部屋に行くことにした。みんなはすぐに詰めてルイのスペースを作ってくれた。そこに座る。
五人はそれぞれの体勢でくつろいでいる。
誰も何も言わない。
通り過ぎる景色は明るい。列車が線路を走るガタガタという音だけがしばらく響いた。
「……これからどうなるかな?」
アシルは座席の背もたれに寄りかかりながら窓の外を見た。
「さあな。何も決めてないからな」
答えるミシェルにレブラスが突っ込む。
「オレたち、いつも行き当たりばったりじゃないか?」
「ふ、感情的に物事を決めるお前たちに合わせているんだ」
ミシェルが珍しく、目元を和らげて笑った。ミシェルが楽しそうに笑っているなんて本当に珍しい。
メンバーの空気感も和やかなものになる。
「ね、海だよ。楽しみだよね。どんな町だろ? どんな暮らしができるかな?」
サフィアはわくわくしているみたいで、今からはしゃいでいる。レブラスが窓の外を見て言う。
「どうやったって生きていけるさ。どん底の暮らしだろうが何とかはなるものだし」
「経験者は語る」
「うるさいな」
アシルの突っ込みにレブラスは毒づく。
くだらない会話をして、停まった駅で食べ物と水を買い、また列車は朝と夜を繰り返しながら走る。
そのたびにみんなで眠って、みんなで起きた。
また夜が明けた。
ずっと暗い路地裏を走り回っていたはずのルイは、今列車に乗って新しい町へ向かっている。
心で信じるままに、みんなと一緒に。
いくつもの夜を通り過ぎて、列車は未明を迎える。
ルイやみんなが犯した罪も、ルペシュールとしての罪も、裁かれずにそのままだ。
それは何をしても、これからどう生きたとしても消えない。でも、それでもやっていくしかない。
償いきれない道の、どうにもならない人生の、過去の罪への罪悪感と苦悩を抱えたままでも生きていくと決めた。
ルイたちのレールはどこまでも続いているし、列車はひたすら走り続ける。
東の山の端から昇る太陽の光が、列車の中にも降り注ぎ始めた。
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