第25話 正義のヒーロー
――もし誰かが必ず犠牲になるなら、君はどうする?
特別捜査官になったばかりの頃、特別警察の長官に初めて会い、そう問われたことがある。
――例えば、暴走したトロッコが線路の先にいる五人の作業員へ向かって走っていく。避難はもう間に合わない。君はトロッコの線路を切り替えるスイッチの前にいる。しかし、切り替えた先のスイッチには別の作業員がひとりいる。君が線路を切り替えれば五人の作業員は助かるだろうが、切り替えた先にいる別のひとりが轢かれてしまうだろう。君ならどうする?
ロビンは、そのときはっきり言った。
――暴走したトロッコを止めて、六人全員を助けます。
ひとりを犠牲にして五人が助かるのも、五人が死ぬのをただ見過ごすのも、ロビンにとっては悪だ。
長官は目元を和らげながら微笑して頷いただけだった。
あのとき長官は何を思っただろう。犯罪を憎み、現実的にものを考える人だから、夢想的で青くさい子供だと思ったのかもしれない。
もちろん、誰もが六人全員の生還を理想とするだろう。
できるなら六人全員で助かるべきだと思うのはごく当たり前の考え方だ。だが、現実にそれが起こり、どちらかしか助からない状況になったとき、人はその理想を追求することができるだろうか。
現在のロビンには、あの日の問いに昔のような答えを返すことはできない。スイッチを切り替えるかそのままか、きっとどちらかを選択する。
他人の命を自分の秤にかけて選ぶなど間違っている。
それでも、それはロビンが数年間で得た経験に基づく現実的な回答だった。
ロビンは全員を助けたいが、現実でそんなことが起こったら、誰かを犠牲にして誰かを助けることしかできない。
自分にできることなどそんなもの。
全員を助けるなんてただの理想だ。
けれど「正義のヒーロー」は、そんな叶えることができない理想を叶えてくれる存在なのだとロビンは思っている。
だから正義のヒーローは、決してこの世に存在しないのだ。
綺麗ごとがまかり通る世の中ではないし、この世のすべての人を助けることが叶う世の中でもない。だからヒーローというものは架空の存在で、そう在ろうとするならば叶うはずのない理想を、命をかけて守らなければならない。
ロビンは、本当は正義のヒーローになりたかった。
でもヒーローはこの世に存在しないから、警察官になった。
ロビンにとってヒーローという存在に一番近いのは警察官だった。人を傷つけ、命と尊厳を奪う犯罪者を捕え、市民を守る。それができる仕事が警察官だ。
ロビンは警察官である自分を誇りに思うし、ひとりの警官として、組織に対する信頼もあった。
それが最近になって、揺らいでいる。
ロビンに当たってくる大人たちへの応対、どれだけ働いても減らない犯罪件数、ロビンの力不足による犠牲者たち。
ロビンがどれだけ努力したところで及ばず、助けられないものがたくさんある。悔しいと思う気持ちは消えない。
でも、いつからか、それが警察官としても当たり前のことなのだと思うようになっていた。
鈍く無機質なランプが灯る廊下を、ロビンは早足で進んでいた。
先日捕えたルイズという子供に尋問するためである。
看守に頼み、既に取調室にルイズを連れてきてもらっているはずだ。
あんな子供が何故あんなところにいたのか、あそこにいた他の子供たちとはどのような仲間なのか、孤児院で起こった職員三人の他殺体や奥に囚われていた子供とどんな関りがあるのか、訊かなければならなかった。
扉の前に立ち、開けようとして、中から怒声と激しい音がしていることに気づいた。ロビンはすぐさま扉を開けた。
「なっ……!」
言葉を失った。
荒れた部屋。地面にうずくまるルイズが少し顔を上げた。頬が腫れて、口からは血が滲んでいる。その前には看守ではない別の警官が立ち、手に警棒を持っていた。
「何をしているのです!」
ロビンは警官の背に問いかけた。
振り返った警官は、現場の警察官をまとめているアンバー警部補だった。彼はふてぶてしい態度で笑っていた。
「これはブラック特別警官殿、お待ちしておりましたぞ」
「何をしているのかと聞いているのです!」
ロビンは部屋に入ってアンバー警部補を睨み上げた。
ロビンくらいの子供が睨んでも、警部補ほどの中年男は歯牙にもかけないらしい。ふてぶてしい態度を崩さない。
ロビンはアンバー警部補から離れて、うずくまるルイズの背にやさしく手を当てながら屈んだ。
「ハン! 子供は子供にお優しいってわけかい。ガキだろうが犯罪者は犯罪者だ。そこんとこはわかっているんでしょうかねえ?」
ルイズの背に手を当てたまま、ロビンはアンバー警部補を睨み上げた。
「違う! ルイズは逮捕ではなく保護です。罪状が明らかではない者に、このような折檻を加えることは禁止されています。しかもこんな子供に……」
「王都のエリート様がどうだろうが、ここはフロッセだ。フロッセじゃ、保護だろうか子供だろうが牢に入った奴は罪を自白させるんですよ。犯罪の現場にいた奴は犯罪者だ。犯罪者の奴には拷問でも何でもしないと、つけ上げるだけです」
被疑者の持ち物から凶器が見つかるなどの証拠がない場合、頼りになるのは犯行の目撃者と被疑者の自白だけだ。
だから被疑者が自白するように拷問することは――ロビンは嫌いな手口だが――、自白させる方法として有効だった。
問題はそこではない。ルイズはほぼ参考人としてロビンが保護の名目で連れ帰ったようなものなのだ。話を聞いて、罪がなければ釈放する。それを最初から犯罪者のように扱って拷問することなど、まかり通ってはならない。
「尋問は私がします。貴方は外に出ていなさい」
「ああ? 客分警官のくせにそんな命令ができるのかよ?」
警部補の態度は次第に大きくなっている。
「特別捜査官は地方警察の警部クラスの権限を持っている。これは特別警察としての命令です。下がりなさい!」
ロビンが強く叫ぶと、警部補はこちらに聞こえるよう強い舌打ちをしながら、強く扉を叩くようにして出ていった。
熱くなっている。自分らしくもない。
でも、こんなふうに暴行を加えることなど、ひとりの人間として許せない。
「……大丈夫ですか?」
ロビンはできるだけ声を和らげた。
ルイズは手負いの獣のような鋭い眼光でロビンを睨んだ。
警戒と憎悪と怯え。それらが渦巻いた激しい感情が、前髪の下からロビンを睨み上げている。
「先程の横暴は、ひとりの警察として本意ではありません。私がかわって謝罪します。本当に申し訳ありませんでした」
ロビンはルイズの前で姿勢を正し、頭を下げた。
「話を聞く前に傷の手当てをしましょう」
そう言ってロビンはルイズの手を取ろうとするが、強く振り払われた。
それも当然だろう。ロビンはひとりの警察官として接しているつもりでも、ルイズにとっては警察組織全体の印象がロビンにかかっている。先程の暴行ですら、アンバー警部補個人ではなく警察組織として認識するはずだ。
「どうか話を聞かせてくれませんか。貴方に罪がないとわかれば、ただちに釈放します。もう暴力や拷問などさせませんから」
ルイズの鋭い眼光はロビンに向けられたままだ。
ロビンは仕方なく、いつもかぶっている黒いフードを取った。フードを取ると顔に残る幼い面差しがはっきりとわかるので、ひとりのとき以外は外さない。同じ警察官にも犯罪者にも舐められやすいからだ。
だが、ルイズと話をするには十六歳のロビンとして接した方がいいと思った。
ルイズも戸惑ったようにロビンを見ている。
「僕は十六歳です。警察では異例の子供なんですよ。名前はロバート・ブラック。親しい人はロビンと呼びます。貴方のお名前は?」
ルイズは血が滲んだ唇を固く閉ざしている。
「僕は元々、ここからずっと南にある王都という町から来ました。この町の犯罪を減らすために」
掠れた小さな声がした。
「……あんたが、〈黒猫〉なの」
ルイズが答えてくれた。ロビンは逸る気持ちを抑えながら、穏やかに答える。
「はい。そう呼ぶ人も多いです。黒い山猫……、東方の山に大きな猫がいるのです。狩りが上手い、力強い獣になぞらえているのです。山猫のことは知っていますか?」
ルイズは下を向いて首を横に振った。
ロビンの言葉で、少しずつ態度が軟化しているようだ。
少しでも信頼を積み重ねないと、警戒心の強いこんな子供はきっと何も話してくれない。拷問などすればなおさら口を閉ざすだろう。
まずロビンを信用してもらう。そのためには、ほんの少しでも信用を崩すような言動を取ってはならない。根気強く話していくしかないだろう。
「よかったら、名前を教えてくれませんか? ファミリーネームでも……」
「ない!」
突然ルイズが叫んだ。
「オレにそんなものないッ!」
ロビンはルイズの剣幕に言葉をなくしてしまった。
見たところ身体も小さく、髪や服は汚れている。
両親がいない孤児や浮浪児がこの町には多いというから、この子もそんな孤児のひとりなのだろう。親がいないことに傷つき、恨みを抱いているのだ。
「僕にも両親がいないんです」
そう言うと、ルイズはロビンの様子を窺うようにこちらをちらと見た。
「母は僕が幼い頃、生まれたばかりの弟を連れて出ていってしまいました。父に育てられてきたのですが、君くらいの年の頃、殺されました」
ロビンの父は賞金稼ぎだった。銃の名手で、狙った賞金首を捕えては警察に引き渡すことを生業にしていた。
父はロビンに銃の使い方と、犯罪者の捕まえ方を教え込んだ。ロビンの戦い方は父親から継いだものだ。
父は多くの犯罪者を捕まえたが、そのせいで犯罪者たちからの恨みを相当買っていた。あるとき犯罪者の悪意の矛先は、市民ではなく父に向けられた。
父は仕事に出かけていって、そして遺体で発見された。
警察によって捕まった犯人は悪びれもせずに父への罵詈雑言をあげつらったという。多くの仲間を死刑台送りにしたロビンの父が目障りだ、死んで清々した、と犯人の少年は言ったのだ。
そのあらましを、ロビンは簡単にルイズに語った。
私利私欲のために他者の命を奪う犯罪者をロビンは憎んでいる。だから凶悪犯罪をひとつでも減らすために働いている。そんな警察官であることに誇りを持っている。
それなのに、孤児を狩り、児童失踪事件を放置し、罪も明らかではない子供に暴行を加えるフロッセの警察機構に、ロビンは強い怒りを覚えている。
そうだ。自分は、怒っているのだ。
警察官であることを「正しい」と思い、警察の行いを正義だと考えて生きてきたロビンにとって、この腐敗した地方警察の横暴に心底吐き気がした。自分が籍を置いている場所は本当に正しい場所なのか、ロビンは迷い始めている。
ルイズはロビンの話を黙って聞いていた。
ルイズは地面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……あんたは、父親を殺した犯人が憎いの」
「そうですね。父のことは好きでしたから、正直憎いです。でも、国がその罪を裁いてくれたので、何とか気持ちには折り合いをつけていると思います」
ロビンの父を殺した少年は、ロビンにとっては憎い相手だ。
でもそれは、相手があの少年だっただけだ。
理不尽に命を奪われ、運命を捻じ曲げられた者たちは他にもたくさんいて、傷ついている。
だからロビンはあの少年よりも犯罪そのものに憎悪を向けることで父の事件を過去のものにしたつもりだ。
けれど父の事件の後味の苦さは、しこりのようにずっとロビンの心の片隅に残り続けている。
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