第24話 ナイフ
正しいことと悪いこと、強いことと弱いこと。
何が悪くて何がダメなのだろう。
自分は何の力もない、弱い子供だと知っている。
大人より速く走れても、こっそりカギを開けられても、盗みがメンバーで一番上手くても。
ルイは、警察やら法やら、そうした正しいとされているものには真正面では敵わない、ちっぽけな盗人だ。
世間的に見ればただの犯罪者で、親も家もない孤児で、どこにも行けないし、どこにも帰れない。
ルイズという名前だけを持つ、小さな子供でしかない。
ルイが持っている一番はじめの記憶は、母親らしき貧乏そうな女が、金の入った袋を持っている光景だ。
そしてルイは、見知らぬ男に連れられて子供がたくさん乗っている馬車に押し込まれる。
思い返せば、あれは奴隷商人だったのだろう。
ルイは、母親に売られたのだ。
馬車が向かった先は、辺境の炭鉱都市フロッセ。
そこでルイは更に売られて、炭鉱の暗い穴に押し込まれて石炭やら鉱石やらを掘り出すために働かされた。
あまりそのときのことは覚えていない。身体がだるくて頭がぼんやりしていたことだけ、はっきりしている。
湿ったような土と埃の臭いと、真っ暗な穴。ランプの小さな明かりは、ルイにとっては太陽と同じものだった。
与えられる食べ物はほんのひと切れの何かで、鎖に繋がれたままひたすら働かされていた。
作業の手が止まると濁声の叱責と鞭が飛んできた。鞭は嫌いだ。骨に響き、皮膚と肉が裂ける。
そんな地獄のような場所から、ルイは抜け出した。
何か騒ぎがあったのだ。それ以外のことは知らない。
ルイは鎖を繋ぐカギが、大人の腰のベルトに吊るされているのを知っていた。
大人が何かに気を取られている間に、息をするように腕を伸ばしてカギを盗っていた。カギを開けて手足が自由になると、ルイは騒ぎに乗じて町の方へ逃げ出した。
けれどそこで待っていたのは自由などではなく、〈孤児狩り〉に遭わないように路地裏に潜む浮浪児の暮らしだ。
逃げ遅れた子供が警官に連れていかれる光景を見たこともあれば、ルイ自身、危うく捕まりかけたこともある。
食べるものがなく衰弱死した子供もいれば、他の悪党に目をつけられて連れていかれたり殺されたりした子供もいた。
それでも浮浪児の数は減らなかった。
その日は雪が降っていた。
音もなく白い雪が舞っては暗い地面に積もっていく。
とても寒くて身体の震えが止まらなかった。ルイは身体を抱くように身を縮めて、路地でうずくまっていた。座り込む石の地面は冷たくて硬かった。
表通りを通る大人たちは路地に目を向けることもなく通り過ぎていく。あちら側は街灯もあって、建物の中から漏れる明かりもたくさんあって、とても暖かそうだった。
もう何日も食べていなかった。指先も爪先も冷えきって感覚がない。
ふと顔を上げると、近くの窓から明かりが漏れていた。
あの明かりに触れるだけでも暖かそうだった。ルイは光に誘われるように立ち上がり、背伸びして窓を覗き込んでみた。
そこには、テーブルの上で湯気を上げるいくつもの料理。火の点いた暖炉。テーブルについて笑っている二人の小さな男の子。その傍には優しそうな母親らしき女が、子供に笑いかけて柔らかそうな白いパンを手渡していた。
窓一枚隔てた向こう側に、夢のようなあたたかな光景が広がっている。本当のわけがない。きっと夢なのだ。
ルイはとてつもなく胸が痛くなって、窓から離れた。
そして窓の中が見えないように、路地の奥へ行ってさっきのように身体を抱いてうずくまった。
親とはどんなものか。
愛情とは何なのか。
生きるとは何を指すのか。
夢はどうやって見ればいいのか。
そんなことを考えるにはルイは幼く、ものを知らなかった。
冷えた身体のあちこちを手のひらで擦る。ほんの少しだけ熱が生じて、そして幻のように消えた。
「おい、君」
大人の声が近くで聞こえて、思わず顔を上げる。
路地裏の入口に、警察の制服を着た若い男が立っていた。
「こんな時間にこんなところで何をやってるんだ。早く家に帰りなさい」
若い警官はルイの傍で屈んだ。
浮浪児を知らないのだろうか。こんなところにいる子供に、帰る家があるとでも思っているのだろうか。それとも、騙して連れていって、また金にするつもりなのだろうか。
「さあ、立って。冷えきってるじゃないか」
警官はルイの細い腕を弱々しく掴んで引っ張った。抵抗するのも面倒で、ルイはされるがまま立ち上がる。
そのとき、警官の腰のベルトに銃とナイフが括りつけられているのを見た。
「おいで。お家まで送ってあげよう」
気味の悪い猫撫で声がルイの神経を逆撫でする。
どうして大人はこうなのだろう。腹の中では子供を利用することしか考えていないのに、親切めかして、蔑んで、いつもそうやって近づいて子供を消費しようとする。
「…………ぇよ」
「何だい?」
「そんなの、どこにもねえよ!」
ルイは頭に上った血が命令するまま、警官の腰にあったナイフを抜き取った。ルイの叫びも、突き立てたナイフの重みも、みんな夜の雪の中に吸い込まれていった。
警官の腹にナイフが深々と突き刺さっていた。
ルイが握るナイフの柄に、腹から流れた血が伝った。どろどろした赤い液体が手にも伝う。
それは吐きそうになるほど、温かかった。
ルイは正気に返ってナイフから手を離した。警官は何かを呻きながら腹を押さえ、見開いた目でルイを凝視した。
ルイを責めるような目をしたままうつ伏せに倒れた。
ルイの青白い小さな手には。
べったりと血がついていた。
「うっ……!」
震える両手を積もっている雪につけた。
雪は冷たいから、この生温かい感触を消し去ってくれると思ったのだ。雪で手を拭い、手指が冷えて痛くなっても両手を雪いだ。
ルイは走っていた。
手には、死んだ警官から盗った財布を握りしめている。
ルイは走った。雪が降る夜の中を。
目から熱い液体が溢れてくる。そのときはそれが涙だとは知らなかった。初めて泣いたから止め方がわからない。
ガス灯は路地裏を照らしてくれない。光が夜を照らしてくれても、ルイの元にはその光も温かさも届かない。
薄い靴が雪を踏みつける。中途半端に溶けていて、何度も滑って転びそうになる。
白い雪と石の黒と、その影でできたモノクロームの街を駆け抜ける。どこへ行っても路地裏を抜けられない。
ルペシュールのみんなと出会って、屋根のある場所だとか温かい食べ物だとか、仲間とか、そういうものを色々と教えてもらって。
それでもルイはこの路地裏から抜け出せない。
ルイの手にはまだ、べったりとあの若い警官の血がついている。雪で拭っても取れない血が。
ナイフなんてもう持てない。あの警官の腹に突き刺したから。あの感触が忘れられないから。
冬の窓は、あの日の温かい家族の情景へと繋がっている。
ルイは町の窓の中を見ないようにして走る。そこには幸せそうな家族がある。あんなものは嘘っぱちだ。
顔も知らない父と、金を手にした母。ルイに親なんていない。
親とはどんなものだろう。
愛情とは何なのだろう。
生きるとは何を指すのだろう。
夢なんてどうやって見ればいいのだろう。
自由なんてどこにあるのだろう。
こんな暗い路地裏じゃわからない。
雪の降るフロッセの町の路地裏を、ルイはひたすら走り続けている。
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