第21話 炎の魔術師

 もし過去に戻る方法があって、あのときの選択をやり直せるとしたら、ミシェルは違う道を選ぶだろうか。

 どんなに惨めでも、辛くても、例え間違っていたとしても、ミシェルは今の自分でいいと思う。

 犯罪に誇りなどはない。今の自分がした選択以外の道を、選ぶ自分が想像できないだけだ。

 あのとき、ミシェルは選んだ。

 他にも道はあったし、他の選択の方が穏当で誠実で賢明で、そうするべきだったとわかってはいたのだけれど。

 それでもミシェルは、後悔していない。

 ミシェルは、フォンマイルズ男爵家の子息だった。

 生まれてからずっと、上昇志向の強い父と、夫に隷属し続ける母の姿を見てきた。金と権力に固執する父のことが、ミシェルは小さな頃からあまり好きではなかった。

 フォンマイルズ家は貴族の末端でそこいらの商人よりも貧しく、金も権力もなかった。だから父はそれに固執していたし、ミシェルにもそれらを得るために生きることを望んだ。

 父は、金と権力を得ることが幸せになる道だと考えていたのだろう。貴族とはいえ家に金はなく、他の貴族たちへ媚びへつらうことで辛うじて存続しているような家だったから、父は何としても自立するためのものが欲しかったのだろう。他の貴族に従属する立場が嫌だったのかもしれない。

 いずれにせよ父を責めはしないし、恨んでもいない。

 ただ愚かだと思う。

 父は大分無理をして、ミシェルを国の最高学府である王立学院に入れた。王立学院は王宮の役人になるための入口のようなもので、有能な役人や学者を多く輩出している。金持ちや貴族の子息も多い。

 だが、立派なのは校舎と実績だけだった。

 王立学院に入れば、大抵の貴族はそのまま家の力を使って役人として出世することができる。国の最高学府は、既にその機能を失って巨大な石の塊と化していた。

 周囲は仲間とつるんで金に飽かせては遊んでばかりいた。

 ミシェルは爵位が上の貴族の子息たちと管を巻くほどの社交性も金も持っていなかったから、ひたすら勉強ばかりしていた。成績はいつも主席だった。

 家柄が低いくせに頭がよくて、爵位の高い者に迎合しないミシェルは、周りからすれば気に食わない奴でしかない。

 すぐにいじめの対象になった。

 辛いとも悲しいとも感じなかった。自分より勉強もできない奴らに偉そうにされたり、バカにされたりするのが嫌だった。親の権力と金でしか威張れない幼稚な連中に自分が踏みにじられ、蹂躙されている事実が屈辱的で仕方がなかった。

 けれど勉強以外できないミシェルは、例えば集団で囲まれ殴られればどうやっても勝てなかった。

 暴力や権力なんかに侵されない、誰にも負けない自分になりたかった。誰にも蔑まれず、誰にも侵されず、自分を守れるだけの強さが欲しかった。

 媚とコネと金と権力でのし上がる腐った貴族世界なんて嫌いだし、このまま学院を卒業して官僚になるのも嫌だった。

 能力もないくせに威張るような貴族に迎合するのが嫌だったし、それが求められる場所であると知っていたからだ。

 一瞬だけ死を考えたこともある。だが彼らに屈したみたいに死ぬのは嫌だった。

 弱い自分が大嫌いだった。強くなりたかった。

 だから他人を見下した。大人よりも他の貴族よりも、自分が一番すごいんだ、あいつらはバカなんだと思わなければ、自分を保つことができなかった。

 勉強は少しのミスも許せなかった。自分の寄りどころは主席という肩書だけ。そこにしがみついて、他人を見下さなければ生きていけない。臆病さを糊塗したプライドが、心の奥で芯になっていった。

 弱かった分だけ、ミシェルの自尊心は強くなった。

 幼稚だったと思う。まるで、世界のすべてを敵に回しているかのように振る舞って、尊大になることでしか自分を確立できなくて、そうすることでしか世界と渡り合えなかった。

 誰にも隙や弱みは見せられない。自分の弱みを他人に晒すことは、自分が他人より劣っていることを示すことになる。

 いじめは次第にエスカレートしていって、ただ殴られ蹴られるだけでは済まなくなっていった。

 金を要求されるようになったのだ。

 金持ちならいくらでも持っているだろうにと思った。だからそのまま言うと「うるせえ! お前ら貧乏人は黙って言うこときけばいいんだ!」と言って激しく殴ってきた。

 貧乏な男爵家はミシェルの学費を何とか絞るようにして捻出しているのだ。金などあるはずがない。もちろん手持ちの小遣いなどもなく、売りに出せるようなものもない。

 途方に暮れた。講師に言ったところで、爵位が上の方のご機嫌を取るに決まっているから当てにならない。

 どうしようか考えながら、いつものように書庫に篭った。

 閲覧許可申請をしなければ入れない書庫までは、いじめっ子たちが入ってこないのだ。書庫だけがミシェルの逃げ場で、司書の、わりとまともそうな講師はミシェルの事情を汲んで、長居するのをそれとなく見逃してくれていた。

 ミシェルは途方に暮れながら、書庫を奥へ奥へと進んだ。

 さすがに最高学府の書庫だけあって、蔵書は素晴らしい。

 読みきれないほどの本が溢れており、ランプの明かりをひとつだけつけて読みふけるのがミシェルの日課だった。

 そしてミシェルは、書庫で隠し扉の中に保管されていた魔術書を見つけてしまった。

 魔術の指南書は禁書だ。国は生まれながらの魔法使いも、後学で得る魔術も禁じていた。魔法は炎を操り星から予言を授かり、天候すら操れると聞く。おそらく、個人が強大な力を持つことを国が恐れたためだろう。

 ミシェルは少しの興味から本を開いて、読んだ。

 そしてその中に書かれていることがもし実現できるようになればと夢想した。あのいじめっ子たちを、もうミシェルに近づかないように痛い目に遭わせることができるかもしれないと。

 弱くない、誰にも尊厳を侵されたりしない強い自分になれるかもしれない。

学べば、力さえ手にできたら自分は変われる。

 そう思ったのだ。

 ミシェルは時間を忘れて、魔術書に夢中になった。

 内容は難解だった。主席の座を守り続けていたミシェルでなくては、習得には何年もかかったかもしれない。

 習得した魔術をいじめっ子たちで試してやろうと思った。

 だが、ミシェルが学んだ魔術というものは、そんな軽はずみな感覚でやるには、強大すぎた。

 巻き上がった炎はいじめっ子たち数人を一瞬にして燃やし尽くした。灼熱が肉や髪の毛を溶かし、瞬く間に灰にした。

 業火は制御できずに広がり続け、ついには王立学院を包み込んで三日以上も消えずに炎を巻き上げた。関係ない教師も生徒も、多くが巻き添えになった。

 取り返しのつかない罪が、悔いとともに残った。

 かわりに、強い自分を手に入れた。

〈炎の魔術師〉ミシェル・フォンマイルズは王都を出奔し、犯罪者として追われることとなった。

 そして流浪の果てにフロッセに辿り着き、ルペシュールの仲間たちと出会った。

 みんなで裁かれない悪人を倒そう、救われない弱い人たちを助けよう。ルペシュールはその信条を元に五人でやってきた。ミシェルはそんなメンバーを助けたいと思った。

 ミシェルはメンバーの中では一番頭がよかったから、率先して作戦を作ったりしてメンバーを助けた。

 四人ともミシェルを信頼し、尊敬してくれた。

 みんなと一緒にいるのは、楽しかった。

 腕っぷしでは人一倍弱いミシェルが、唯一の武器である頭脳でみんなを助け、みんなから信じてもらえる。

 たまに身体能力のなさが露呈するが、みんなそれを馬鹿にしたりしない。むしろ補い、ミシェルが一番力を発揮できる場所を与えてくれた。

 誰もミシェルの弱い部分なんて見ない。

 気を張らなくても、ミシェルの自尊心は傷つけられない。

 ミシェルの言う通りにすれば何でもうまくいく。そんな実績に由来する信頼を勝ち取って、ミシェルはこれからもその力を発揮すればよかった。

 それなのに、仕事に失敗したばかりか〈黒猫〉にルイを奪われてしまった。完全に自分の失態だった。

 もう少し警察の動きに目をつけておくべきだった。もっと冷静になっていれば、もっと周囲を見ていれば、ルイが捕まるようなことにはならなかったかもしれないのに。

 一度失敗したミシェルは、もうメンバーにとって頼れる存在ではない。力では駄目なのに、頭でも駄目ならミシェルはただの役立たずだ。

 自分はこんなにも弱い。

 頭脳や魔法で覆っていたものが剥ぎ取られた、いじめられていた頃と変わらない弱い子供だ。

 弱い自分になんて価値はない。何者にも侵されない強い自分でなければ、在りたい自分になれない。

 自分の弱さが大嫌いだった。弱いせいで他人に自分を踏み荒らされることが大嫌いだった。

 だから強くなりたかったのに。

 自分が得た「力」は、「強さ」ではなかった。

 魔法は、強さを誇示するためのものでも、誇りでも、自分の弱さを隠すものでもない。承認欲求を満たすための道具でもない。

 ミシェルは、魔法を得たことでずっと自分の弱さから目を逸らし続けてきた。自分は強いのだと思い込んでいた。

 けれどそれは間違いだった。

 力を得ても、自分は変わらず弱いまま。

 本当は、自分の弱さと向き合わなければならなかったのだ。

 どれだけ情けなくても、殴られ地べたを這いずり回っても、そんな自分を受け入れなければならなかった。

 それをするだけの余裕や勇気があの頃の自分にはなくて、ミシェルは結局、人を殺める選択を選んでしまった。

 ミシェルはあの頃、あのままでは絶対に耐えきれなかった。

 だからあの日のことを後悔はしていない。

 けれど罪悪感はある。自分が多くの命を奪ってしまった罪は、ずっと忘れずに背負っていかなければならない。

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