第9話 児童失踪事件
警察署内の端にある自分のデスクで静かに資料を読んでいたロビンは、堪えきれずに机を叩いて立ち上がった。
夜、捜査員が誰もいない署内にその音が空虚に響く。
コーヒーを二人分淹れてきてくれたヘイゼルは、ロビンの乱暴な態度に驚いていた。
「ど、どうしたのですか、ロビン殿?」
ロビンは机の上の資料を睨んだ。
「……信じられない。これが捜査資料ですか? こんな、初動捜査すらまともにしていない資料は読んだことがありません。いくらなんでも酷すぎる」
ヘイゼルはロビンの机にマグカップをひとつ置いてから、ロビンの向かい側にある自分の席についた。
「すみません。私も、こんなことは間違っていると思う。ですが、署長のお達しなのです。殺人事件や凶悪犯罪を優先して捜査させているのです」
「この件だって凶悪な事件には変わりない。十歳前後の子供が五人も失踪しているじゃないですか。事件を比べてどちらかを優先するなんておかしい。しかも、捜査員を根こそぎクラッカー氏殺害の件に動員するなんて」
ヘイゼルは苦しそうに両腕で頭を抱えた。
「この町には孤児や浮浪児も多く、子供のことを軽視する大人がいるのです。私も、食べ物もなく路頭に迷う子供を見るのは辛い。でも、そんな子供のすべてを助けることはできない。そうした罪のない子供を、ゴミのように扱う警察官を見たことがある。〈孤児狩り〉だと言って、そうした子供を犯罪者のように捕まえて、牢に入れる……!」
彼はこの署内では珍しく、穏やかで誠実な大人だ。
嘘が苦手そうな人だとこの数日間の会話でわかっていた。彼が今言ったことは本当に行われているのだろう。
身寄りも家もない、満足に食べられないような小さな子供たちが警察によって捕まり、牢に入れられる姿を想像する。
そんなことが平然とまかり通っているこの町の警察機構に対してロビンはショックを受けた。
「それは、本当なのですか?」
ヘイゼルは押し黙った。
彼はフロッセの出身で、生まれ育った町を守るために警察官になったと組んだ初日に話してくれた。フロッセのことはよく知っているはずだ。それが本当なのだ。
ヘイゼルは両手で顔を覆う。
「どれだけ働いても、理想が遠のいているようにさえ思います。私の立場では、町の子供を救えない。私は、自分の身可愛さに子供を見捨てている汚い大人のひとりなのです」
辺境の町の普通の警官の給料では、親もなく路頭に迷う子供を救うことはできないだろう。薄給とまではいかないが、自分や家族を食わせるだけでせいいっぱいのはずだ。
余所者で、子供として軽んじられているロビンでは、〈孤児狩り〉をする他の警察官の横暴を止めさせることも、警察署長を諫めることもできない。
特別捜査官は地方警察の警部より階級が高いのだが、地方警察と特別警察は別々の組織だ。この町の警察署の問題に口を出すのは越権行為になってしまう。
ロビンは椅子に座り直し、両肘をついて両手を組んだ。
「フロッセ市警の中では、この事件は殺人事件でもなく優先度が低い。私はフロッセ市警が思っているところの、大したことのない事件を任せられたということですか」
「すみません。せっかくフロッセまで来ていただいたというのに、このようなことで迷惑をかけてしまって」
「いいえ、子供の私が疎まれるのはどこへ行っても一緒ですから気にしていません。私がすべきことは事件の解決で、誰もやらないのならばなおさら、この事件を何とかしなければ」
ロビンはデスクの抽斗からスティックタイプの砂糖を二つ取り出して、全部コーヒーに注いだ。コーヒーは嫌いではないがブラックではさすがに苦すぎる。何も入れずに普通に口をつけているヘイゼルはやはり大人なのだ。
「それにしても、ヘイゼルさんが捜査資料の写しを持っていてくれて助かりました」
「本当に。アンバー警部補は、資料は署内にあると言っていたのに、一体どこへ仕舞ったのでしょうね」
それについては未だに謎だった。
アンバー警部補に言われた通り、署内にある捜査資料を読んでから捜査に当たろうと思っていたのだが、署内のどこにも初動捜査の資料がなかったのだ。
解決済みの事件でさえ、ちゃんと調書をファイリングして全部取っておいてあるはずだ。未解決事件の捜査資料を処分するはずがない。困ったと思った矢先、ヘイゼルが以前捜査資料を自分用に写していたことを思い出し、デスクから出してロビンに渡してくれたのだ。
ヘイゼルは今まで大した手柄を立てたことがないと言うが、荒事が得意な者が多い警察内において、誠実で柔らかい物腰と細やかな性格は稀少だ。きっと彼にしかできない警察官の在り方があるだろう。
ロビンは再び捜査資料に目を通す。
失踪した子供の家庭環境はどこも普通そうだ。
工場勤務、煙草会社の社員、馬車会社の御者、新聞社の社員、宝飾店の店員。どの父親も特に珍しくない仕事をしている。母親は主婦として家にいる者三人と、紡績工場で女工をしている者が二人と分かれていた。
子供は学校には行っていない。学校は金持ちの子や貴族の子しか行かない。一般家庭では親が生きるために必要なものをすべて教える。ロビンも学校には行ったことがないから、特に珍しい環境でもないだろう。
ロビンの父は賞金稼ぎや傭兵を仕事にしていた。銃とナイフを扱えるようになってからは父に同道して仕事を手伝うようになった。それが賞金稼ぎグループ「山猫の髭」だった。
ロビンは今まで多くの賞金首を捕え、警察に引き渡していった。その実績を知り、特別警察の長官が二年前にロビンをスカウトし、警官に推したのだ。
十四歳で黒服に袖を通したとき、ロビンは誇らしかった。
これで凶悪な犯罪者をもっと捕まえることができる、社会の正義を執行し、市民を助けることができると。
法を犯すことは、どんな事情があっても悪いことだ。
だからロビンは犯罪者を嫌う。
フロッセ市警たちのように、犯罪者は死んで当然だとか、悪い奴だから何をしてもいいとまでは思わないけれど。
善良に生きている人は、守るべき秩序を守ることで平穏に暮らしている。犯罪はそんな人の生を、尊厳を、物を奪う。
まだ肚の底の怒りが、燃え尽きずに燻っている。
奴らは卑劣で、不誠実で、利己的だ。自分のために泣いて笑い、自分のために人から物を奪い、自分のためなら人の命も奪う。そんな自己中心的な奴らの影で、泣いて、悲しむ他者がいるとは考えない。いるとわかっていても、自分のためならば他者を犠牲にする。
人が人として他の人間と生きるためには決まりごとが必要で、そこから秩序が生まれる。だから秩序と法を自ら守ることが必要になってくる。
守るべき権利が法によって保障されれば、人の尊厳が損なわれることはまずない。法の下に人はみんな平等で、家柄や貧富などで人の価値を決めたりしない。それが秩序だ。現在の法にはまだ改善すべき点はあるが、それでも法の下にすべての市民は、平等にはなった。
善良な市民から奪うだけの者を、自分のために他者を傷つけるような犯罪者を、ロビンは許せない。
人は集団の中で生きる生き物だ。だから集団内部での共通のルールが必要で、全員で守ることで人は何も損なわれずに生きることができるのだ。
ロビンはそのことをよく知っている。だから犯罪者は許さない。世に蔓延る悪は捕える。そうやって秩序を保つ。
資料に目を通していると、ヘイゼルは明るい声で世間話を始めた。
「それにしても、最近は町に子供も増えましたね。町が発展して住む人も増えて……。ご家庭でこの町に移られる人も多いそうです。以前と比べると、随分子供が増えたのですよ。学校を増やそうという動きもありますしね」
この気遣い上手の年上の相棒は、穏やかで人当たりもいい。
正直なところ、ロビンも自分を疎む警察官よりは、彼のような警官と組めたことを幸いだと思っていた。
今も〈孤児狩り〉など陰鬱な話題があったからだろうか、ヘイゼルは場を和ませようとしてくれているように思える。
ロビンは、資料に視線を落としたまま応じた。
「そうでしたか。子供たちに教育の場ができるかもしれないというのは、よいことですね」
ヘイゼルもにこやかに話を続ける。
「はい。少しでもフロッセの子供たちが健やかに暮らせればいいと思います」
ヘイゼルは思い出したように話を繋いだ。
「そういえば、学校以外にも子供のためのものが増えてきました。書店には童話集が並んだり、街頭には手品師が立って子供たち相手に手品を披露していたり……。よく昼から夕方にかけて、外で遊んでいる子供相手に興行しているのを目にします」
「手品……」
ロビンは呟く。
夕方にかけて興行。子供が集まる場所。
興行ならばあちこち回って色んな場所で子供たちを集めている可能性が高い。もしそうならば。
ロビンは勢いよく立ち上がった。背後でがたん、と椅子が荒々しく鳴り響く。
「ど、どうかされましたか?」
ヘイゼルはロビンの態度に呆気に取られている。
「行きましょう、ヘイゼルさん!」
ロビンは腰に銃があるのを確認し、事件の概要を記した手帳を制服のポケットに捩じ込んだ。
「行くって、どちらへ?」
「手品師です! 夕方近くまで子供相手に興行していたなら、何か知っているかも……。話を聞いてみましょう!」
ロビンは警察署を飛び出した。
「ま、待ってください!」
ヘイゼルが戸惑いながらついてくる気配が背中に伝わってきた。
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