第3話 盗人ルイズ
フロッセの街角に、コーヒーハウスの看板を掲げる店はいくつもある。店の扉を押し開け、ルイは今朝五件目に当たるコーヒーハウスに入った。
「店長、今日の新聞だよ」
ルイは小脇に抱えていた新聞をカウンターの上に広げた。
今朝刷られたばかりの、俗にタブロイド紙と呼ばれる大衆向けの小新聞だ。
政治や国際的な記事を載せる高級紙というものもあるが、ルイが出入りしている新聞社はタブロイド紙を作っていた。
「ああ、待っていたよ。これ、新聞のお代」
店長は代金をカウンターの上に載せる。ルイは代金を革袋に入れてしっかり封を閉め、肩にかけた鞄に突っ込む。
早速新聞を広げた店長がううんと唸った。
「あのクラッカーカンパニーの社長が殺された? ルペシュールの声明! こいつはすごい! 今日も店が繁盛しそうだ」
コーヒーハウスは飲み物と軽食を出す喫茶店だ。酒は出さず、コーヒーやココア、煙草を楽しみながら店に来る者と話したり、新聞や雑誌を読んだりできる。
客は新聞を読み、熱心に政治論争だか議論だかを行うという。人と情報が集まる社交場になっているのだとルイの仲間が話していた。
「今日もご苦労さん」
店長は新聞に顔を向けながら、出ていくルイに手を振った。
これでこの地区のコーヒーハウスは全部巡った。新聞を売ったかわりに鞄にはずしりと新聞代の重みがある。
ルイは鞄の肩紐をしっかり握りながら新聞社へ戻った。
扉を開けた途端に、社員の声、印刷機の音、紙の音が溢れてきた。慌ただしい新聞社の朝のいつもの光景だ。
カウンターの前に行くと、社員がルイに気づいてくれた。
社員はデスクから立ち上がるとカウンターを挟んでルイの前に立つ。
「やあ、ルイズ。コーヒーハウス巡り、ご苦労だね」
にこりと人の好い笑みを浮かべる社員へ、ルイは金の入った革袋を渡した。
「はい、今日の売上! 街頭でも稼ぐ?」
革袋の中身を確認しながら、社員はコインを何枚か別の小さな袋に包んだ。
「いや、今日はもう大丈夫。また明日頼むよ。今日の給金だ」
差し出された小さな袋を受け取り、ルイは新聞社を後にした。給金が入った袋を鞄に入れて落とさないようにする。
新聞社では、新聞を配る仕事を一部子供に分け与えてくれていた。ルイのような、明日の暮らしも確かではない貧困層にいる子供にとってはありがたい日銭稼ぎだった。
歩きながら、鞄から折り曲げた新聞紙を取り出す。売り物の新聞紙を一枚くすねたものだ。
一面には「クラッカーカンパニーの社長殺害」の記事が大きく載っていた。「町のヒーロー・ルペシュールがまた悪人を裁いた!」という小見出しがついている。
読んだことはないが、高級紙では「ルペシュールは殺人を繰り返し、町の秩序を乱す凶悪犯のグループだ」と言いきっているらしい。ルイは新聞を元通りに畳んで鞄に押し込んだ。
早足で駆けつけた初冬の風が冷たい。
フロッセの町は北方にあるらしいから冬の訪れも早い。
十一月に入って、朝から冷え込むことがめっきり増えた。
ルイは、寒いのが苦手だ。
石で造られた建物や地面は硬くて、冷たい。
ガス灯は夜を照らしてくれても、身体は温めてくれない。
薄いブーツの中で凍えるつま先。冷えて感覚がなくなる指先。雪が降っていても、路地裏で小さな身体を縮ませて過ごさなければならない夜。空腹でぼんやりする意識。背中に感じる冷たい石の感触。それがルイにとっての冬だ。
ルイは孤児だった。
親の顔と名前は知らないし、金もない。
屋根のある場所で暮らすようになったのは最近のことで、それまでは路地裏で寝起きして、生きるために食べ物を盗む小悪党だった。
フロッセでは貧乏人も浮浪人も孤児も珍しくない。
フロッセは今でこそいくつもの工場が立ち並ぶ大きな町だが、ひと昔前までは炭鉱しかない小さな町だったらしい。それが蒸気機関の発達でたくさんの工場ができた。工場や炭鉱に働きに出てくる者が集まって、町は一気に大きくなった。
富豪や成金も増えたが、それ以上に貧しい人は増えた。
そのあたりの仕組みを、ルイはよく知らない。
ただ、集まった労働者たちは低い賃金で重労働を強いられるようになった。そのせいなのか、犯罪が急増し、取り締まる警察官が強い権力を持つようになった。
今では横柄な警察官が町を我が物顔で歩いている。
町が整備され、労働の基準も決められてからは貧しい者も減ったが、孤児や貧困層の労働者が絶えることはなく、犯罪もあまり減らなかった。
それが治安の不安定な、今のフロッセの現状だ。
ルイはずっとこの町の路地裏を住処にスリで食い繋いできた。盗みが悪いことだというくらい、孤児のルイでも知っている。
何度も店の者に追いかけられ、警察に追い回された。店の大人に捕まって立つのもやっとなくらい殴られたこともある。
それでも盗みはやめなかった。
働いている今でも、必要ならば盗む。
法律は身寄りのない孤児を守ってくれない。警察や法律は、孤児をただの犯罪者として捕まえるだけだ。
だから警察も法律も大人も、ルイは大嫌いだった。
路地裏へと入る。薄暗く、埃と塵で汚れている。
ここは庭のようなものだ。路地裏は孤児や浮浪人の吹き溜まりだ。表通りからは見えず、何かあったとき迷路のように複雑に入り組んだ路地裏は逃げやすいから、表を歩けない者たちが自然に集う。
警察は〈孤児狩り〉をするとき以外、路地裏には入ってこない。警察が物々しく動けば事前に察知して逃げる孤児は多いし、警察官でも襲うような犯罪者が潜んでいることもあるからだ。
進んでいくと明るい表通りへ通じる小道が増え、表を窺えるようになる。表同士は裏でひとつに繋がっている。路地裏からでも、馬車や通行人が通り過ぎるのが見える。
その中に混じって、濃紺の制服姿の男が黒い鞄を手に提げて通るのが見えた。
「青服……?」
ルイたち小悪党や犯罪者は、警官たちのことを着ている制服の色から取って「青服」とも呼ぶ。
あんなふうに鞄を持ち歩くのは珍しい。警察にとって大事なものを運んでいるのかもしれない。
金か、もしくは捜査に使うものか。
いずれにせよ、ルイたちにとってメリットになるものだ。
ルイは路地裏を走って、警官が進む方向へ先回りを試みる。
別の路地から表通りを窺うと、例の警官が壁際に立って煙草をふかしている姿が見えた。鞄を足元に置いている。思っていたよりぞんざいな扱いだ。
ルイは再び路地裏を通り、警官の背後へ回った。
警官は煙草の煙を吐き出しながらぼんやりと立っている。
ルイは足音を忍ばせ、気配を隠して忍び寄る。警官はこちらにまったく気づいていない。ルイの心臓がどくどくと鳴る。指の先までぴりぴりと鼓動が通り抜けるようだ。
警官の背中が大きくなる。
相手はまだ気づかない。足に力を入れて更に腕を伸ばす。
黒い革の鞄の持ち手を掴み、素早く取り上げた。喜色が気配に出るのをぐっと抑え、鞄を腕に抱える。煙草をふかしたままの警官に注意を向けつつ、その場からそろりと離れる。
警官が見えなくなるまで気は抜けない。
路地裏の中ほどまで来てから、ルイは大きく息を吐いた。
「何とかなった……!」
抱えていた鞄を見てみる。あまり重くない。薄い黒革の鞄だ。蓋を開けると、書類が挟まったファイルが入っている。帰ったら仲間に見てもらおう。
ひとり満足げに頷き、鞄を閉めて小脇に抱えた。
「おい、お前!」
甲高い恫喝がルイの背を打った。ルイは素早く振り返る。
先程の警官が路地裏に立っていた。
「この盗人! 鞄返せ!」
ルイは咄嗟に地を蹴って逃げ出した。
「おい、待て!」
待てと言われて止まってやるものか。足音はしつこくついてくる。警官が諦める気配はない。路地が入り組む複雑な作りの道を、右へ左へと折れながらとにかく走った。
「あっ!」
壁が目の前に立ちはだかる。焦って道を間違えたのだ。
引き返そうにも、追いついた警察官が立っているので逃げ道はない。ルイは後ずさって、壁に背中をくっつけた。
「……ったく、大人しくしやがれッてんだ!」
警官がルイに迫って、力任せに警棒を叩きつけた。左肩に激痛が走る。腕を掴み上げられ、警棒で頬を打たれた。
「うぐっ!」
「薄汚い泥棒が! 牢屋にぶちこんでやる!」
口の中に血の味が滲んだ。ルイは歯を食いしばって警官を睨みつける。抵抗しようと身をよじらせても、大人の力の前ではびくともしなかった。
ルイの頬を警棒が何度も打つ。痛みで意識が飛びそうだった。
「へへ、コソ泥捕まえれば点数が伸びるぜ」
このまま大嫌いな警官に捕まって檻に入れられるのか。
死ぬまで、こんな奴らにいたぶられるのか。
どんな空腹より惨めな気がした。
これからの絶望を思って涙が出そうになる。
もうダメだと思った。
「――おいおっさん、子供相手にひでえことするもんだな」
上から少年の明るい声が降ってきた。
警官の暴力がぴたりと止まって、ルイは解放された。頭ががんがん痛み、逃げられそうにない。
その場に座り込んで声がした方を見上げる。二階建ての建物の屋根に、濃い灰色の髪の少年が立っていた。
「な、何だ、お前は!」
警官が威嚇するように吠える。
少年は薄ら笑いを浮かべたまま、二階の屋上から飛び降りた。
思わず目を逸らしそうになったが、少年は警官の前に軽やかに着地した。警官はその光景に一瞬呆然としたが、すぐに我を取り戻す。
「邪魔するならお前も牢にぶち込んでやるぞ!」
警官は顔を真っ赤にして、警棒を少年に向けて振りかぶった。黒ずくめの少年はコートのポケットに手を突っ込みながら、警棒を楽々とかわす。
「仕方ねえな」
少年は表情を失くしたように真顔になった。
ポケットから小さな折り畳み式のナイフを取り出す。
飛び出た銀色の刃に、ルイの全身が氷のように冷たく固まるのを感じた。
警官はナイフに目の色を変え、腰の拳銃に手をかけた。
警官が銃を構える。少年の姿がない。
少年は警官の背後に迫っていた。銃を取り出す目を離した僅かな隙に回り込んでいたのだ。
少年のナイフが警官の首筋を掻き切るように滑った。
警官は目を見開いたまま、口から真っ赤な血をごぼ、と吐き出した。
彼の首から大量の血が勢いよく噴き出る。悲鳴もなく地面に倒れ伏した警官が、自身の血溜まりに身を埋めた。
飛び散った血がルイの頬に飛んできた。その生温かい感触に、ルイの全身が恐怖に強張る。
少年は血を拭ったナイフをポケットに仕舞った。少年は警官の懐から財布を抜き取り、それもポケットに突っ込んだ。
ルイは指一本も動かすことができなかった。身体が震えていうことをきかない。歯がかちかちと小刻みに音を立てる。
「ルイ!」
少年がルイの目の前に屈んだ。
ルイの全身がびくんと跳ね上がるように震えた。
「ルイ、大丈夫か? 怪我は……、痛そうだな」
少年は笑みを浮かべてルイに手を差しのべる。
それを見て、ルイは心を落ち着けようと大きく深呼吸した。
少年の手を取って一緒に立ち上がると、まず彼を睨み上げる。
「アシル! 急に現れて警官殺すなんてびっくりしたよ!」
怖かった。アシルは普段ルイを弟のように可愛がってくれるが、仕事中は本業の顔を剥き出しにするのだ。
普段はにこにこ陽気なのに、仕事中は常に真顔だからアシルが冷たく見える。こればっかりはどうしても慣れない。
アシルもルイを怖がらせたことを理解してか、困ったように頬を掻いた。
「ああ、悪かったよ。通りがかったらルイが酷い目に遭ってたからさ。助けないとと思ってさあ」
「それは、本当に助かったけど……」
「それにしても、ダメだろ? 何だって警官から物を盗もうとしたんだ。リスクが大きいってわかってるだろ?」
叱るようにルイを見下ろすアシル。それについては返す言葉もない。あのまま捕まれば牢屋に連れていかれて、もっと酷い目に遭っていたに違いない。
それでも、警官が持っていた鞄が欲しかったのだ。
「……ごめん。アシルの仕事、手伝いたかったんだ。オレにだって、情報収集とかできると思って。偶然、警官が大事そうに鞄を持ってるのを見ちゃったから」
ルイは俯いて、理由を白状する。
アシルはルイのくすんだ茶髪を手のひらで雑に撫でた。
「ルイの気持ちは嬉しいぜ。でも、そのせいでお前に何かあったら、オレもみんなも、もっと嫌だからな」
「……うん!」
ルイは顔を上げた。怒られるより何より、仲間が自分を思ってくれていることがただ嬉しい。
アシルは快活に笑った。
「よし、帰るぞ! オレたちのアジトへ!」
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