第38話 贖罪の十字架 その5


「早苗さんの弟さんだったんですか」


「はい、昇くんって言います。確か今、小学六年です」


「そうなんですか……かわいい男の子でした」


「ですね。元気で明るくて、早苗ちゃんそっくりです」


「ふふふっ」




 テントの下に長椅子が置かれている休憩所に、二人は並んで座った。


 買ってきた林檎飴を舐めながら、柚希は紅音を気遣って言った。


「疲れてませんか?」


「はい、なんだか今日は、とっても気分がいいんです」


 紅音の嬉しそうなその笑顔は、柚希の胸をまた熱くした。


 少し暑いのか、紅音の首筋には汗が流れていた。


 柚希はハンカチを取り出すと、それを首筋にそっと当てた。


「きゃっ」


「あ、すいません。汗を拭こうと思って」


「あ、いえ……ありがとうございます……」


 そう言って紅音は、頬を赤らめてうつむいた。


 柚希がハンカチを優しく首筋に当てて汗を拭う。


「……なんだかこうしてもらってると、柚希さんと初めて会った日のこと、思い出します」


「初めて会った日、ですか」


「はい。あの川で柚希さんとお会いした日……私、今でもはっきりと覚えています」


「僕も……出会いはコウが」


「はい。コウが柚希さんの顔を舐めて……柚希さんの顔の傷、コウがしたんだと思って驚いてしまって……」


「そして紅音さんが僕の傷を、こうしてハンカチで……」


「もう随分前のことのようです」


「そうですね……まだ出会って4ヶ月なのに、紅音さんのこと、ずっと昔から知っていた様な気がします。でも紅音さん、これからの時間の方が、ずっとずっと長いんですよ」


「そうですね。これからもきっと、楽しいことがいっぱい待ってくれているんでしょうね」


「楽しいことだらけですよ、きっと」


「ふふっ、待ち遠しいです……」


「でも今日、紅音さんが来れて本当によかったです」


「はい」


 紅音も嬉しそうにうなずいた。




「私、柚希とキスしたんだ……」


 昇の手をひいて歩きながら、早苗は柚希と交わしたキスを思い出していた。


「あいつの唇……あったかかったな……」


 そして自分が口にした言葉で顔を赤くし、首を横に振った。


「お姉ちゃん、さっきから何ぶつぶつ言ってるんだよ。ちゃんと前見ないと危ないよ」


「え?あはははははっ、大丈夫大丈夫」




 柚希に抱きしめられた時、心臓が飛び出るかと思うぐらい驚いた。

 全身が燃えてしまうかと思った。

 しかしすぐにそれは、心地よい安息感へと変わっていった。


 何度も何度も、そんな瞬間を思い描いていた。

 しかしどんな想像よりも、柚希の体はたくましくて力強く、そして優しかった。

 あの時の感触を思い出すと、また気持ちがどこかに飛んでいってしまいそうだった。


 今、きっと紅音さんは柚希に想いを告げている。

 その時間を与えたつもりだった。

 同じ男を好きになった者として、正々堂々と勝負したかった。


 それに私は柚希のことも好きだけど、紅音さんのことも大好きなんだ。

 例えこの判断が、後々自分にとって望ましくない結果になったとしても、後悔する気はない、そう思っていた。




「きゃっ」


 そんなことを考えながら歩いていた早苗が、前を歩いてきた男とぶつかった。


「お姉ちゃん、だから言ったのに」


「す、すいません。大丈夫でしたか」




「……小倉じゃねぇか」




 その声に、早苗の血が一気に逆流した。


「山……崎……」


「へええっ、委員長もこんな所に来るんだな。それもまた……中々挑発的な格好で」


「お……お姉ちゃん……」


「大丈夫、お姉ちゃんの手、ちゃんと握って」


「小倉、折角の祭りだってのにガキのおもりかよ。寂しい限りだな」


「山崎、俺たちで遊んでやってもいいんじゃねえか」


 見ると山崎のほかに、男が二人いた。


「小倉、そう言う訳だ。ちょっと付き合えよ」


 そう言って山崎が早苗の手を掴もうとした。


 その手を、昇が蹴り上げた。


「いってえええっ!このガキ、何しやがるっ!」


「お姉ちゃん行くよ!」


 言葉と同時に、昇は山崎の膝を蹴った。


 支点を崩された山崎がうずくまったその隙を見逃さず、昇が早苗の手を引いた。


「お姉ちゃん、早く!」


「あ……う、うんっ」


 早苗が昇に手を引かれながらその場から走り去る。


「おら待てやあっ!」


 山崎が早苗を追う。


 しかし参道には人が溢れていて、思うように前に進めない。


「どけぇっ!」


「小倉っ!てめえ、覚えとけよっ!」


 山崎たちの怒声を背に受けながら、早苗は慣れぬ下駄で必死に走った。




 しばらく走ると、昇が速度を緩めた。


「はあっ、はあっ……」


 早苗が息を切らせ、傍らの木にもたれかかる。


「お姉ちゃん、大丈夫だった?」


「はあっ、はあっ……大丈夫。でもあんた、意外と喧嘩なれしてるんだね」


「男ならあれぐらい普通だよ。膝を蹴るのは父ちゃん直伝だけどね」


「あははっ、そっかぁ」


「なんだ昇、もう帰ってきたのか……ん?なんだ早苗、柚希くんに振られたんか」


「なんでそうなるのよっ!」


 飲み屋のテントから出てきた孝司は、いい感じに酔っていた。


「父ちゃん、さっき俺たち、不良に絡まれてたんだ。何とか逃げられたけど」


「不良……か。大丈夫だったか」


「うん、父ちゃんに教えてもらった通り、思い切り膝、蹴ってやった」


「そうかそうか、うはははははははっ」


「お父さん、昇のことお願いね。私、柚希の所に戻ってみるから」


「一人で大丈夫か?なんならついてってやるぞ」


「ありがと。でも大丈夫、お父さんは昇をお願いね」


「分かった……何かあったらどこでもいい、店に入って俺の名前を言え。何とかしてくれる筈だ」


「うん。ありがとう父さん、昇」




 早苗が柚希の元に向かう。


 早苗の胸に、言い様のない嫌な予感が生まれていた。


 しかしそれを打ち消し、早苗は走った。

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