第36話 贖罪の十字架 その3
三人が待ちに待った、夏祭りの日がやってきた。
山の斜面の長い階段を上がったところにある神社の参道は、遠目に見ても華やかな灯りで彩られていた。
祭りは六時から始まるが、紅音の家には七時に迎えに行く約束をしていた。
それは紅音が、早苗と柚希に少しでも二人だけの時間を過ごしてもらいたい、そう思っての配慮だった。
勿論そのことは伏せ、人ごみに出る前に父の診察を受ける為と説明しておいた。
「柚希―っ、準備できたー?」
玄関から早苗の声が聞こえた。
その声に柚希は慌ててカメラバックを持ち、
「今行くからー」
そう言って玄関に向かった。
「あ……」
玄関を開けた柚希が、目の前に立っている早苗の姿に言葉を失った。
赤を基調に彩られた浴衣姿の早苗は、これまで柚希が知っているどの早苗とも違う雰囲気を漂わせていた。
短い髪には簪が付けられていて、それが陽に反射して輝いている。
「……こんばんは、柚希……」
早苗がうつむき、恥ずかしそうにそう言った。
「あ……う、うん、こんばんは……」
柚希の目が早苗から離れなくなっていた。
いつも部屋では短パン姿で、それに比べたら露出度も遥かに少ないのだが、今の早苗には例えようのない色気と妖艶さがあった。
「柚希、その……感想とかは言ってくれないの」
「え……」
「だから、感想だよ感想。女の子がこうしておめかししてるんだから、感想の一つぐらい言うのが男の甲斐性でしょ」
「あ、ご、ごめん……その……とっても綺麗だよ、早苗ちゃん……」
「ひゃんっ」
柚希の感想に、早苗は顔を真っ赤にした。
「も、もう……馬鹿柚希、あんたストレートすぎるのよ」
「あ、いやその、でも本当、綺麗だから」
「ひゃんっ」
早苗の顔が更に赤くなり、声にもならない声が口から漏れた。
「おーい、お二人さーん」
隣の玄関からその様子を見ていた孝司が、ニヤニヤと笑いながら声をかけてきた。
「見てて中々面白いんだが……ずっとそこにいるつもりか?祭り、終わっちまうぞ」
「お父さんってば!からかわないでよ」
「うはははははははっ!青春だねぇお二人さん」
「いいよ、もうっ……行くよ、柚希」
「あ、う、うん……じゃあおじさん、行って来ます」
「おお、楽しんで来るんだぞ。早苗―っ、朝帰りになったら鍵は郵便箱の裏だからなー」
「うるさーい、この馬鹿親父―っ」
「うはははははははっ」
「でさあ、なんであんたはいつもの服な訳?」
「うん、浴衣だと、写真も撮りにくいし」
「あんたってば写真、ほんと好きだよね」
「今日は年に一度のイベントだしね。結構楽しみにしてるんだ」
「そっか」
「それに、もし」
「もし?」
「紅音さんの具合が悪くなったら、おぶって送るつもりだから」
「……」
その言葉に、早苗の胸がチクリと痛んだ。
「早苗ちゃん?」
「あ、あはははっ、そうだよね」
「紅音さんと合流するまで、どうしてようか」
「ねえねえ柚希、私も色々回りたい所あるんだ。一緒に回らない?」
「そうだね、じっと待ってても仕方ないし……よし、じゃあ先に遊んでようか」
「うんっ!」
二人は急ぎ足で階段を駆け上がり、出店通りに入った。
周りには祭りの定番の店が所狭しと並んでいる。
早苗は柚希の手を引き、嬉しそうに店を巡った。
童心に帰ったような早苗の笑顔はまぶしくて、それを見ている柚希も嬉しかった。
射的で銃を構える早苗、景品を取り、嬉しそうにピースをする早苗。
キャラクターのお面を被り笑う早苗、たこ焼きを頬張る早苗。
その瞬間瞬間シャッターを切りながら、柚希は自分の胸が熱くなっていくのを感じていた。
「はあ~、ちょっと休憩」
人通りから外れた境内で、お堂の階段に座って早苗がつぶやいた。
「早苗ちゃん、飛ばしすぎだって。そんなんじゃ紅音さんと合流した時まで持たないよ」
笑いながら柚希も、早苗の隣に腰を下ろした。
「でもすごいね、祭りって。僕も小さい時に父さんと行ったきりだったから、こんなに賑やかだったってこと、忘れてたよ」
「この街の一大イベントだからね」
まだ陽が落ちきっていないが、境内の辺りは木が生い茂っていて、辺りは薄暗く静かだった。
参道から聞こえる喧騒も遠くに感じられる。
「どうしたの?」
柚希が見ると、かき氷を食べたばかりの早苗が少し震えていた。
「早苗ちゃん寒いの?」
「うん、ちょっとだけ」
「戻って何か、温かい物でも飲もうか」
そう言って立ち上がろうとした柚希の服を、早苗が掴んだ。
「早苗ちゃん?」
「もうちょっとだけ、ここにいたい……かも……」
「うん……いいよ」
柚希はうなずき、はおっていたポロシャツを脱ぎ、それを紅音の肩にかけた。
「ありがと……」
「あと十五分したら、紅音さんを迎えに行こう」
「うん……」
「色々回ってみたけど、紅音さんが楽しめそうな物もあったよね」
「……うん」
「紅音さんも小さい時以来だって言ってたから、僕と一緒でびっくりするだろうな」
「……」
「そうだ、林檎飴、あれっておいしそうだったよね。後で三人で、一緒に食べようか」
「柚希」
「何?」
「柚希ってば、さっきから紅音さんの話ばっかで……柚希、今は私といるんだよ」
「え……」
「柚希、私は今、ここにいるんだよ……柚希の目に、私はちゃんと映ってる?」
そう言って早苗が立ち上がると、独り言のようにつぶやいた。
「ごめん、紅音さん……私、駄目だよ……気持ち、もう抑えられないよ……」
柚希が立ち上がり、早苗の肩に手を置いた。
「早苗ちゃん、どうかした?よく聞こえ……」
振り向いた早苗の唇が、柚希の言葉を遮った。
「……」
柚希の唇に、早苗の体温が伝わってくる。
柔らかく温かいその唇は、小刻みに震えていた。
柚希の耳に、歯がカタカタと鳴っている音が聞こえる。
ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
しかし柚希にとって、それは長く長く感じられた。
やがて早苗は唇を離すと、柚希の胸元で苦しそうに咳き込んだ。
「みんな、どうやってるの……息が、息が続かないよ……」
早苗がそう言って顔を上げ、小さく笑った。
早苗の突然の行動に激しく動揺し、とまどった柚希だったが、早苗の笑顔がそれらを打ち消していった。
目の前で、顔を真っ赤にして笑う早苗。
その表情に柚希が、どうしようもない愛おしさを感じた。
柚希がゆっくりと早苗の肩に手をやった。
「早苗……ちゃん……キスの時、息をしててもいいらしいよ」
自分でも驚くぐらい、声が震えていた。
「え、そうなの?私ってば、ファーストキスまでしくじっちゃったの?」
「そんなこと……とっても優しいキス……だった……」
「柚希……」
今度は柚希から、早苗に唇を重ねた。
早苗は後頭部が燃える様に熱くなるのを感じた。
今度はゆっくりと鼻から呼吸をする。
すると不思議と、さっきよりも気持ちが落ち着いた。
柚希のぬくもり、柚希の優しさに早苗が包み込まれていった。
「ありがと、柚希……」
唇がそっと離されると、早苗は顔を赤くしてうつむき、柚希にそう言った。
「早苗……ちゃん……」
そして早苗は、意を決して柚希を見た。
「――藤崎柚希くん、私はあなたのことが……好きです!」
足ががくがくと震えた。
止めようと思えば思うほど、震えは止まらなくなっていった。
気付かない内に、瞳が涙で濡れていた。
「ずっと……ずっと私、柚希のことを想ってた……自分の気持ちに気付いたのは、柚希が怪我をした時だった……でも、考えてみたら私、柚希と初めて出会った時から、柚希のことを意識してたと思う……
色んなことがあって……柚希の過去に触れて、柚希の苦しみに触れて……柚希の優しさに触れて、柚希の強さに触れて……」
「早苗ちゃん……」
「あははっ、何言ってるんだろうね私……駄目だな、ちゃんと考えてきた通りに言おうって思ってたのに……頭の中が滅茶苦茶になってるよ……」
「十分だよ。気持ち、十分伝わってるから」
「本当に?やっぱ柚希、空気読むのに慣れてるんだね」
「ははっ……」
「あんたが紅音さんを好きだってことも、分かってる」
「それは……」
「でもいいの。それでもいいの。私は今、どうしても自分のこの想いを柚希に伝えたかった……だから私、後悔はしてな……」
柚希が早苗を抱きしめた。
「ゆず……き……」
「早苗ちゃん……僕も……僕も、早苗ちゃんのこと、好きだよ」
「え……」
「早苗ちゃんのことを考えるとドキドキしてた……早苗ちゃんをこうしたい、そんなことを考えたこともあった」
「柚希……」
「でも早苗ちゃん……返事、少しだけ待って欲しい……」
柚希が体を離し、早苗の瞳をみつめた。
「早苗ちゃんを好きだと言うのは本当なんだ。だけど、紅音さんのことを大切に思ってるのも本当なんだ……だから」
「分かってるよ、柚希」
「え……」
「好きな男の気持ちぐらい、分かってるって言ったの。あんたが紅音さんのことをどれだけ大切に思ってるか、どれだけ好きなのか、知らないとでも思った?」
「早苗ちゃん……」
「でも、それを今告白したばかりの女子に言う辺りが、柚希らしいんだよね」
「あ、ご、ごめん……」
「いいのよ柚希。それがあんたなんだから。そして私は、きっとそんなあんただから好きになっちゃったんだ」
「ありがとう、早苗ちゃん……でも、近い内に必ず返事する」
「うん、待ってるね……でね、柚希……」
「え……」
柚希の首に腕を回し、早苗がもう一度唇を重ねた。
一瞬驚いたが、柚希も早苗の腰に手を回し、抱きしめた。
二人はそのまま、長い時間抱き合っていた。
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