第32話 揺れる想い その3


「遅くなっちゃったな。早く行かないと、紅音さんの散歩の時間が終わっちゃう」




 終業式。

 部活を終えた早苗が慌てて靴を履き替えていた。


 先に川に向かった柚希には「私が行くまで紅音さんに待ってもらってて」と頼んでおいたが、紅音の体調次第では引き止めることも出来なくなってしまう。


 そう思いながらロッカーの鍵を掛け、鞄を手にしたその時、背後から声がした。


「小倉じゃねえか」


 その声は、早苗が今一番聞きたくない声だった。


 早苗は自分の血が逆流しているかの様な感覚を覚えた。


「おい小倉、シカトすんなよ」


「……何よ、山崎」




 早苗がゆっくり振り向くと、そこには山崎が早苗を見下ろす様に立っていた。


 何一つ悪いことをしていない柚希が、ただ虫が好かないと言う理由だけで理不尽な目にあい、大怪我をした。


 眠りから覚めない柚希を看病しながら、早苗は泣いた。

 そしてまだ見ぬ犯人のことを考えると、その存在ごとこの世から消し去りたい、とまで思ってしまった。


 そして目覚めた柚希が山崎の名を口にしたあの時、早苗の中に生まれて初めて、他人に対しての憎しみが生まれた。

 山崎にどうやって報いを受けさせるか考えた。


 その早苗の心を見透かしたかの様に、柚希は自分の力で乗り越えたいと言った。

 自分でも抑え切れなくなっていた邪悪な気持ちを、柚希が静めてくれた。

 早苗は柚希の決意の強さを知り、柚希の意思に従おうと思った。

 しかし次に山崎に会った時、気持ちを抑えられるかどうか、自分でも自信がなかった。


 同じクラスなので顔を合わさないのは無理だった。

 だから教室内では、山崎の存在その物を自分の中から消し去り、考えないよう心がけた。

 しかし今、全く心構えが出来ていない状況で山崎から声をかけてきた。

 早苗の中の押し殺していた怒りが、一気に蘇った。




 鞄を持つ手は震えていた。


 早苗は山崎の顔から視線を外し、言った。


「何か用なの?私急いでるんだけど」


 早苗のその言葉には、明らかに山崎に対する嫌悪感が滲み出ていた。


 それを感じ取った山崎が、早苗を威圧する様に声をあげた。


「おい小倉、てめえ調子に乗るのも程々にしろよ」


「何が調子よ。調子に乗ってるのはあんたでしょ、山崎」


「何ぃ……」


「いっつもそう。大きい声で人を威圧して、それでみんながあんたに従うとでも思ってるの?言っとくけどね、あんたがそうして脅しても、誰も怖がっちゃいないよ。ただ巻き込まれたら面倒だから黙ってるだけ。あんた、高校生にもなってそんなことも分からない?」


 一度吐き出された感情は止まらない。


 これまで早苗が押さえ込んでいた言葉が、山崎に向けて一気に放たれた。


「あんたは強くなんかないんだ。ちょっと人より腕力があるだけ。でもね、腕力で人が言いなりになると思ったら大間違いなんだからね」


「……はっ……ははははっ」


 山崎が不意に笑い出した。


「何がおかしいのよ。図星突かれて動揺してるの?」


「小倉、やっぱりお前は女だよ。何にも分かっちゃいねえ。人間ってのはな、一発殴って言うことを聞かなければ二発殴ればいいんだよ。それでも駄目なら三発だ。

 力以上の物なんてこの世にはねえんだよ。手に入れたい物を手に入れる為ならな、例え殺してでも手に入れる。そうすりゃ世の中、自分の思いのままなんだよ」


「殴……る……」


 早苗の脳裏に、荒い息をしながら横たわっていた柚希の姿が、フラッシュバックの様に蘇った。




「そうやってあんたは……柚希のことも……」


「あん?ああ、藤崎か。屑の分際で調子に乗ってたからな」


「……」


「クラス委員のお前を使ってクラスに入り込んで、自分も仲間です、みたいな顔しやがって。俺らを騙しておいて、詫びの一つもなしだ。お前もあんな屑の面倒なんか、いつまでも見てんじゃねえよ」


「山崎、あんた……」


「あんな屑、どこに行っても屑のまんまだ。お前もさっさと見切りをつけて」




 その瞬間、早苗は山崎の頬を張った。




「山崎……」


 早苗が肩をわなわなと震わせる。


「柚希が何をしたってのよ……あいつは……あいつはいつも周りを見て、周りの雰囲気を壊さないようにしながら、そっと生きてるんだよ……こっちに来てからも、今までも……柚希があんたに何かしたことがあるっての?何をしたって言うの?何もしてないでしょ?それにあいつは……あいつは……」


「小倉てめぇ……」


「あいつはそれでも、あんたに殴られていることを誰にも言わずに、一人で耐えてたんだよ?あんたに大怪我させられた時だって、誰にも言わないでくれって言ったんだよ?それに、それに……あんたのことを憎んでもないんだよ?

 そんな、そんな柚希を、抵抗もしない柚希を、あんたは滅茶苦茶にしたんだよ?弱虫はどっちだよ!泣き虫はどっちだよ!」


「小倉あああっ!てめぇよくもっ!」


「屑はあんただっ!」




 気がつけば早苗は泣いていた。


 世の中の理不尽さに、柚希の決意を嘲笑う様に何一つ変わっていない現実に。


 その早苗の勢いは、山崎を少なからず動揺させた。




「何やってるんだお前ら」


 その時、通りがかった教師が声をかけてきた。


「小倉、どうしたんだ。泣いてるのか」


「ちっ……」


「おい待て山崎。お前、小倉に何かしたのか」


「何もしてねえよ。そいつが勝手に泣き出しただけだ」


 そう言って山崎が大股で去っていった。


「小倉、大丈夫なのか」


「あ……はい先生……すいません……」


「何かされたのか」


「いえ、大丈夫です……ちょっと言い合いになっただけですから……」


 そう言って早苗は涙を拭いた。


「すいませんでした。私も帰ります」


「大丈夫か?何なら家まで送るぞ」


「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから……さよなら」


 そう言うと、早苗はその場から小走りに去って行った。




 自分でも驚いていた。

 隠すことなく感情を出すタイプだとは思っていたが、ここまで人に対して憎悪の感情をぶつけたのは初めてだった。

 それがなぜなのか、早苗は考えていた。


 理不尽な山崎の言動に対し、正義感が発動したのは分かる。

 しかし、それだけであの様な感情の爆発はあるだろうか。

 考えていると、知らぬ間に柚希の顔が浮かんでいた。



 そうか……



 早苗が立ち止まり、うなずいた。

 自分にとって柚希は、かけがえのない存在になっている。

 その柚希が侮辱された。

 それが自分の中にあった、様々な感情を吐き出させたのだ。


 山崎に対して吐き出した言葉、それはどれも全て、柚希に向けて心の中で叫び続けている「好き」と言う言葉だったんだ、そう早苗が思った。

 早苗自身驚いた。

 これほどまでに柚希の存在が大きくなっている。

 早苗の中に、今すぐ柚希に会いたい、その思いが一気に膨らんだ。


 早苗は走った。息を切らせながら、土手を全速力で駆けた。


 柚希……柚希柚希柚希……!




「あはははっ」


 柚希の笑い声が聞こえた。


 穏やかで、耳障りのいいその音に早苗の心が癒されていく。


 口元に自然と笑みがこぼれる。


 早苗が土手から柚希を見下ろし声をかけようとした。


「あ……」


 見下ろした先には、紅音と笑顔で話している柚希の姿があった。


 優しく笑うその表情は、幸福感で満たされていた。


 早苗は反射的に声を押し殺し、その場で身を屈めた。




「早苗さん、遅いですね」


「そうですね。夏休みの予定決めが、長引いてるのかも」


「部活の、ですか?」


「はい。早苗ちゃんのクラブ、秋に大会があるので」


「そうなんですか。晴美さんの所でも修行されてるし、早苗さんは本当に頑張り屋さんですね」


「ですね。僕なんか足元にも及ばないぐらいに……でも、そんな早苗ちゃん、格好いいんですよ」


「そうですね。私も早苗さんのこと、格好いいっていつも思ってます」


「はい、僕の目標でもあるんです。早苗ちゃんは」


「……それから、柚希さん」


「え?」


「えいっ」


「いたたたたたっ……ええっ?僕、また『僕なんか』って言いました?」


「はい、はっきりと」


「いたたたたたっ。そっか、また言っちゃったかぁ……」


「ふふふっ」


「あはははっ」




 二人の声を聞きながら、早苗は自分でもなぜか分からないまま、口を両手で押さえながら泣いた。


 二人に気付かれないように……

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