第21話 明かされる真実 その1


 次の日、柚希は何とか自力で歩けるようになっていた。


 まだあちこちが痛むが、それでも昨日、四つん這いになってトイレに行っていたことを思えばかなりの回復だった。




 この日も早苗は、朝からおかゆを持ってやってきた。


「はい柚希、あーん」


「い、いいよ早苗ちゃん、自分で食べられるから」


「そう?本当に?」


 そう言って早苗が柚希の右腕を鷲掴みした。


 腕に激痛が走り、柚希は思わず悲鳴をあげた。


「ねっ」


「わ、分かったよ……」


 観念した柚希が口を開ける。


 早苗が満足そうに笑い、柚希の口におかゆを運んだ。


「どう?おいしい?」


「うん……おいしいけど……これはかなり恥ずかしい、かな……」


「あはははっ、実は私も」


 柚希への思いを自覚した早苗は、昨晩もほとんど眠ることが出来なかった。

 明日からどんな顔をして柚希に会えばいいんだろうか。その答えが出ないままに、朝を迎えてしまった。

 おかゆを作っている間も、柚希のことを考えると動揺が収まらず、一食目を見事に焦がしてしまった。


 普段通り、普段通りと口にしながら柚希の顔を見た瞬間、全身に電撃が走るような感覚を覚えた。

 その動揺を隠そうと、早苗はいつも以上にはしゃぎ、柚希をからかった。

 しかしそうして話しているうちに、早苗は自然と、いつも通りの自分に戻っていくのを感じていた。

 それは柚希から発せられる温かい雰囲気が、早苗の中に心地よく染み渡っていったからなのかもしれなかった。




 この日は朝から雨が降っていた。


 早苗は「気分が滅入る」と不満気だったが、窓の外から聞こえてくる雨の音に、柚希の気持ちは不思議と穏やかになっていた。

 雨が降ると、確かに不都合を感じることが多い。

 しかし柚希は、こうしてほんの少し、日常と違う立ち位置になって雨の音を聞いていると、慌しい日々を一旦リセットしてくれているような、自分の中にある「負の荷物」を洗い流してくれているような、そんな風に思えていた。



 朝食が済みしばらくすると、早苗は「またお昼にご飯持って来るね」と言って一旦家に帰った。

 帰る間際、早苗から「大人しく寝てるんだよ」と念押しされた柚希だったが、早苗が玄関を閉める音を確認すると、ベッドから抜け出して机に向かった。


 ちゃんと休んでいないと治りが遅くなることは分かっていたが、丸二日も寝ていると流石に気分が滅入りそうになっていた。


 机の上のネガが入った箱を開けると、一枚ずつ窓にかざしていく。

 新緑に染まった山々、色とりどりの花、紺碧の空に浮かぶ雲。

 一枚一枚を覗き込み、時には首をかしげ、時には満足そうな笑みを浮かべた。


 そして一枚のネガを覗き込んだ時、彼の動きが止まった。

 それは紅音の写真だった。



「……」


 温かく、どこまでも静かで美しく、優しく微笑んでいる紅音。

 柚希が知っている紅音はいつもそうだった。


 子供のようにふくれたり、泣きじゃくっている時ですら、彼女からは穏やかな雰囲気しか感じられなかった。

 まるで彼女の周りだけ、いつも時間がゆっくりと流れているようだった。

 それでいて、違和感や不快感を感じることはない。それが彼の知る紅音だった。


 しかし、二日前に見た彼女はそうではなかった。

 あのように激情をぶつけられたのは初めてだった。

 ある意味、喜怒哀楽がはっきりとしていて、いつもよりも人間らしいとも言えた。

 しかし柚希にとってあの時の紅音は、不自然であり違和感しか感じられなかった。


 今、彼女はどうしているのだろうか。

 父と晴美の看病の元、いつもの紅音に戻っているのだろうか。


 そんなことを考えている内に、柚希はいつの間にかそのまま眠りについていた。




 雨音に重なり聞こえてくる機械的な音に、柚希は目を覚ました。

 時計を見ると一時間ほど眠っていたようだった。


 小さなあくびを一つした時、再びその音が鳴った。

 それは廊下に置かれた黒電話の呼び出し音だった。


 柚希がその音に慌てて立ち上がると、腰の辺りがズキンと痛んだ。

 ゆっくり、一歩一歩確かめるように柚希は黒電話に向かって歩いた。

 やっとの思いでたどり着き、受話器を取ろうとした瞬間、電話は無情にも切れてしまった。

 柚希は溜息をつき、壁にもたれたままその場に座り込んだ。誰からだったんだろう……?

 そう思っていた時、再び電話が鳴った。


 柚希が慌てて受話器を手にした。


「もしもし、藤崎です」


「柚希か」


「……父さん?」


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、柚希の父、誠治の声だった。




「久しぶりだな、柚希」


「どうしたの父さん、こんな時間に。今、仕事中だろ」


「ああ、そうなんだけどな……ちょっとお前の声が聞きたくなってな」


 そう言って誠治が小さく笑った。


「こっちはえらい雨だぞ。昨日までいい天気だったのにな。そっちはどうだ?」


「うん、こっちも今朝から降ってるよ。まだこっちは小雨って感じだけど」


「そうか。もうすぐこっちの雨がそっちに向かうかも知らんからな、気をつけるんだぞ」


 誠治の声はいつもの様に力強く、そして穏やかな物だった。


 その声に柚希は安心感を覚えた。


「で、どうだ?調子は」


「まあ……それなりに……かな」


「いや、そうじゃなくてだな……怪我の具合はどうなんだ?」


 その誠治の問いに、柚希の言葉が止まった。




「おーい柚希、聞こえてるか?」


「……あ、ごめん。聞こえてるよ」


「怪我の具合だ。どうなんだ?随分派手にやられたみたいじゃないか」


「父さん、なんでそれを」


「ん?なんでってそりゃ、孝司のやつからに決まってるだろう」


「そっかぁ……」


 柚希が大きく溜息をついた。


「おいおい、そんな所で溜息ついてどうする。俺はあいつに、お前のことをよろしく頼むと言ってるんだ。お前が派手にやらかしたんだ、そりゃあ連絡ぐらいくれるさ」


「だよね」


「で、どうなんだ」


「……大丈夫、今朝起きたらだいぶ腫れもひいてたしね」


「そうか……医者には看てもらったのか?」


「まだだけど……二・三日様子を見て、まだ変な感じだったら行こうと思ってる」


「まあお前も子供じゃないからな、違和感があったら自分で判断して行くといいさ。特に頭だな。吐き気やめまいが続くようなら気をつけた方がいいぞ」


「そのつもり……」


「しかし中々派手にやらかしたそうだな。あの孝司が珍しく慌ててたぞ」


「おじさんが?」


「ああ。お前の息子、確かに預かったなんて偉そうに言ってたのに面目ないってな」


「……そうなんだ」


「ああ、だから言っておいた。男なんだから喧嘩の一つや二つするさ。あんまり気にするなってな」


「ははっ」


「まあその声の様子なら、怪我の方は大丈夫なようだな。あとお前、早苗ちゃんにもちゃんと礼を言っとくんだぞ」


「早苗ちゃん?」


「あの子からも電話をもらったんだがな、大泣きでしばらく会話にならなかった。柚希が、柚希がって何度も何度も繰り返して泣いてたよ。落ち着いてからしばらく話をしたんだが、電話を切る時には『柚希のことは任せてください、私がしっかり看病します』って言われたよ」


「……」


「……で、だ。まあ怪我なんて物はほっとけば勝手に治っていくさ。それはお前も、今まで何回も経験したから分かってるはずだ」


「うん……」


「そっちでの生活はどうだ?うまくやってるか?」


「……」




「第二の高木はいたか?」




 柚希はこれまで、あらゆる環境の中で生きてきた。

 そしてそこにはいつも必ず、柚希を攻撃してくる者たちがいた。

 何度もその環境から逃げてきた。そして新しい環境に希望を託した。

 しかしどこに行ってもその願いは砕かれ、彼は絶望していた。


 子供の頃、柚希は仕事から帰ってきた誠治にいつも「今日もいじめられた」と泣いてすがった。

 そんな息子を誠治は抱きしめ、いつも慰めていた。


 そんな中、いつの間にか彼らの間に、おかしな例えが生まれていた。

 今の環境で柚希は大沢と言う男子からいじめられている。

 次の環境に行くと、大沢はいなくなったが、次に津山と言う新しい敵が現れた。

 その時、誠治は津山のことを「第二の大沢」と呼んだのだ。

 その名前は環境を変える度に更新されていき、途切れることはなかった。

 そして今、誠治が口にした「高木」とは、前の学校で、柚希が自殺未遂をするきっかけを作った男の名前だった。




「どうだ、名前、また更新か」


 誠治はまるで、世間話でもしているかのような口調でそう聞いた。


「第二の高木くん、は……」


 そこまで言って、柚希は言葉を止めた。


 そしてしばらくして、視線を上げるとこう言った。


「名前の更新は……いいや」


 その声は、これまで誠治が聞いたことのなかった力強い物だった。


 その言葉に一瞬誠治は驚きの表情を浮かべたが、それはすぐに笑みに変わった。


「そうか」


「うん。名前の更新も随分したけど、もういいよ」


「今いるやつは、お前のリストに載らないか」


「載らない、いや、載せない……かな」


「そうか……柚希、お前変わったな」


「そうかな?」


「ああ、変わったと思うぞ。俺も、お前のいじめリストがいつかは途切れると思ってたけどな、こんなに早くお前がそう言うとは意外だったよ」


「まあ、今回の怪我は結構すごかったけどね、ははっ」


「そうか。じゃあこれでどうだ?今お前の前に立ちふさがってる最後の敵、ってのは俺も言いにくい。最後ってことだから、俺とお前との間でコードネーム『Z』って呼ぶのは」


「Z……ははっ、それ面白いかも」


「だろ?アルファベットの最後だからな、どうやってもこの先に作りようがないしな」


 誠治の奇抜な提案に、柚希は笑顔でうなずいた。




「Zに勝てるか、柚希」


「勝つ……って言うより『負けない』かな。どれだけZから嫌がらせがあっても負けない。卒業するまでにZに、僕をいじめても無駄だって諦めさせてみせる。そして大学に行っても、社会人になっても、僕はもう負けない男になってみせる」


「……そうか」


「父さんのおかげだよ」


「何?俺が何かしたか?」


「こっちに来てからの僕が、ずっと心の支えにしてる言葉をくれたのは父さんだから。『環境を変えるんじゃなくて自分が変われ』って。この言葉がなかったら、きっと名前の更新を続けてただろうし、今もずっと逃げてると思う」


「そうか。やっぱりお前、変わったな。孝司や早苗ちゃんにも今度、礼を言っておくよ」


「仕事は忙しい?」


「相変わらずだな。こればっかりは、俺がいくら変わろうと、どうにもなりそうにない」


「はははっ」


 その時、玄関のベルが鳴った。


「ごめん父さん、誰か来たみたいだから」


「ああ、俺もそろそろ仕事に戻るよ。いいか柚希、負けるなよ。お前は、お前が思っている以上に強い。自信を持つんだ」


「うん、ありがとう」


「近い内にそっちに行ける様に、俺も仕事を頑張るよ。体、大事にな。じゃ」


「また」


 そう言って柚希は受話器を置いた。


 電話を取る前に比べて、随分と気持が軽くなった気がした。


 自然と口元には笑みが漏れ、それが父、誠治の愛情に触れたおかげと感謝した。


 玄関のベルが規則正しくなり続けている。


「今行きまーす」


 そう言って柚希は、階段を一歩ずつ確かめながら下りていった。

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