第20話 壊された日常 その5


 それから三十分ほどかけて、柚希はこれまで山崎たちから受けてきたことを話した。

 嫌がらせや暴力のことを、事務的とも感じられるほどに淡々と語った。

 そして昨日受けた暴力のことを話し終えると、早苗に頼んで水を一口口に含んだ。

 こんなに長い時間一人で語ったのは久しぶりだった。



 柚希が語っている間、自分の知らない所でそこまでおぞましいことが起こっていたことに、早苗は震撼した。

 そしてそのことを気付けなかった自分の無力さを感じた。


「でも……」


 水を飲み終えた柚希が言葉を続けた。


「早苗ちゃん、これは僕からのお願いなんだけど、このことは早苗ちゃんの中にしまっておいてくれないかな」


「ちょ、ちょっと待って柚希。それってどう言う」


「さっき早苗ちゃんが言ってくれたように、これから早苗ちゃんには隠さないようにする。それは約束するよ。でも、これは僕が解決しなくちゃいけない問題だと思うんだ……

 僕は確かに、山崎くんたちからいじめを受けている。でもそれは、山崎くんの問題でもあるけど、僕の問題でもあるから」


「でも柚希、もうこれは柚希一人でどうこうなる問題じゃないよ。ちゃんと先生に話して、みんなで解決しなきゃいけないことだよ。それに柚希の問題って言うけど、そんなことないよ、これは山崎たちの問題だよ」


「僕の問題だと……思ってる」


「なんで?いじめてるのは山崎だよ?あいつが嫌がらせをしなくなったら、柚希は普通の生活を」


「多分、新しい山崎くんが生まれると思う」


「え……」


「今早苗ちゃん、山崎くんの問題だって言ったけど、この学校で、山崎くんからいじめを受けている他の人、知ってる?」


「……分からない」


「多分いないと思う。今、山崎くんからいじめを受けているのは僕なんだ。学校には何百人も生徒がいるのに、彼がいじめているのは僕だけなんだ。これがどう言うことか分かる?」


「……」


「山崎くんは誰でもいいからいじめたいんじゃない。僕が気に入らないんだよ。僕の存在その物が」


「ちょっと待って柚希。私、柚希が何を言ってるのかよく分からない。なんでいじめられてる方に問題があるの」


「理不尽だよね。だからこんな偉そうなこと言ってても、僕も昨日は大泣きしちゃったし……

 でも多分、そうなんだ。僕が、自分でこの問題を解決しないといけないんだ。僕が変わっていかないといけないんだ。でないと、例え山崎くんたちがいなくなったとしても、また新しい山崎くんが生まれて、やっぱり僕がまたいじめられる。

 今までずっとそうだった。どれだけ環境を変えても、僕はそう言う目にあってきた。環境も人も変わっている。なのに僕がいじめられる。そして分かったんだ。まあ、父さんが教えてくれたんだけど」


「何、それ……」


「たった一つだけ、変わっていない物があったんだ……そう、僕自身」


「……」


「僕自身が努力せず、僕のまま、ありのままでいても駄目なんだってこと」


「ありのままでいいじゃない。ありのままの自分の何が駄目だっての?」


「それが許されるのは子供の時だけだって、父さんが言ってた。成長して年を重ねていけば、色んな人と出会っていく。その人たちとうまく付き合って行く為には、いくつもの新しい自分を作り出していかないといけないんだって。自分は何の努力もせずにありのままで、人に合わせろと言うのは違うだろうって。僕もそう思う」


「いくつもの自分……」


「勿論全部自分だよ。そうして心地よい関係を築く為に、互いが努力しないといけないって。考えてみたら僕、これまでそんな努力、したことがなかった」




 自分の思いを語る柚希の言葉は力強かった。

 こんな状況になっても自らの力で打ち破ろうとする柚希の決意に、早苗は胸が熱くなるのを感じた。


 そして自分の子供に、そこまでの厳しい言葉を伝えることの出来る柚希の父、誠治との強い男の絆に全身が震えた。


「だから……もう少しだけ早苗ちゃん、僕に悪あがきさせてもらえないかな」


 そう言って柚希が笑顔を向けてきた。


 早苗は苦笑しながら小さくうなずいた。


「その笑顔、ずるいよ……分かった、分かったわよ柚希。それだけ男を出されたら、女の私がどうこう言うのは野暮ってもんだからね」


「ありがとう、早苗ちゃん」


「でも柚希、次にまた昨日みたいなことがあったら、私もどうするか分からないから。これだけは言っておくよ。柚希の問題は私の問題でもあるから」


「うん、分かった……なるべくこんなことにならないように、僕も気をつけるよ」


「柚希……」


 そう言って早苗が柚希に覆いかぶさってきた。


「え?え?ちょっと、早苗ちゃん」


「いいから、ちょっとだけ動かないで」


 耳元で囁くように早苗が言った。


「柚希……柚希がどれだけ苦しんでいたか、今日ちょっとだけ分かった……ごめんね、気付けなくて……」


「……」


「でも、今の柚希の話、ちょっとだけ格好良かったよ。柚希なら大丈夫、きっといい男になれるよ……」


 そう言って早苗はしばらくの間、柚希を抱きしめた。


 それは穏やかで温かく、そのぬくもりに二人は、言いようのない安息感を感じていた。




 一日ぶりに自分のベッドで横になりながら、早苗は柚希のことを考えていた。

 柚希の顔を思い浮かべると、昨日までとはまた違った何かが、自分の中に生まれているのを感じた。

 それが何なのか、早苗の中でもう答えは出ていた。


 傷だらけの柚希を見た時のあの、失いたくないと感じた強烈な思い。

 気がついた柚希の前で爆発した安堵の思い。

 そして強い意思を示した瞳の輝きに魅せられた自分。

 早苗は自分の気持ちを認めざるをえなかった。




「私は……柚希のことが……好き……なんだ……」




 体を丸め、赤切れして痛む手を胸に、早苗は思った。

 この痛みは、私の柚希への思いそのものだ。

 私は柚希になら、きっとどんなことでも出来る。

 そして柚希が幸せになる為なら、どんな痛みも背負うことが出来る。

 そう思うと、この手が自分にとって大いなる勲章のように思えてきた。


 傷跡に唇を重ね、早苗は小さく笑った。

(柚希……)




 早苗が「また明日も来るからね」と言って帰ってから、数時間が経っていた。


 一人ベッドの上で柚希は、いつもの部屋のはずなのに、妙に静かで落ち着かない感覚を持っていた。


 一人でいることが当たり前だった空間。

 しかしその空間で一日、自分は早苗と過ごしていた。

 そう思うと、これまで感じたことのなかった寂しさのような物が芽生えていた。


 何とかトイレに行けるようになっていたが、まだ傷は痛み、腫れた鼻から呼吸することも難しかった。


 今夜は少し蒸し暑く、それが彼の睡魔を余計に遠ざけていた。

 早苗にはあんなに偉そうに言ったが、正直山崎の問題をどうしたらいいのか、柚希の中に答えはなかった。


 あの時のことを思い出すと、恐怖の感情が襲ってきて呼吸が出来なくなった。

 そしてあの時に感じた屈辱感、絶望感を思い出すと、涙があふれてきた。




 ――早苗のことを考えると、胸が熱くなった。




 今日また、早苗との間に大きな絆が生まれた、そんな気がしていた。

 ここに来て四ヶ月、不安で一杯だった自分の側に、いつも早苗はいてくれた。

 いつも笑顔で、明るく自分を励ましてくれていた。

 自分はいつも早苗に心配してもらい、守ってもらっている。

 いつか自分は、その早苗を守れるように強くなりたい、そう思った。


 そして……


 紅音の顔が浮かぶ。


 透き通る白い肌、美しい銀髪、優しい笑顔。

 大丈夫なんだろうか、紅音さんは……それはいつもと同じ、紅音のことを気遣う自分だった。


 しかし今、柚希の頭の中にはそれとは違った別の問いが、いくつも浮かんでは複雑に絡み合っていた。



 考えてみれば、紅音のことで疑問に感じることはいくつもあった。

 紅音が服用しているあの薬、自分もかつて服用していた精神安定剤が意味する物はなんなのか。

 しかもその薬を処方しているのは彼女の父で、晴美も理解しているようだ。


 父の明雄は、紅音が自分の前で泣いた話をした時、食い入るように質問を投げかけてきた。

 娘に感情の起伏は禁物……それが意味することとは何なのか。


 錯乱した紅音を止める為、晴美はためらうことなくスタンガンを使用した。

 犯罪者を撃退する護身用としてあるあんな物を、どんな状況であれその家の給仕が使うだろうか?

 しかも彼女にとってその行動は、想定の範囲内のように見えた。

 気絶させた後での投薬の手際もよかった。


 確かに紅音の豹変振りには驚いた。

 しかしそれをあの様な方法で止めなくてはいけない理由はなんなのか?


 巡り巡る思考の中、最後に柚希が行き着く物、それは晴美が素早くしまい込んだ、あの石化していたミツバチの死骸だった。


 柚希の手に、まだあれを手にした時の感触が残っていた。


 ひんやりと冷たかったあれは、一体何だったのだろうか。


 柚希の中でその考えが何度も、荒唐無稽な方向に進もうとした。


 しかし柚希はそれを否定し続けた。馬鹿馬鹿しい、僕は何を考えてるんだ……




 早く傷を治し、紅音の様子が知りたい……そう思う柚希の瞳には、何かしら言い知れぬ不安な気持が宿っていた。

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