第7話 動き出す世界 その4


 撮影は、柚希が思っていた以上に紅音との距離を近くしていった。

 柚希もファインダー越しだと、自分でも不思議に思える程紅音に話しかけることが出来た。

 気がつくと、二人は自然に会話出来るようになっていた。


 幼くして亡くなった母をほとんど覚えていないことや、愛犬のコウがシュナウザーと言う種類で、紅音が十三歳の時に家に来たこと、自分に色がない分、濃い色が好きで、身につける物も自然と原色系になってしまうことなど、紅音は自分でも不思議に思うぐらい、柚希に自分のことを話し続けていた。


 他人と自然に話が出来ていることに、紅音は興奮していた。


 病気のおかげで学校にも行けなくなり、他人と距離を置く生活をずっと続けてきた。

 近所の住人や父の患者たちとの接触はあるものの、挨拶もままならなかった。

 他人と離れすぎてしまった生き方に悩む事もあったが、挑戦する勇気も出なかった。


 そんな自分が今、昨日会ったばかりの人とこんなに自然に話せている。


 そのことが嬉しくて仕方がなかった。

 紅音は柚希との出会いに感謝し、そして柚希のその不思議な魅力に喜びを感じていた。

 柚希も紅音の話を聞きながら、もっともっと彼女のことを知りたいと言った思いにかられていた。

 そして、そんな風に感じれる人に出会えたことが嬉しかった。



 突然また、紅音の腕時計のアラームが鳴った。

 その音に二人がはっとすると、いつの間にか空は茜色に染まっていた。


「いけない、いつの間にかもうこんな時間に」


「す、すいません僕、時間も考えずに話しこんじゃって」


「私の方こそ、あんまり楽しかったんでつい……」


 そう言ってお互い見つめ合い、笑った。


「楽しかったです、紅音さん」


「私の方こそ。ありがとうございました」


「あ、それから……晴美さんにもお礼、言ってもらっていいですか?サンドイッチ、ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」


「晴美さん、きっと喜びます」


「それから、お父さんにも伝えてもらえますか?近い内に診察に伺いますって」


「分かりました。じゃあその時には是非、家にも寄っていただけますか?」


「い……いいんですか?」


「あ……その……勿論、柚希さんさえよければ、ですけど……」


「わ、分かりました、近い内にきっと、いや是非」


「ふ……」


「ははっ」


「ふふふっ」


 柚希は立ち上がり、紅音に手を差し出した。紅音はその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。


「また明日、ここで待っていてもいいですか?」


「……あ、は、はいっ」


 紅音のその言葉に、柚希は反射的に背筋を伸ばして答えた。


 紅音は嬉しそうに小さく笑うと、そのまま一歩前に出た。




「え……」




 一瞬のことだった。


 柚希を優しく抱きしめると、紅音は柚希の耳元で、


「今日もありがとうございました……おやすみなさい、柚希さん。いい夢を……」


 そう囁いた。


 紅音の甘い香りがすぐそこにあり、鼻腔を刺激する。


 紅音の温かい体に抱きしめられている。

 柔らかく感じられるそれは、初めて感じる女性の胸だった。

 首の後ろにからみつく細い腕は優しくしなやかで、母親に抱かれているような安心感を感じた。


 そして頬に感じる、温かく柔らかな感触……それは紅音の唇だった。



 やがて紅音は柚希から離れ、にっこりと笑った。


 柚希は直立したまま呆然としていた。



 ――今、今僕に何が起こった?僕、生まれて初めて今、女の子に抱きしめられて、そしてキ……キスを……



「あの……柚希さん……?」


 混乱している柚希を、怪訝そうな顔で紅音が覗き込んだ。


「どうか……されましたか?」


「え……いやあの……だって今、あ、紅音さん僕にキ……キスを……」


「はい、おやすみのキスです」


 そう言って紅音は再び笑った。


 そのあまりに無邪気な笑顔が、柚希を更に動揺させた。


「あ……紅音さん……そのキ……キス……」


「はい。私、毎晩こうしてお父様や晴美さんに……え、ひょっとして私、また変なことを」


 柚希の様子に紅音の顔が真っ赤になった。


「ご、ごめんなさい私、みなさんこうしてるものだと勝手に思い込んで、また私、柚希さんに失礼なことを」


 紅音の余りの動揺に、今度は柚希が慌てた。


 そうか……この人はずっと家族としか接していなかったから、家族の中でのルールが全てなんだ。今の抱擁もキスも、紅音さんにとってはごく自然な行為なんだ……そう思うと、目の前で慌てて謝り続けている紅音が、愛おしく思えてきた。


「……大丈夫ですよ、紅音さん」


「でも私……私ったらまた……」


 紅音の瞳が涙で濡れていた。


「こうして私、いつもみんなから避けられていって……私、私……」


「大丈夫……」


 柚希は紅音の頭にそっと手をやり、優しく撫でた。


「紅音さん、そんなに謝らないで……僕、紅音さんにキスされたことを怒ってるんじゃないんです。ただちょっと驚いたって言うか、女の子にこんなことしてもらったのが初めてだったんで……でも、嬉しかったです」


「……」


「だってこれって、紅音さんが僕のこと、お父さんや晴美さんみたいに……家族のように思ってくれたってことでしょ。僕にとってそれって、すごく嬉しいことです」


「柚希さん……」


「だから泣かないで。そんなに泣いちゃったら、綺麗な目が腫れちゃいます」


 そう言って柚希が優しく笑った。その笑顔に紅音は吸い込まれそうになった。


 頭には柚希の手のぬくもりが伝わってくる。


 そのぬくもりに、紅音の気持ちは少しずつ穏やかになっていった。



「……柚希さんは、いつもこうして私を慰めてくれます……まだ昨日出会ったばかりなのに、柚希さんは本当に私を温かく包み込んでくれます……」


「ちょっと大袈裟な気もするけど……ありがとう、紅音さん」


「失礼ついでに……お願いです……もう少しこのまま、頭を撫でてもらってもいいですか……」


「あ、はい、こんなことでよければ」


「こんなことだなんて……私、柚希さんにこうしてもらうの、大好きです……」


「……!」


 再び紅音が柚希の胸にしがみついてきた。


「あ……紅音さん」


「すいません、少しだけこのまま……このままで……今のこの顔、見られたくないので……」


「は……はは……紅音さん……」


「柚希さん、いい匂いがします……」


「……」


「それにあったかくて……優しいです……」




 しばらくして落ち着いた紅音が、ハンカチで涙を拭き顔を整えると、恥ずかしそうに柚希に言った。


「今日は本当に……ありがとうございました。それからその、すいませんでした」


「もう謝るのはやめましょう。僕もちょっと、びっくりしただけですから。それより少し遅くなっちゃいましたけど、家まで送りましょうか」


「いえ……ありがとうございます。ほんと、柚希さん……優しいです……」


 そう言って紅音は、嬉しそうに笑った。


「また明日」


「ええ、また明日……」



 紅音がコウを連れて帰っていく。


 夕陽に照らされたその後姿は美しく、柚希は自然とカメラを向けていた。



「おやすみなさい、紅音さん。いい夢を……」

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