第8話 動き出す世界 その5


「で、柚希はどう?試験の準備はばっちり?」


「うん、何とか……」




 小倉家でいつものように夕食・入浴を済ませた柚希が、この日は早苗の部屋に来ていた。


 いつもなら、早苗が作ったカルピスが居間のテーブルに置いてあるのだが、今日そこにはメモが置いてあった。



「カルピスは預かった。私の部屋でお前が来るのを待っている」



 柚希は早苗の部屋に入るのが苦手だった。

 普段居間で二人きりになることには慣れてきたのだが、同世代の女子の部屋で二人きりになるのは、かなりの抵抗があった。


 それに早苗は、部屋ではいつもTシャツに短パン姿で、目のやり場に困るのだった。

 都会の間取りに比べれば開放感があるのだが、それでも二人きりで密室にいることに変わりはない。

 だから柚希は、余程のことがない限り早苗の部屋には近付こうとしなかった。



「何とかって柚希、ほんとに大丈夫?いくら田舎の高校って言っても、うちはそこそこレベル高いよ。何なら私が勉強、見てあげようか?」


「うん……でも今回は一人で頑張ってみるよ。こっちに来てから初めての試験だし」


「そっか……まあ柚希ってば、ちょっとの間ブランクがあったから心配だけど、一度一人で頑張ってみますか。もし補習や追試になったら、その時にお姉さんがしっかり見てあげましょう」


「うん……ありがとう、早苗ちゃん」


 来週に迫った中間試験。

 柚希にとっては一年ぶりの定期試験だった。

 早苗自身も勉強しなくてはならないのに、自分のことを気遣ってくれる、そんな早苗の気持ちが嬉しかった。


「でも……久しぶりにこの部屋に入ったけど、やっぱりいつ見てもすごいね」


 そう言って柚希が部屋を見回した。


 壁には今、日本でブームとなっているハリソン・フォードの映画「レイダース/失われた聖櫃アーク」と、シルベスター・スタローンの「ランボー」のポスターが飾られている。


 机の上にはつい最近、全米でも大ブームになった「E.T.」の人形が置かれている。


 そして本棚には映画のパンフレットがぎっしりと詰まっていて、空いているスペースにはフランケンシュタインの怪物モンスターやドラキュラ伯爵のフィギュアが並んでいた。


 初めてこの部屋に入った時、柚希は男の部屋かと思った。

 早苗が映画好きで、将来はハリウッドで脚本家になる夢を持っている、その為に猛勉強し、英語の成績もかなりのものであると父からは聞いていた。


 その話から柚希は、はやりのラブストーリー「愛と青春の旅立ち」などが好きな女の子なんだろうかと想像していた。

 しかし早苗の趣味は明らかに女子のそれではなく、同世代の男子が熱くなるような物だった。


 つい映画の話を振ってしまったら最後、早苗のマシンガントークの餌食になってしまう。

 早苗のお気に入りはアクション物で、その中でもベトナム帰還兵の苦悩や悲哀を描いた「ランボー」がバイブルとのことだった。

 柚希は延々と、ジョン・ランボーなる帰還兵の心情を代弁する早苗の講義を聴かされていた。


「でね、実はこの映画、ラストは原作と違うんだよ。知ってた?原作の『一人だけの軍隊』では最後、ランボーはかつての上官であるトラウトマン大佐に撃ち殺されるんだ。でも映画では、トラウトマンが彼を抱きしめて投降につながる。

 原作ではトラウトマンこそが実はこの戦争、そしてアメリカと言う国家の偽善を象徴している存在として描かれてる。逆に映画では、このラストのおかげで、ランボーにとって唯一心を許せる理解者みたいな感じになってる。

 まあ、スタローンを撃ち殺すラストは、彼の人気を考えたら無理だったのかもしれないし、続編のことも考えているのかもしれないんだけどね」


 早苗の勢いはすさまじい物だった。

 話しながら雰囲気を出そうと、カセットテープを取り出してサントラまで流した。


「ほらいいでしょこの歌!この歌作った人は神だよね。アクション映画なのに切なくて、ランボーの一人で戦ってきた哀しい人生を説明抜きで感じさせてくれるの」


 最初の内は圧倒されていた柚希だったが、自分の好きなことを熱く語る早苗の世界に、いつの間にか自分も引き込まれているのを感じていた。

 こうして自分の好きな物があり、夢があり、語る事が出来る。そんな早苗が羨ましく、そして格好良く思えた。



「あー、うちも早くビデオデッキ買って欲しいなー」


 試験の話が終わると、また早苗はいつものように映画の話を始めた。


 やっぱりそう来るか、柚希は苦笑した。


「琴美がこの前買ってもらったんだって。いいよねビデオって。テープに録画したら何回でも同じシーンが見れるんだよ。それにあれがあったら、テレビで映画やってても録画しておいて後で見れちゃう。映画の前にご飯もお風呂も全部済まして準備しなくてもいいんだよ。夢みたいだよね」


「琴美さんって、早川さんの事だよね。早川さんの家はどっちを買ったの?」


「ベータって言ってた。あっちの方が性能いいみたいだし、テープも小さいからね」


「そっか……でもビデオって、二十万ぐらいするんだろ」


「その値打ちはあると思うよ。なんと言っても一度買ってしまえば、何度でも好きな映画が見れる!」


「映画も一本二万円ぐらいするけどね……」


「バイト!バイトするっきゃない!」


「はははっ……でも便利になってきたよね。CDなんて物も売ってるみたいだし」


「そうそう!何あの小さい円盤、柚希知ってるの?」


「新聞で読んだんだけど、簡単に言ったら、傷がつかなくて針を買わなくてもいいレコード……みたいな感じかな」


「あれ持ってる友達はまだいないよね。でもすごいよね、傷のつかないレコードなんて」


「しかもあのサイズ」


「レコードの埃を取るのにどれだけ苦労してきたと思ってるんだ、業界は!」


「だよね、ははっ」





 家に戻り、柚希は早速、今日撮ったフイルムの現像をしていた。

 遮光カーテンを閉め、電気を消して現像液を用意する。

 いつもこの瞬間が柚希にとって、一番集中できる時間だった。


 折角撮ってきて、出来栄えを楽しみにしていたのに現像が失敗してしまい、全てが台無しになった経験を何度かしていた。

 写真屋に持っていけば確実なのだが、フイルムを現像するまでが撮影なんだと、彼の中にこだわりがあった。


 さっき早苗と話していて柚希は思った。

 ここ最近、時間の流れがどんどん速くなっているように感じる。

 早苗が言っていたビデオやCD、そして最近よく目にする「ウオークマン」など、電化製品の進歩はすさまじい。

 それを使う消費者が追いつかないぐらいのスピードだ。


 それ自体はいい事なんだと柚希も思っていた。

 しかし速度が余りにも速く、それを使う者のルール・常識・倫理観などが置いてきぼりになっているような気がしていた。

 まず便利な商品が出て、使うに当たってのルールやマナーは使いながら考えていこう、そんな風潮すら感じる。

 おかげで今までなかったようなトラブルやいさかいもあるようだ。


 そしてビデオのように、今見なくても、後で好きな時に好きなだけ見れると言った便利さも、屁理屈が言えるのなら、その時間を共に楽しむと言う行為が減っていくようにも思えた。

 小倉家で感じた団欒、家族が共に過ごす時間や空間が少しずつ壊れていき、個人が個人だけで楽しむ時代が幕を開ける、そんな風にも思えた。

 いつでも見れる、どこでも簡単に聴ける。音楽や映画が身近になっていくのはいいことなのだが、身近になり過ぎるが故に、その時間を大切にしなくなっていく、そんなことにならないかと言った思いが頭を巡った。


 だから彼は、出来る限り自分の手で、ひとつひとつ完結させていくアナログ的な生き方を大切にしたいと思っていた。

 いずれ、このフイルムの現像という行為もなくなってしまうのかもしれない。

 誰でも簡単に、写真をプリントできる時代が来るのかもしれない。

 でもせめて今だけでもいい、昔から続くこの古めかしい作業を、ぬくもりを感じれる作業を自分自身で続けたい、そう思っていた。


 現像液に指を入れ、温度を体感する。

 熱くても冷たくても現像は失敗する。

 意識を集中させ、満足に仕上がったプリントを見た時のあの感動は、何物にも変えられないものだった。


 しばらくして無事フイルムの現像を済ませた柚希が、一枚のカットをプリントした。

 洗濯ばさみで吊るし、乾くのを待っている時間も無駄に好きだった。

 葉書より一回りほど大きいサイズに仕上げたその写真は、今日最後に撮った一枚だった。


 茜色に染まった空、シルエットになった紅音とコウの後姿。

 その出来栄えに柚希は満足そうに微笑んだ。


「紅音さん、気に入ってくれるかな……」


 紅音の事を考えると、また胸が熱くなった。


 柚希の手が自然と頬に行く。

 今日、初めてキスされたんだ……そう思うと顔が赤くなっていった。


 まだ出会って二日しか経っていないのに、随分と昔から知り合っているような錯覚を覚えてしまう。

 本当、不思議な人だな……柚希はしみじみ思った。


 また明日も会える。

 その時この写真も持っていこう。

 昨日の今日だから、きっと紅音さん驚くぞ……そう思うと自然と口元が緩んだ。


 ここに来て一ヶ月、こんなに満ち足りた気持ちで夜を迎えたことはなかった。

 そのことを紅音に感謝しながら、彼は眠りについていった。

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