第6話 動き出す世界 その3


 放課後。

 ホームルームが終わるとすぐに柚希は教室を後にした。

 小走りに小川に向かう。

 時々後ろを振り返り、山崎たちがついてきていないか確認しながら、柚希は先を急いだ。



 小川に着き、時計を見ると約束の時間までまだ三十分ほどあった。


 柚希は木の側に鞄を置き、一眼レフのカメラを取り出した。

 標準レンズを取り付け、フイルムを入れるとファインダー越しに辺りを見渡す。

 昨日感じた通り、この場所は撮影ポイントとしてかなりいい。


 早速柚希はシャッターを切りだした。

 気分が乗らない時や、被写体に魅力を感じない時には味わえない、いいリズムでシャッターを切っていく。

 柚希にとって至福の時間だった。


 あっと言う間にフイルムを使い切り、二本目のフイルムを入れている時、土手の向こうから犬の鳴く声が聞こえた。


 振り返るとそこに、昨日と同じ、真紅のワンピースに身を包み、黒い日傘を差した紅音とコウの姿があった。




「こんにちは」


 昨日と同じ、風にかき消されそうなか細い声。


 その声を聞くと、柚希の鼓動は高鳴った。


「こ、こんにちは、紅音さん」


 柚希の言葉に、紅音は嬉しそうに笑顔で答えた。


 コウが柚希の元に走り飛びつく。


「あはははっ、コウ、一日ぶり」


 コウとじゃれあう柚希を見て微笑みながら、紅音は土手をゆっくりと下りてきた。


「ここ、いいですか?」


「は、はい……」


 紅音が側に来ると、柚希の胸が熱くなった。


 紅音は肩から提げていたバスケットを下ろすと、赤くなった顔を悟られないようにうつむく柚希の隣に座った。



「怪我の具合、どうですか?」


「あ、はい大丈夫です。昨日はお風呂でも、久しぶりに思いっきり体、洗えました」


「そうですか、柚希さんのお役に立てたのなら……よかったです」


「は、はい、ありがとうございました」


 木の下で二人、取ってつけたような会話がしばらく続けられた。

 柚希は勿論、紅音にとっても他人と約束し、こうして会うことは初めてと言ってよかった。


 二人共何を話していいのか分からず、互いにぎこちなさが取れずにいた。

 そんな中、紅音が口ごもりながら柚希に言った。


「柚希さんあの……お腹、空いてませんか?」


「お腹ですか……放課後なんで、確かにちょっと」


「よければこれ、ご一緒しませんか?」


 そう言って紅音が持ってきたバスケットを開けると、中にサンドイッチが入っていた。


「今日柚希さんと会うことを家で話していたんですが、そうしたら晴美さんが作ってくれたんです……晴美さんは私の家で、お手伝いをして下さっている方で」


 そう言いながら紅音は、ポットから紅茶を注いで柚希に渡した。


「柚希さんが高校生だって言ったら、成長期だからこの時間、きっとお腹空いてますよって」


「おいしそうですね……見てたら急にお腹、空いてきたみたいです」


「よかった。さあ、どうぞ」


「いただきます」


 サンドイッチの味は見た目以上だった。

 紅茶も砂糖が多めに入っていて、疲れた体にしみ込んでいく。

 おいしそうにサンドイッチを頬張る柚希を見ながら、紅音は嬉しそうに笑った。



「今日も気持ちのいい天気ですね」


「そうですね、あったかくなってきたし、こうして外で食べるにはいい季節ですね」


「昨日柚希さんが言ってくれましたけど、私もここの景色が大好きなんです。特にこの季節……厳しい冬を乗り越えて、新しい命が芽吹いてくる今が大好きなんです」


「僕も今の季節、好きですよ。冬の間、止まっていた時間が動き出していくこの時が」


「嬉しいです、私と同じ気持ちを持っている人に出会えて……私よく、この辺りの景色を絵にしてるんです」


「絵に?」


「はい。私の大好きな時間なんです、絵を描くことが」


「そうなんだ……見てみたいな、紅音さんの描いた絵」


「人にお見せ出来るような物じゃないですけど……」


 そう言って紅音は頬を染めた。


「でも……柚希さんさえよければ、一度見てもらえますか?」


「はい、喜んで」


 その言葉に紅音は満足そうに小さく笑った。




「そう言えば柚希さんも昨日、写真を撮られるって言ってましたよね」


「実は今日、持ってきたんです」


 そう言って柚希が、一眼レフのカメラを紅音に見せた。


「すごい……こんな大きなカメラ、私初めて見ました。お父様もカメラを持ってますが、こんな感じの」


 と、紅音が手でカメラの形を伝えようとした。


「ポケットカメラですね。僕も持ってますよ。持ち運びに便利ですし、それに最近のやつは性能もいいんで、特殊な撮影をするんでなければ十分だと思います」


「柚希さんは、特殊な撮影をされるんですか」


「特殊と言うか……例えばこのタンポポを、画面いっぱいになるように撮りたければ、この接写用のレンズに付け替えて撮るんです。そうすればピントもしっかりと来て、面白い写真が取れるんです。逆にほら、今飛んでいるあの鳥を撮りたければ、この長いレンズを使って撮る。そうすれば鳥を大きく、迫力のある写真にすることが出来るんです」


「大きなレンズですね」


「望遠鏡みたいでしょ」


「ほんとに、ふふっ」


「僕は自然を撮るのが好きなんで、どうしてもレンズを色々揃えてしまうんです。だからこんなカメラになってしまって」


「柚希さんはその……人とかは撮らないんですか?」


「……はい、嫌いって訳じゃないんですけど、撮らせてくれる人もいなかったんで……でも、もし撮れる機会があるなら、撮ってみたいとは思ってますけど」


「……柚希さん、その……」


 紅音が少しうつむきながら、小声で言った。


「もし、もしよければ、なんですけど……いつか、私を撮ってくれませんか……」


 その言葉に、柚希の顔が真っ赤になった。


「ご、ごめんなさいごめんなさい。こんなこと、昨日会ったばかりの人にいきなりお願いしてしまって」


「い、いえ、紅音さんがいいんでしたら、是非僕も撮らせて欲しいって……思って……」


「わ、私、昨日も言いましたけど、柚希さんの撮る写真って、きっと優しくて温かいんだって思ってます。私は絵を描いてますけど、絵ってその時の気持ちや思いがそのまま出るんです。それはきっと写真にもあるって思って……柚希さんが撮る写真ならきっと、柚希さんの優しさが写真になるんだろうって……そんな柚希さんに撮られたら嬉しいだろうなって、昨日帰ってから考えてて……」


「いいですよ、紅音さん」


 柚希がにっこりと笑い、カメラを手にした。


「そんなにうまくないですけど、紅音さんさえよければ」


 その言葉に、紅音の頬がまた赤く染まった。




「どうします?コウと一緒に撮りますか?」


「は……はい、お願いします」


 柚希は紅音を、小川が背になる場所に誘導した。

 ファインダーを覗き込み、画を決める。

 少し緊張気味に姿勢を整える紅音に向かって、柚希は声をかけた。


「紅音さん、少し顔、怖いですよ」


「え?ふふっ……」


 不意打ちの様な言葉に、つい笑ってしまった紅音のその表情を見逃さず、柚希はシャッターを切った。


「あ、ずるいです柚希さん、今のはなしです」


「ははっ、でも自然な感じでよかったですよ。じゃあもう一枚撮りますよ。紅音さん、1+1は?」


「2?」


 言葉に合わせてシャッターを切る。


 その柚希の問いかけが面白かったのか、紅音がくすくすと笑う。

 その笑顔をファインダー越しに眺めながら、柚希は何度も何度もシャッターを切った。

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