第4話 揺れる想い-4

 一週間ほど前のことだった。トレーニングが終わった後、少し足首に違和感を感じたので、ストレッチを繰り返しながら念入りにチェックしていると、もう誰もグラウンドにはいなくなっていた。

 薄紅く染まった雲が、もう帰る時間だよと、囁いている。空を見上げていると、夕闇に巻き込まれてしまいそうで、恐くすら思えてくる。早く帰ろ、と思って部室に戻ると、話し声が聞こえた。まだ誰か残っているんだと安心して扉を開けようとすると、少し空いた小窓からあたしの名前が漏れてきた。掴もうとしたノブから手を引いて、そっと、小窓に耳を寄せてみた。声の主は、川井先輩だった。

「桜井さんじゃあ、無理よ」

またあたしの名前が出る。

「どうして?」

応えるのは、中嶋先輩。

「だって、タイムだって、まだまだ標準以下よ」

「でも、着実に伸びてる」

「中嶋君だって、長距離やってるんだから、わかってるでしょ。短距離と違ってね、中長距離レースはね、単に自己ベストを更新しただけじゃ勝てないのよ。駆け引きが必要だってこと。あの子は、そんな性格じゃないわ」

「まぁ、それはそうだけど。でも、走ることを楽しんでるし、才能はあるよ」

「言っとくけどね、ダメだって言ってるわけじゃないのよ。まだ、無理だって、言ってるの」

「ダメじゃないっていうのは、僕と同意見だね。無理かどうかは、やってみないとわかんないし、今回は大目に見てよ」

「でもね、このままじゃあ、弘美ちゃんがかわいそうじゃない」

「小早川さんが?どうして?」

「だって、桜井さんが選手で、弘美ちゃんが控えなんて」

「でも、まだ、足の具合が悪いんだろ。仕方ないじゃない」

「ほとんど、完調だって、言ってるわ」

「でも、僕が見てると、まだ足をかばってる感じがするよ。タイムも、桜井さんとトントンくらいだし」

「だから、駆け引きの問題なのよ。レース運びの勘は、弘美ちゃんの方が上よ」

「そうかもしれないけど、無理して、また足を悪くしてもダメだし、今回は小さい試合だから、桜井さんでいいじゃない」

「あの子…正直言って、頼りないのよね。どっちかって言うと、選手はあきらめてもらって、マネージャーになってもらった方がいいと思うわ」

「そんなこと言うもんじゃないよ。彼女は、努力してるし、成果も出てる。きっと、将来は、いい選手になるよ」

「でも、来週じゃないわ」

「まぁ、もうみんなで決めたことだし、このまま行こう」

「弘美ちゃんがかわいそう。三年なのに」

「まだ、もう一つ大会があるじゃない。大きな大会が。その時にはベストコンディションで参加してもらおうよ」

「随分、かばうのね、桜井さんのこと」

「そんなことはないよ。ただ、年功序列なんて改めて、下級生にもチャンスをあげたいんだ」

「桜井さんだから?」

「どういう意味だよ?」

「いいわ。さよなら」

急に扉が開いて、川井先輩は立ち去った。扉の陰になったあたしに気づかず。

 あたしは、部室に入ることもできず、そのままグラウンドに引き返した。せめて、中嶋先輩が帰ってしまうまで、と思って。


 あの時の、中嶋先輩はどんな気持ちだったんだろう。

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