仰望

 早朝の蒲原スノーパークの駐車場には、早い時間から車が溢れている。少し雪雲がかかった鈍い光の下、にぎやかに準備をするひとびとの笑い声が響いている。

 和人は少し硬い表情で車を降りた。今日は顔の広い史也のスノーボード仲間たち総勢十数名で滑ることになっており、仲間内でのシーズンインイベントとも言うべき様子だ。史也と靖之以外は全くの初対面であり、初心者の和人が足手まといにならないだろうかと楽しみと不安が綯い交ぜになった複雑な緊張感がある。

 誘われた時には、「なんとかターンが出来るようになって間もないから止めとくよ。」としり込みしていたのだが、靖之が「保護者代わりに連れてってあげるよ。」と言ってくれたので、若干の好奇心とも相まって出かけることにした。いい年をして“保護者”付きもおかしいが、なんだかんだと言っても靖之が付いて来てくれるのは心強く、いざとなれば靖之と一緒に緩斜面を滑っていればいいだろうという思いもあって出かけることにした。

 昨シーズンの終盤にスノーボードを初めて履き、ノニエル水上スキー場が閉場したあとも標高の高いカグヤスキー場でゴールデンウィークまで滑り、なんとか連続ターンが出来るようになったが、やはり技術的には皆の足手まといにならないだろうかという思いは強かった。史也にそのことを伝えたが、

「みんないいやつらだから大丈夫だよ。おまえぐらいの腕前の子もいるから安心しろ。」

 と言われて少しだけ気が楽になった。


「ヨージ、これおれの飲み友の和人と靖之。」

 史也がヨージと呼ばれた引き締まった体躯の男に言うと、

「陽司です。和人さんは結構滑ってるんですか?」

「ぜんぜん。先シーズンの終わりにはじめたばっかりだからね。それでこっちの保護者付。」

 笑いながら靖之を見ながら言うと、

「ぼくもひどいもんですよ。フミさんみたいにきれいに滑れるといいんですけど。」

 おそらく過分の謙遜が入っているだろうが、気遣いの感じられる言葉にヨージの人柄がにじみ出ているようだ。どうやら、この仲間内では史也は「フミさん」と呼ばれているらしい。和人の知らない史也が垣間見えたように感じた。


 それぞれブーツを履きながら、ストレッチをしながらも何人も紹介されてなかなか名前と顔が一致しない。記憶力に特に不安は無いが、何故か人の名前だけは覚えられず、今までも何度も恥ずかしい思いをしている。

 大手製菓会社勤務の少し小柄な棚木、話好きのあや、マイペースなサキ、すらっと背が高いトモ、なにかと気が付く沙世……。ヨージはどうやら看護師らしい。確かにみんな気さくで気持ちが良い。和人は史也、靖之と並んで最年長だがスノーボード歴は一番短いようだ。「まあ、良い仲間と楽しく過ごせればいいか。」と少し和人は安心し、かなり気持ちが楽になった。


 蒲原スキー場のメインリフトは四人乗りで、保護者代わりの靖之が必ず一緒に乗ってくれたが、世話好きのあやもよく一緒に乗ってくれる。

「おれたち三人は兄弟みたいな付き合いだから、和人がボードはじめたのは都合がいいよ。」

 靖之はあやとトモにそう話している。確かに和人と史也と靖之は兄弟同前の付き合いで、中学時代からなにかと仲が良い。

「じゃあ、冬も一緒にいられていいね。」

「そうなんだよ、一番飲める友だちだから一石二鳥だよ。」

 なあ。といった表情で靖之がこちらを見た。

 ここのスキー場は和人たちがハイシーズンに通っているノニエル水上スキー場と違って、斜度はないがバーンが広い。メインリフトからはそんなメインバーンが一望でき、大人数での滑走イベントにはちょうど良いと行きの車の中で靖之が言っていたのを思い出した。靖之が言うには、大きすぎる山のスキー場だと好き勝手リフトに乗って行ってしまうと、ぜんぜん違うところに出てしまうらしい。先シーズンの終わりに行ったカグヤスキー場も三つの大きな滑走エリアがつながっていて、間違って違う麓に降りてしまうとリフトに乗って戻って一時間半、バスで三十分と大変なことになる。とも言っていた。

「おにいちゃん、富士山見えるよ。」

 あやが教えてくれ、右に振り返る。

「どれ? 見えないなあ。」

 と窮屈な体制のまま良く晴れた山々を凝視する。あやが何か言っている。風切音で少し聞き取りづらいが、指でそこを指し示してくれた。うっすらと、だがそれとわかる形で富士山が見えた。

「!」

 声にならぬ声が出た。あやも満足げな表情で少し得意げに、

「天気がいいと蒲原からも富士山が見えるんだよ。おにいちゃん、はじめてここに来て富士山見られるなんて運がいいね。」

 と喜んでくれた。いつのまにか和人の呼び名が“おにいちゃん”となっていたが、先ほど自己紹介をそれぞれしていた時に、「なんとなくおにいちゃんっぽいから、“おにいちゃん”」とあやから名づけられたのだった。

 だが、先ほどは和人の買ったばかりのウエアの着こなしを直してくれたりと、どちらかと言うとあやの方が姉のようだ。見ると滑りもかなり上手く、これぞガールズスノーボーダーといった雰囲気で、リフト上から視線がかなりの数注がれている。こぎみよく刻まれたシュプールにもその性格が表れているようだった。


「カズさん、結構飛ばしますねえ。」

 ヨージが言うように、和人はスノーボードに関してはスピードの恐怖心が少ない。もともとある意味相当に臆病な面も持っており、ジェットコースターの類には決して乗らないのだが、ことスノーボードとなると別のようだ。車の運転でもそうだが、自らの制御下におけるというのがその大きな理由であると自己分析している。逆に言えば板が暴走するようなことになってしまうのは考えただけでも恐ろしい。

 そう言うヨージもかなりのスピードでターンをコントロールしている。あとで棚木に聞いたのだが、バイクの技術レベルがかなり高いようで、その点が共通しているのだろう。

 レベルの差こそあれ、皆気持ちよさそうにゲレンデを楽しんでいる。まだまだ足元に気を取られなかなか颯爽とといったわけにはいかないが、和人もこの雪山と昨日までは見知らぬ人々であった仲間との会話など、自然と笑顔になっているようだ。来るまでの気持ちはまるで杞憂であり、

「案ずるより産むが易し、だな。」

 と独り言が口をついた。

「やすさんならトイレ行ったよぉ。」

 持ち前ののんびりとした口調でサキが教えてくれた。どうやら、産むが“やすし”を靖之の名前と聞き違えたようだが、そのやさしさがうれしい。

「保護者もトイレぐらい行かせてやらないとな。」

 史也はレストハウスの方を見ながら笑っていたが、少し混雑して列を成してきたリフト乗り場の方に目を向け、

「そろそろビール休憩にするか!」

 と続ける。

「早めのランチもいいよね。」

「おなかすいたー。」

「滑るとおなか空くよね。朝も早かったし。」

 口々に言うので思わず面白くなって笑ってしまった。

「今日はヨージの運転だから飲むぞ!」

 棚木はうれしそうに言うと、レストハウスの方へ跳ねるように走って行った。

 この男は小柄ながら滑らかな滑りで、和人の素人目にも板の扱いが上手いのがよくわかる。ジャンプしたりトリックしたりととても器用で、ターンのつなぎもやわらかい。勤め先の製菓会社のマスコット「こりこりちゃん」の大きなステッカーをボードに貼っていて、そんな面でもゲレンデで目立つ存在だ。


 レストランで生ビールを片手に棚木の話を聞いていると、どうやら商品開発の重要な立場にあって特にお菓子の味わいを最終決定する仕事に従事しているようだ。

「この間出した新しいフレーバー、社内の評判の割には売れて助かったよ。」

 棚木は少し顔を赤らめて楽しそうに話している。レストランはまだ時刻も早いこともあって、休日とは言え五割ほどの着席率だ。木づくりの三角屋根の高い天井に各々のテーブルの笑い声や話し声がゆるやかに響いていて、なんとも良い雰囲気の建物だ。

「棚木さん、もう酔っちゃったの。寝ないでよー。」

 ヨージが茶化すと、

「まだまだ飲めるぞ。」

 とジョッキを高く掲げている。この二人は年は離れているがなかなかいいコンビらしい。

「ヨージの方が年上みたいな時もあるよね。」

 あやもビール片手に棚木を小突いたり、どうやら棚木はいい意味で弄られキャラらしく愛嬌がある。


 食事も済ませ、皆と楽しい時間を共有できた。曇り予報だった空も明るく、少し柔らかさを増した雪以外はなかなか気持ちのいいゲレンデだ。「楽しいが、疲れもあるし雪も重くなってきたから気を付けないとな。」と数本滑ってコースの端で安全を確認して座っていたところ、

「だれかぶつかったらしい。」

 と沙世がすこし青い顔をして降りて来た。詳細はわからないが、一つ上の斜面にはヨージが滑っていたはずだ。いつの間にか話が“ヨージがぶつかったらしい”ということになり、皆がざわめく。トモが登って戻ろうと板を脱ぎかけるのを「危険だから待っていよう。」と和人が制する。皆仲間思いで状況のわからないところがもどかしい。ずいぶん長い時間が経ったようにも感じたが、実際のところ数分もしないうちに史也が降りてきた。

「ヨージが事故ったって? そうは見えなかったがたしかにヨージが居た。」

 今日の仲間で唯一スキーヤーの靖之がゲレンデの端をハイクアップして様子を見に行く。何事も無ければ、ヨージの腕前であれば既にこちらに滑り降りて来ているはずだ。


 靖之がシャーっと雪音を立てて史也の横に滑り降りて来て言った。

「ヨージじゃないが、一人青いウエアのスキーヤーが転倒して意識がもうろうとしてて、そこをヨージが介抱してる。パトロール呼んで欲しいらしい。」

 と聞くや否や史也がものすごい勢いで滑り降りて行く。特段あわてているといった風では無いが、他の滑走者に脅威を与えるでもなく駆け下りていく様子を見て、「インストラクターの本気の滑りとはこういうものか。」と和人はしばし呆気にとられた。

「よし、ここに居ても人が溜まって危ないから降りよう。」

 さすが滑走経験豊富な靖之だ。あやを残して皆で降りて行くと途中サイレンを鳴らし回転灯を点けて登って来るスノーモービルとすれ違った。パトロールの素早さにも関心したが、残り1kmほどをこの時間で滑り降りたのかと、改めて史也の滑りに感心した。ヨージもさすが看護師だ。事故のあった滑走者の介抱をするなどなかなか出来るものではない。和人はヨージが滑り降りてくるであろうバーンを振り返りながら、もし自分が雪上でそのような場面に出会った時、皆と同じような冷静な対処が出来るかどうかわからないと思った。とても楽しいスポーツであるが、ある一定以上の危険性を孕んでいるということも考えさせられた。


「いやあ、驚いたよ。転んだと思った人がそのまま滑落してっちゃうから、あわてて助けたんだよね。」

 ヨージの“驚いた”との言葉とは違って、心配させたことを謝る仕草が楽しく、皆思わず少し笑ってしまった。ヨージの話によると、そのスキーヤーは既に意識が戻っていて元気そうに見えたそうだ。

「さすが看護師さん、やるねえ。」

 あやがそういって小突くと、皆で笑いながらかわるがわるヨージを小突きまわし、その安全を喜んだ。

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