洞見 -4

 翌日も藤沢は息を切らせてハイクアップをしては滑り降りる、といった練習をゲレンデ下部の隅で繰り返していた。

 下から見るとゲレンデ下部はさほど斜度があるようには見えないが、慣れない雪面にスノーボードブーツでその坂を実際登っていると、曲がりなりにも上り坂であることを思い知らされる。

 今日は板の先を落下方向に向けて滑り降りる方法に取り組んでいたが、今まで斜面に対して板を横にしていたのとは格段に勝手が違う。昨日までのサイドスリップではエッジが常に雪を削ってブレーキをかけているのでゆっくりと降りることが出来たが、スピード感がすっかり異なって慎重派の藤沢としては恐怖を覚える。

「これは怖いな。」

 春の暑さ故か冷や汗か、ウエアの下もすっかり濡れている。

「ん? 何か言ったか?」

 史也には先ほどの藤沢の言葉が聞こえなかったらしい。自分でも低く呻くように勝手に喉から出て来たような言葉に驚いているが、正直なところだ。

「スピードが出て怖いな。」

「大丈夫。斜度がほとんど無いから、その先まで行けば勝手に止まるよ。あと、下見ると余計にスピード感じるぞ。」

 なるほど、当人にとってみたら当たり前かも知れないが、的確なことを言ってくれる。確かに昨日、目線が大事と教わったはずだ。

 恐怖心があったり、夢中になっていたりすると、人間いとも簡単に大事なことを忘れている。史也や靖之にも藤沢のように基本中の基本を忘れてしまうといった時代があったのかと思うと嘘のようだ。

 少し余裕が出てきて周りを見渡すと、四、五人程の学生らしきグループが転びながらも器用に降りて来ている。


「おい、そろそろリフト乗ってみるか?」

「いや、さすがにまだ無理だろう。」

「サイドスリップが出来てきてるから、セントラルコースなら降りられるけどな。」

 史也はそう言ったが、藤沢の性格をよくわかっていてそれ以上は言わない。

「乗ればいいのに、大丈夫だよ。」

 と靖之は軽く言う。靖之はまずはリフトで頂上まで行って、転びながら滑って覚えるといったやり方でスキーを覚えたらしいから、そんな言葉が出てくるようだ。もちろんそれで上達する者もいるのだから否定はしないが、無理やりリフトで上まで連れて行かれて、寒く怖い思いをしたと言う話を多々聞いているので何とも言えない。特に藤沢のような人間には向いていないだろう。

 ただ、昨日に続いて二人が言うのだから、乗って乗れないことはないに違いない。藤沢には少し自信にもなり、もう少し練習したらリフトに乗ってみようか? と言った前向きな気持ちも芽生えさせられてきた。


 疲れもあって、センターハウスのベンチに座って休んでいたが、藤沢にしては珍しく一人で再チャレンジをしにゲレンデに出た。

 今は史也や靖之も滑りに出ていてここにはいない。大の大人が言うセリフでも無いが、面倒を見てくれる者が居ない状況では安全に万全を期さなければならない。先ほど練習していたゲレンデよりも斜度が少なく、何かあった時に声を掛けられるよう、リフト係りの目の届きそうな場所を選んで練習を始めた。

 何度もハイクを繰り返し汗を拭う。ブレーキのかけ方も休憩前よりは上達してきたように思う。若干の充足感にふと目を上げると、リフト係りの青年が穏やかな表情でこちらを伺ってくれている。

 藤沢はこんなところで練習している初心者は冷ややかな視線で見られているだろうと考えていたがそんなことは無かった。むしろ好意的と言って良いその眼差しは、「頑張れ。」と言われているようで藤沢はうれしかった。係りの青年もスキー、スノーボードが好きなのだろうか? ゲレンデで仕事をするくらいだから相当なものなのだろう。

 藤沢はまだまだはじめたばかりだが、何かゲレンデという同じ舞台に立つ者として認められた気がして、いつか上手くなったら初心者、初級者の気持ちのわかるスノーボーダーになりたい、と強く思った。


「どうしたんだ?」

「和人じゃないみたいだな。」

 史也と靖之がテクニカルコースを颯爽と降りて来て口々に笑いながら言う。「寒くて面倒くさくて痛いから」と常々ゲレンデを敬遠していた藤沢を知っているだけに、まさか一人で自主練をしているとは思わなかったらしい。

「どうだ、少しはうまくなったか?」

「ちょっと見てもらって大丈夫そうだったらリフトに乗ってみようかな?」

「だから、もう乗れるって言ってるだろ。」

「このまま乗ろうよ。大丈夫だって。」

 と口々に言うのを制して、少し二人に見てもらった。


「十分だ、休憩前とは別人だよ。」

 などと口々に言うので、気を良くして藤沢もリフト乗り場に向かう。

「ここまで来て下さーい。」

 リフト乗り場の轟音に負けぬいい声で、先ほどの係りの青年が朗らかに誘導してくれる。

「板が浮くまでまっすぐにしておけよ。」

 史也の言うことを生真面目に守って、しばらく板をまっすぐ前に向けていたら緊張も相まって脚が疲れる。

「もう斜めにしてもいいか?」

 なんとも藤沢が情けない顔をしていたらしく、また二人に笑われてしまったが、リフトに無事乗れた安堵感からか藤沢も一緒に笑っていた。

 そういえば藤沢は全く気が付いていなかったが、リフト券は靖之が出してくれていたらしい。さりげなく持っていた一回券をリフトの改札の係りに渡していたようだ。

「悪いな、あとで払うから。」

「いいよ、ボードでリフトデビューだろ? おごってやるよ。」

 靖之は先月友人を連れて来たときに余った一回券だから気にするなとも言ってくれた。

 ひさびさに乗ったリフトは清々しい。先ほどまでハイクアップして汗をかいていたところに、リフトの切る風が心地よい。鳥の囀る声に春を感じていると、先日スキーを履いてリフトに乗った時よりも格段にゲレンデの雪が減っているのが見て取れる。場所によっては少し土が見えているようだ。そんな視線を察したのか、

「こっちは土見えてきてるけど、セントラルコースはまだそこまで融けてないから安心して滑れるぞ。」

 と史也が教えてくれた。土の上に行くと急ブレーキがかかって危なく、板のソールなどが汚れてさらに滑らなくなると言う。この白く見える雪もこの時期は黄砂やほこり、リフトなどの油などでかなり汚れているらしい。それだけでもかなり板が滑りにくくなるそうだが、史也の言葉では「土なんか付いたら全然滑らなくなる。」そうだ。


 安全バーを上げることを促す看板が見えてくる。それと同時にうまく降りられるかどうかといった緊張感が藤沢の表情を硬くさせる。

「板まっすぐにして行きたい方向の遠くみてろよ。」

 史也が教えてくれるが、緊張感は増すばかりだ。スキーで何度も経験しているはずだが、そのスキーでも常に緊張しているのだから、初めてスノーボードでリフトを降りるのは緊張感を通り越してすこし怖い。

「バーあげるよー。」

 それを察してか靖之がのんびりした口調で安全バーを上げてくれる。

「こちらまでおねがいしまーす。」

 リフト係りの女性が手を上げて誘導してくれる。上手く立てた。と思った瞬間何かが足もとで引っかかった。かなりバランスを崩したが、なんとか靖之にすがるようにドタバタとリフト降り場を抜けられた。

「うしろの邪魔にならないようにこっちこいよ。」

 と史也が誘導してくれているがなかなか思うように動かない。どうやらビンディングから外している方の右足を板の上にしっかり乗せるべきところ、つま先側がはみ出てひっかかっていたようだ。冷や汗をかきながら、

「すまんすまん。」

 と靖之に言うと。

「ちゃんと降りられたじゃん。」

 と笑っている。史也も笑いながら、

「ノニエルのリフト降り場はかなり降りやすくなってるから、そんなにあわてなくていいぞ。ちょっとあわてて右足置く場所がずれたな。」

 なるほど、藤沢にとってはものすごく短い時間に感じたが、その短い時間の中でも良く見ている。しかも、リフト降り場に降りやすい降りにくいがあるのかとまた感心させられた。これでは先が思いやられるなと頭を掻いたが、

「今日もいい天気だ。写真撮ろうよ。」

 との声に遠くを見やるとだいぶ白さは失われてはいるものの、遠くの山々が遥かに見渡せる。一連の緊張感とドタバタで既に大汗をかいていたが、さわやかな風に涼しさを覚えた。


 板を履き、セントラルコースへトラバースする。スキーの時も感じていたが、ここはかなり斜面が右に傾いていてまっすぐ行こうとしてもすぐ右側に落ちていってしまう。

「出来るだけ左に向かって!」

 史也の声で行きたい方向を指さして目線を送るがなかなか上手くいかない。靖之がストックを差し出してスケーティングして引っ張ってくれる。少し申し訳ないような気持ちにもなるが、この場面ではこれほどありがたいこともない。引っ張ってもらうにしても覚束ない足元には常に力が入っていて、ほんの数十メートルの距離でもかなりの疲労感を覚えた。

 動線から外れた隅で座って一息つくが、もう既に腿がパンパンに張っていてしばらくは立つ気力も無い。

「ま、ゆっくり行こうや。」

 史也はそう言うと少し離れたところでジャンプしてこちらを向いた。

「今何やったんだ?」

「ちょっと飛んで板返しただけだぞ。」

「そんなことが出来るのか?」

「滑りながらやればグラトリ……グラウンドトリックになるけど、グラトリの中じゃ基本中の基本かな? 板のしなりと身体の回転使えばそう難しくないけどな。」

 確かにゲレンデを見ていると、飛んだり回ったりしているスノーボーダーも居る。そのやり取りを見て靖之もスキー板を上手く操ってぐるぐるまわりはじめた。そうやって少し滑り降りたところから、

「慣れれば、ボードでもこんなの出来るよ。」

 とストックを振って教えてくれた。

 だが、まだ滑りも儘ならない藤沢には、まずは基本だ。休憩を入れて少しやる気も出て来たので、早速練習したことをやってみる。すると下で練習していた時よりもスムーズに立ち上がることが出来、スピードが出てしまうことを抜きにすれば、サイドスリップもやりやすく感じた。早速練習の成果が出たのかと嬉しくなって、

「なんか上手くなった気がする。」

 と言うと、

「うん、上手くなってるよ。」

 と靖之が喜んでくれる。

「そりゃ、斜度がある方が立つのもサイドスリップも楽だからな。」

 史也の言葉に、思い込みだったか、と少しがっかりした。史也が雪面に絵を描いて説明してくれたが、確かに理屈だ。史也は数学や物理はからっきしだが、この説明はさすがにわかりやすかった。


 途中まで滑って来られたが、足元からの疲労感がかなりあって、また端に座って休憩する。一本のエッジなのでなかなか止まっているときは立っていられない。何度も立ち上がるうちに左の腕もだるくなってきていた。スキーでは初心者でも転ぶことは少ないので、雪上の移動手段として始まったスキーはやはり機動力があると感じていた。

 ただ、疲労の中にも充実感がある。春先の気温の高さに暑い思いをしているが、時折聞こえる滑走音、心地よい風、見上げれば強い日差しの中に身を置いている満足感もある。

「あったかくなっちゃったなあ。」

 鳥の囀りを聞いて、靖之が言う。世間では春の訪れは待ち遠しいものだが、ウィンタースポーツをする者には、雪がだんだんと無くなって来る物寂しい季節なのかも知れない。

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