洞見 -3
「そうそう、もっと前に乗って遠く見ろ。」
史也が声をかけてくれて視線が落ちているのがわかる。だが、わかってはいてもなかなか遠くを見るのは難しく、板がどんどん先に落ちて行ってしまって後傾になってしまって、結局は転んでしまう。
今日が二回目の藤沢にとっては、ほんの緩い斜面でも斜面に向かって前に体重をかけるのは怖い。ただ後傾になると雪面抵抗が減るのでスピードが出てしまうといった理屈もわかるだけに、身体がその理屈についていかないのがとてももどかしく感じる。
「藤沢さん、ボードも楽しそうですね。」
と久々に会った志村が笑って言う。
「おまえもやれよ。」
と冗談めかして言ってみたが、志村はスキーを脱ぐつもりはさらさらないようで、
「あとで気が向いたらやってみますよ。」
と適当なことを言って颯爽とリフトに並びに行ってしまった。今日は他にも名高という男も来ている。
名高という男は藤沢が塾の校長をやっていた当時、大学受験を担当する理系の講師として採用したのだが、そのころからただならぬ雰囲気を醸し出していて、生徒からの人望も篤かった。かなりの論理的思考の持ち主だが堅物ではなく、話をしていても深みがあって非常に面白い。そんなこんなでプライベートでも遊んでいたのだが、いつの間にか史也と靖之とも仲良くなり、藤沢を差し置いてスノーボードに出掛ける仲になっていた。ただ、講師時代の癖が抜けなく、未だにお互いを“先生”と呼んでいるのが不思議だが近頃少し慣れてきて名前で呼び合ったりすることも増えている。
「藤沢先生どうですか?」
志村のあとをついて滑ってきた名高が言う。名高はスノーボードを始めて一年と少しだと聞いているが、藤沢の目にはかなり上手に滑っているように見える。
「名高先生、なんか手っ取り早いコツ教えてよ。」
「うーん、無いですねえ。あったら僕が教えて欲しいですよ。」
「そりゃそうか。」
二人でふざけていると、その様子を後ろから見ていた靖之が、
「大丈夫かい? 疲れたら少し休んでからの方がいいよ。」
と言ってくれる。確かに板を持って斜面を登って滑って転んでを繰り返していると流石に疲れる。こうやって板を持って登ることをハイクアップというそうだが、スノーボードにはスキーと違ってブレーキが無いので、登ったり板を付けたりしている時に板を流さないようにと神経を使う。
史人曰く、“出来ることをしないのが一番悪い”とのことだ。板を流せば他人に大けがをさせる可能性もあるのに、板を流さない配慮をする余裕がないのにハイクアップをするのは間違いだと言う。始めたばかりの頃は、とかく滑ってみたくて板の安全な履き方も練習しないまま登ってしまうことも多いらしい。もちろん初心者だけではなく、いくらか滑れるような者でも、他の滑走者を十分なマージンを持って避ける技術があるのに、脅威を与えるような近くを滑ったり、何かあった時にぶつかりそうな傍を滑るのも言語道断だと言っている。
確かに、こうやって楽しめているのはゲレンデの順守事項とマナーありきだというのを藤沢は思い知った。藤沢は他人以上に慎重派で神経質なので少しでも近くに心無い滑走者が近づくと恐怖を覚える。特にスノーボードはスキーと違って横向きのスポーツなので死角が多く、下手なりに周りに注意を配っている。史也や靖之は技術だけでなく、そういった安全確認の方法なども教えてくれるのがありがたい。おそらく二人ともゲレンデ歴が長いだけあっていろいろ嫌な思いもしたのだろう。
さて、今日も数時間ほど皆に付き合ってもらって練習したが、やはり慣れないことは疲れる。今回はハイクアップしているのでかなり足にきた。交代で藤沢の面倒を皆で見てくれたが、いつまでも手間をかけるのも悪いので今日はこれで上がることにした。
斜面にボールを置いて自然に落ちて行くラインをフォールラインと言うらしいが、そのフォールラインに対して板を横にして、エッジの角付の強弱を利用して降りるサイドスリップといった技術は、史也のおかげでいくらか出来るようになってきたようだ。本人は板の上でバランスを取るのに必死で何がどうなっているのかわからなかったが、
「もうリフト乗れるよ。」
と史也が言うのだからそうなのだろう。だが、やはり藤沢は石橋を叩いて渡るタイプなので、まがりなりにもターンが出来ないとリフトには乗らない。と決めている。
最後の一本と決めて春雪のぐだぐだのバーンの中で、安定して立てそうな雪が盛り上がっている場所で立ち上がった。足場がしっかりしているだけあって、いつもよりも格段に楽に立つことが出来たが、今度は盛り上がった雪が板の下で平らになって、エッジの角付を緩めようにも緩められない。理屈では板の下の雪を掻けば角付が弱められるだろうと、既にすっかり濡れているグローブを付けた右手で掻いてみた。すると、下で見ていた史也と靖之に大笑いされてしまった。
「なんだあ?」
と下に届くように声を張って聞いてみると、どうやら手で板の下の雪を掻く様が可笑しかったようだ。そんな者はなかなか居ないと言う。確かに板を操って雪面のコントロールを行うスポーツなのに手で雪を掻くのは変わっているかも知れない。少し恥ずかしい思いをしながら降りて行くと、
「お前変わってるな。」
「まさか、雪掻くとは思わなかった。」
と口々に言われてしまい、丁度降りて来た名高と志村にもさもおかしそうに伝えている。
「物理的には間違ってないだろう。」
と恥ずかしさを隠すために言ってはみたものの、藤沢もなんだかおかしく語尾はすっかり笑っていた。
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