洞見 -2

 三月に入るといよいよ雪も緩んでくるようだ。ノニエル水上のナイター営業も終わり、コテージの管理人の岳野さんも地元に帰っていってしまった。

 史也と靖之は諸星オーナーから信頼されていて、ありがたいことにコテージの鍵を借りて宿泊することは出来たが、やはりなんとなく寂しい感は否めない。時折、土曜の夜などに諸星オーナーがやってきてくれて一緒に酒を飲める日があることが数少ない楽しみになっている。

 この日も藤沢はゲレンデのレストランで二人の滑りや、いろいろな滑走者の滑りを見たり、ビールを飲んだりなどしながら時間を潰してみたが、当初の物珍しい感覚も薄れてしまいどうにもなかなか時間が進まない。逆説的に岳野さんとレンタルの店番をしながらくだらない話をしていたのが、いかに楽しい時間であったかが思い出される。フランクフルトやポテトを食べるのも楽しいのだが、のべつ幕なしに食べるわけにもいかず、携帯電話を弄ろうにも電波が入って来ない。

 二人も気を使ってくれて、レストラン正面のテクニカルコースを滑ってくると、レストラン前までわざわざ来てガラス越しに手を振ったりしてくれたが、それも手を掛けさせてしまっているようで、申し訳無いような気恥しいような気分になってしまう。藤沢はこの状況をなんとかしたいと思い、いろいろと頭を巡らせるが、今シーズンまで滅多に来たことも無い場所に他に時間を潰せるようなところもなかなか思いつかず、結局考えることを辞めてしまった。



 コテージで昼食を済ませて、靖之の運転で水上町内のスーパーに晩酌用のつまみの買い出しに来た。ここは町内でも最大と言っていいほどのスーパーで地元の人々からスキー場スタッフ、スキーやスノーボード客、温泉街の宿泊客に至るまで、いろいろな人が買い物に来ていて活気がある。山間のスーパーとあなどれず、鮮魚も肉もなかなか良いものがそろっている。毎週のようにやってくるので、靖之などはポイントカードの会員になって時折その恩恵にもあずかっている。

 藤沢は買いもしない寿司コーナーを物色し、パック寿司に似つかわしくないほどのツヤのあるネタを見ながら「うまそうだな」などとつぶやいていた。すると七、八名ほどのウエアを着た団体がにぎやかに話ながら店内に入って来るのが見えた。いわゆる今どきのカラーリングのウエアに身を包んだ男女は、今日はどこかロッジに泊まって鍋でも囲むのだろうか。楽しそうに笑顔を浮かべ、あれやこれやと、それぞれ手に取った食材を買い物かごに詰め込んでいるのが微笑ましい。土地柄ここではそういったゲレンデ帰りの集団客は珍しいといったこともなかったが、今日の藤沢の目にはいつも以上に明るい空気に包まれているように感じられた。

 昼間の時間を一人で過ごしたことによって、心のどこかに我知らず寂しさを感じていたのかも知れない。どこか羨ましくも感じながら見るとはなしに眺めていたが、そこでごく当たり前のことに気が付いた。その者たちは上着を脱いでいる者もいるが、一人残らず皆がスノーボードウエアを着ている。

 藤沢も史也も靖之も、半ば冬場の別荘と化しているコテージでラフな格好に着替え、地元の人間と同じように長靴を履いた格好をしてから買い出しに来ているのですっかり気が付かなかった。全員がウエアを着ているということは“全員がゲレンデを滑ってきた”ということに他ならない。

 藤沢は自分の鈍感さと、この自分にとっては不慣れな雪山といった環境の中で、自らを客体として省みることが出来ていなかったことに非常に驚いた。我々は三人でここに来ていながらも、藤沢一人だけがゲレンデで滑っていなかったが、その藤沢の常識がこの雪山では明らかに非常識である。数人でゲレンデに来れば全員が滑るのは当たり前であり、そのうち一人が滑らないというのは、この場では他の理解を得難い程の現象だろう。

 コテージに岳野さんが居ないことが物足りない思いでいるのだったら、藤沢もゲレンデに繰り出せばいいだけのことだ。ここのところ身体が鈍ってきているから丁度いい。スキーはこの間リフト一本で疲れてしまったから、どうせやるなら新しいことをやろう。それなら端からリフトに乗れるはずもないので、まずはリフト券を購入せずに練習すれば無駄にすることもない。しかも、藤沢と同世代の人間は近頃はすっかりスノーボーダーばかりのようだ。少しは今風のスポーツを試してみるのも悪くはない。先日の沙耶の友人たちはいとも簡単に滑って来たではないか。

 この思いつきを早速史也に伝えてみた。

「いいんじゃないか? 雪が緩んできたから転んでも痛くないだろうし。」

 いとも簡単な答えが返ってきた。ずいぶんあっさりとした反応だったが、それを聞いていた靖之は食材を選んでいた手を止めてこちらを見るなり、

「板もウエアもこの間の持って来てあるからやりなよ。」

 と言い、かなり乗り気のようだ。

「あ、でもボードやりたいんだけど。」

「大丈夫、ちゃんとレンタル用に安いの買っておいてあるし、ブーツもコテージに置いてあるよ。」

 藤沢は知らなかったが、靖之は自分が使うわけでもないスノーボードの板とブーツをセールで買っておいてあるらしかった。もちろんウエアなどは全て靖之が貸してくれるので、基本的に装備に関しては藤沢が支出するものは一円もなくて済みそうだ。確かにウエアはスキー用のものだが、濡れなければこの際構わない。第一、折角貸してくれるのだから格好などにはこだわっていられないし、超初心者の藤沢が練習しているところにウエアの格好が良くないなどと見ている者も居ないだろう。

「和人がボードか。おもしろそうだな。」

 史也は言うと、

「ま、とりあえず教えてやるよ。」

 といっぱしのことを言って酒コーナーへと歩を進めていった。


 少し頭が重く昨夜は幾分飲みすぎた感もあるが、今朝の日差しは気持ちが良い。もうすっかりコテージから見える範囲では雪が融けて、遠く見渡せる山々もところどころ地肌を見せている。

 靖之を起こすために扉を開けると、もう冬場のそれとは違ったほのかに温かみを帯びた風と、小鳥の囀りが春の雰囲気を醸し出しつつある。

「さて、今日はやってみるか。」

 と気を入れて隣室の扉を叩いた。

「開いてるよ。」

 史也がタバコを口の端にくわえてこちらを見ていたが、相変わらず靖之はまだ起きていない。掛布団を丸めて抱きつくように横になっているが、藤沢が入って来たことにも一向に反応もせず低いいびきを鳴らせていた。少し部屋の中が煙かったが、靖之を起こさないことには今日は始まらないので、中に入って蒲団ごと足で小突く。うーん。とか、ああ。とか言いながらごろごろするだけで起きる素振りも見せない。少しイライラしながら足蹴にしていると、いつものように史也が冷えたコーヒーを手渡してくれた。うんざりして、腰を下ろしてコーヒーでも飲もうかと思ったが、ふと思いついて缶を靖之の首に付けてみた。予想通り、奇声を上げて靖之が蒲団を跳ね上げた。


 今日は天気は良いが気温が高い。どうせ転ぶからと一通り身に着けさせられたが、暑がりの靖之などは上着の代わりにパーカーを着ている。藤沢も暑がりなのでもうウエアの下では汗が滴り落ちるようだが、折角の配慮を無にするわけにもいかず黙って史也の説明を聞いていた。準備運動が終わっただけでこれだ。

「こっちがボードのノーズでこっちがテール……。普通のスタンスがレギュラースタンスで、左足が前になって……。」

 用具や動作の名称を教えてもらっているがさすがに暑くてビーニーを脱いだ。

「今はいいけど、滑るときは必ず着けろよ。」

 と若干仕方ないなといった表情で史也は言うと、板の履き方から教えてくれた。

 安全上の都合からビーニーをしっかり被ってから転び方を教えてもらう。史也は実際にやってみせるが、傍から見ると相当の覚悟が要りそうに見える。

「こんな感じでやってみろよ。」

 と言われてやってみようとするが、おそらく潜在的顕在的な恐怖心がそうさせているようで、なかなかうまく転べない。しかも、両足が同じ一枚の板に括り付けられているような感覚では起きることも難しく、いろいろコツを教えてもらうものの立つことも儘ならない。しかも立とうとすればするほど焦りが出て、汗が額からほとばしり、どうもうまくいかない。

「ちょっと休ませてくれ。」

 ただ転んで立つといった動作だけで疲れてしまった。

 史也や靖之の言うところによると、慣れてきてコツをつかめば苦も無く出来るようになるそうだ。ただ、今はその“コツ”を教えて欲しい。

 一息ついて、再びやる気が出てきた。今のところ立つこともやっとだが、立つことに目途がつけばもっと楽しくなるだろう。いや、なるはずだ。藤沢はそう自身に言い聞かせると足場の安定しないぐだぐだの雪としばし格闘した。史也もインストラクターらしくなかなかわかりやすいことを言ってくれるが、いかんせんこういったバランス系のスポーツはスキーしかやったことが無く、しかもそのスキーも初心者が初級者になるころのレベルときては難しい。しかも藤沢はまず理論ありきでしかまともにスポーツが出来ない。今考えるとゲレンデに繰り出す前に史也から一時間ほど座学の講義を聞いてから実践に移せば良かったなどと考えたりもするが、いかにも常軌を逸している。

 ただ、そんなことを考える暇も無い程夢中になって、立てそうになったり転んだりとを繰り返していると、いくらか身体が慣れてきたのか始めよりはスムーズに立てるようになった。スノーボードは立つだけでも大変だな。と思っていると、次はスケーティングの練習だと言う。

 他の友人などを教える時には、転び方はさわり程度ですぐにスケーティングを教えて、なんとなく楽しいと思わせるところから取り掛かることもあるそうだが、そこはさすが付き合いが長い史也である。石橋を叩いて渡る藤沢の性格から、まず転び方と立ち方を納得いくまで教えて、安全面で安心させてからスケーティングの練習に移るのだと教えてくれた。

 もう散々転んでは立ってを繰り返していたので、たどたどしいながらもスケーティングは楽しく感じられる。片足に斜めについている長い板を思うような方向に向けるのは難しいが、スキーのスケーティングがまともに出来ない藤沢にとっては随分進歩したようにも感じられる。

「今日の緩い雪でそれだけ出来たらうまい方だよ。」

 と靖之が褒めてくれる。確かにそう言われると板の付いていない蹴り足となる後ろ足は、柔らかい雪にずぼずぼとはまってエネルギーのロスを感じさせる。ただ、まともに習ってスケーティングをするといった経験のなかった藤沢は、これが当たり前のようにも感じていたので、改めてなるほどと思っていた。だが、すぐにそれを身を以て知ることになる。

「じゃあ、あそこに見えるリフトの手前まで行ってみよう。」

 と史也に言われて向かってみるが、今まで練習していた距離よりも長く、重い雪に足を取られて体力の消耗具合がまるで違う。半ば息を切らせながら、転びそうになりながらもなんとか目的地に着くと、汗が止まらない。史也は文字通り涼しい顔をして、

「すこし斜度もあるのに頑張ったな。」

 と言って笑っている。人が苦労しているのに、と思うと少し憎らしいようにも思ったが、わざわざ教えてくれてもいるし、相手は史也とは言えインストラクターだから当たり前かと思うと納得がいった。

 だが、さすがにこの気温の高いゲレンデで慣れないことをするのは疲れた。史也も靖之も滑りたいだろうからと、ひとりセンターハウスに入って二人を待つことにした。もう、今日はこれが限界だ。続きは来週また教えてもらおうと、借りたウエアを汚さぬようにパンツの裾をたくし上げてセンターハウスに入るとベンチに腰をかける。一息つくと猛烈にのどが渇いていることに気付いた。まあ、あれだけ汗をかいたのだから当然と言えば当然だが、ただ板を履いて座って立って歩いただけでこれほどまでの運動になることに驚いた。これはいい運動になる。さぞかしビールが美味いだろうと思ったが、レストランまで立って行く気力も無く、すぐ左手に見える販売機でスポーツドリンクを買うと一気に飲み干した。

 スキー場で一人休憩を取り、パスケースから小銭を出して買ったドリンクで水分を補給している。なぜかいっぱしのスノーボーダーにでもなったような気持ちで自然と顔が笑ってしまう。もう二十代も半ばなのに恥ずかしいような気もするが、ゲレンデ経験の長い人たちから見れば当たり前のようなそんなことがうれしい。今日は疲れたが早くゲレンデを滑ってこられるようになりたいといった楽しみも湧いてくる。

 初めてスノーボードを履いた日とは段違いだ。いつも酒を飲んではへらへらくだらない話をしている史也でさえ、教えるとなればさすがのものだ。指導者というものが如何に大切かということが身に染みてわかる。藤沢も塾の校長だとかパソコンのインストラクターだとか、指導者としての有り様を常々考えているが、やはり指導者の資質というものは大変に重要である。もちろん指導を受ける者も重要だが、その素質を生かすも殺すも指導者にかかっていると言っても過言ではないだろう。


 コテージに戻ると、昼食はいつもどおりレトルトのカレーだ。辛めが好きな藤沢はいつも辛口を好んで食べるが、史也は辛いものが若干苦手で靖之もそれほど辛くなくてもいいらしい。おかげでいつも辛いカレーを優先して食べられるが、それでも種類によってはあまり辛みが強くないものもあり、一味や胡椒を追加でかけて食べたりもする。史也などはぞっとしないといった顔でその様子を見ているが、藤沢はその方がビールもすすむと思っている。それにしても今日のビールはさらに格別だ。

「疲れたろう?」

 靖之が言う。確かに疲れたが近頃の運動不足をいくらかでも解消できたようで心地の良い疲労感だ。

「思ってたより大変だけど、ビールが美味くていいな。」

「それなら長続きしそうだな。」

「確かにビールのためにやるのも楽しそうだ。」

「まあ、近いうちにリフトに乗れるようになるから、もっと楽しくなるよ。」

「リフト乗れるかね?」

「弱気すぎるだろ。あと二、三回も滑れば乗れるよ。」

 史也に笑われてしまった。スポーツが決して得意とは言えない藤沢は、いつになったらゲレンデを滑って降りて来られるのか想像がつかず、途方もないような先の事としか思えない。ただ、初心者は初心者なりの楽しさがあり、今この時間がただ楽しいと思えた。

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