新世界 -5
翌朝もとても気持ちの良い天気でゲレンデデビューには打ってつけのようだ。沙耶たちも皆高揚感をあらわにして表情も緩んでいる。
藤沢は全く滑る気はなかったので、センターハウスのレストランからビデオ撮影をすることになった。史也と靖之は時折滑っている姿をビデオで撮っては、いろいろフォームのチェックをしているらしかったが、藤沢は雪上の様子をビデオに撮るのは初めてだ。しかもレストランのガラス越に張り付いて、いちいちリフトから降りてくる様子をじっと待っているのも疲れるだろうと考えていたところ、史也がトランシーバーを一台藤沢に渡してくれた。撮って欲しいところまで来たらトランシーバーでこちらに合図を寄越して、それに応じて藤沢が撮るといった形になる。それぞれの操作自体は難しいというところもなかったが、同時にビデオカメラとトランシーバーを操るとなると思いのほか自由にならない。
トランシーバーで会話を交わしてテーブルに置き、ビデオカメラのズームをあわせて待っていると、「あ、待った。」などとやり直しをさせられるのが大変だ。ボタンを押したままでないとこちらの声が聞こえないので、なんとか片手でカメラを固定しながら逆の手を伸ばして会話をする。すると、かなりのズームで合わせていたポイントがいとも簡単に外れてしまう。しかも何故こんな苦労をしてまでトランシーバーを使っているのかと言うと、もちろんそれが防水機能がついているということもあるが、藤沢の使っている携帯のキャリアはこのスキー場ではまるで役に立たないのである。電波が入れば周りの目を気にしさえしなければスピーカーフォンでの会話でこれらの事情は一挙に解決するが、それも出来ないのがもどかしい。
それでもどうにかこうにか、何本か滑っている様子を撮影することが出来た。皆もレストランからは見えない他のコースに行きたいと言っているらしいので、休日のお父さんのような藤沢の任務は完了した。
安心したものの、ずっとゲレンデを見続けていたので目がチカチカして暗いところが見えづらくなっている。ガラス越しとはいっても雪の反射光はすごいなと思いつつ目を慣らそうと暗い方を見ると、生ビールを飲んでいる中年のスキーヤーと思しき姿が目に入った。おそらく、朝からひと滑りして早い昼食休憩でも取っているのだろう。
藤沢もやることもなくなったのでのんびりしようと、先ほどまで飲んでいたコーヒーのカップを食器置き場に返し、生ビールとフライドポテトを買ってきた。ここのスキー場のレストランではフライドポテトを盛り放題で食べられるようだ。ゲレンデ価格で多少高くも感じるが、山盛りにしてみるとかなりの量がある。塩加減も程良く、つまみにはぴったりだ。生ビールも自分でサーバーから注ぐセルフサービスで、昨日のコテージでの経験がすぐに活きている。これは飲みすぎちゃうなあ。とうれしそうに独り言を言いながら二杯目を注いで会計に並んだ。
ふと隣を見ると、ソフトクリームのサーバーの前で小学生ぐらいの少女が器用にくるくるとクリームの段を重ねているのが見えた。どうやらこちらもセルフサービスのようである。視線を感じたのかふとこちらを向くと得意げに笑ってみせた。
小一時間もするとゲレンデを満喫した様子で沙耶たち四人はレストランに入ってきた。楽しそうに話しながらも、藤沢を見つけると皆大きく手を振ってこちらにやってきた。特に今日がゲレンデデビューの二人は、くわしいことは何もわからない藤沢に向かって、「ターンができた。」だとか「すごい急斜面も滑ってこれた。」だとか少し大げさに見える程に身振り手振りを交えて語り続ける。
昨日出来なかったことが今日出来るといった達成感はこのように人を饒舌にするようだ。全く違うことではあるが、それは藤沢にも良くわかる。逆上がりが初めて出来たり、ゴルフで初めてバーディを取れたりなど、子供でも大人でもその達成感は大きな喜びだ。
そんな様子を微笑ましげに見ていた沙耶に、史也と靖之はどうしたかと聞くと、あと一、二本滑ってから来ると言う。そして藤沢の耳元で、
「今日は面倒見てもらっちゃったから、思いっきり滑りたいんじゃない。」
と他の三人には聞こえないように小声で言った。
昼食は全員そろってからということになり、ドリンクバーから思い思いのドリンクを取って戻ってきた彼女たちに史也と靖之の様子を聞いてみた。まだまだ話足りない様子で、我先にと言うところによると、史也は少々口は悪いがなかなか教えるのも上手いらしい。確かに普段から史也は口が悪いところがあるので思わず藤沢は笑ってしまった。相手が女の子でもまるで変わらないようだ。経験者の佑梨も「滑ってるだけなのにとても上手い。」と褒めている。まあ、滑るスポーツなのにそんな言い種もないだろうが、とも思ったがそれなりに史也は滑りが上手なようだ。
靖之の様子はと言うと、付かず離れずといった様子であとを着いてきてくれて、転んでもすぐ助けに来てくれたりとなかなか優しかったらしく彼女たちの評価も高い。確かに昨日藤沢が滑っていた時も同じように気を配ってくれていて、後ろから来る他の滑走者の脅威から守られている感じがしてとてもありがたかった。
藤沢としては長い付き合いの二人ともがなかなかいいところを見せられたようで安心した反面、自分のみっともないところを皆に見せずに済んだといったことに改めて気づき胸を撫で下ろした。
皆で話に夢中になっているところに二人は帰って来た。史也は、雪が大分緩んだ。などと言いながらもまんざらではなさそうだ。昨日は若干緊張気味だった靖之もかなり打ち解けた様子で、待たせた詫びを言いながらも楽しそうだ。
レストラン内も昼時が近づいてきたとあって、にぎやかに混み合ってきている。既に空席を探し立ち歩く人々も出てきていて席を空ける訳にもいかず、藤沢と靖之で席を確保し、交代で食事を買いに行くことにした。皆が狭い通路を抜けて離れると、靖之が、
「ゲレ食ひさびさだなあ。」
としみじみ言う。ゲレ食とは何かと聞くとゲレンデの食事の略だと教えてくれる。ここのレストランの食事は美味いが、ゲレンデ価格で多少値が張って毎回食事するには正直きついらしい。
どこのスキー場でもそうらしいが、年間数十回も行くとなると食事の負担は厳しく、結局、靖之たちにとってはスキー場のレストランでの食事はたまの贅沢ということになるそうだ。では普段はどうしているのかと聞くと、コテージに居る時は、諸星オーナーの好意で自家製米を譲って頂けて、しかも朝に人数を聞いてくれてわざわざ炊いておいてくれるのだとか。そのご飯に、前日の鍋の残りをおかずにしたり、レトルトカレーを温めて食べたり、缶詰をおかずにしたり、と工夫しているようだ。日によってはパンを買っておいてホットサンドを作ったり、カップラーメンで済ませたりとバリエーションもいろいろあって飽きないらしい。
コテージから遠い他のゲレンデに行く時は、靖之が常に車のトランクに積んでいる小型の炊飯ジャーに、あらかじめ炊いておいたご飯を一人前ずつラップに包んで入れて保温しておき、一緒に入れて温めておいたレトルトカレーと共に食べると言う。生活の知恵と言うか、ゲレンデの知恵と言うか、かなり工夫されていて藤沢は感心してしまう。
どうりで以前BBQをした時に、靖之の車のトランクから使い捨て皿や割り箸が出てきたわけだ。あの時は思いのほか人数が増えて食器が足りなくなったので、とても助かった記憶がある。
皆が帰って来たので、どんなメニューにしたのかと聞いてみると、五人中三人が“焼きチーズパンカレー”にしたらしい。大き目のパンを繰り抜いて、カレーを入れた上に焼きめのついたとろけたチーズがなんとも美味そうだ。付け合せにフライドポテトも付いていてボリューム感もあり、千円なら意外と安い。史也はつまみになりそうな上州豚のソテーにビール、佑梨は温玉カルボナーラ。なかなか工夫されているメニューが多く、藤沢はどんなものがあるのか楽しみになってきた。
交代で靖之と連れ立って行くと、先ほどはビールに夢中で目に入らなかったが、思いのほかメニューがたくさんある。ドリンクは地ビールから瓶入りカクテル、缶チューハイ、ソフトドリンクと豊富だ。サイドメニューも、先ほどのフライドポテトの盛り放題、から揚げ、枝豆、アメリカンドッグ、メキシカンロールなるものもある。食事にはラーメン、チャーハン、牛丼などの定番からオリジナリティ―あふれるメニューもあり、目移りして仕方がない。まずは地ビールを片手に選んでみるが、靖之と二人でしばし悩んでしまった。
結局悩んだ末に、藤沢はステーキ丼に地ビール、靖之はロコモコにアメリカンドッグとなった。靖之は子供のころからアメリカンドッグが好きで、昔の写真を見せてもらうと大抵アメリカンドッグかソフトクリームを片手にしてうれしそうに笑っている。今もレジのとなりに並んでいる靖之はあまり当時と変わっていないのが面白い。
こんな大人数でスキー場のレストランで食事をしているといった非日常感が楽しい。今日は全く滑っていないがゲレンデを満喫した気分になっている。もう満席になっているレストラン内のにぎわいも、藤沢の心を高揚させているようだ。館内には、レストラン混雑時に階下のフードコートの利用を促すアナウンスも流れている。
「和人くんはスノーボードやらないの?」
佑梨が唐突に聞いてきた。今の今までやろうと思ったことも無い。と答えようと思ったが、良く考えると数年前に一度だけやってみようと思ったことがある。
会社勤めをしていたころに、ちょっと気になる部下の子が居た。その子はどう思っていたのかは知らないが、仕事のことでもプライベートのことでもいろいろと話をする機会が多く、食事に行っただの、旅行に行っただのといった話もよく出ていた。比較的人見知りで口下手な藤沢だが、そんな藤沢に気を使ってくれているのか、彼女がいろいろと話をしてくれることに内心助かる思いでいたのだった。
そんな彼女がある冬に友だちとスキー場に行って、初めてスノーボードをやってきて全身筋肉痛だとなんだかうれしそうに言っていたことがあった。それまでは史也がやっているのは知っていたものの、スノーボードと言えばちょっと悪ぶった人間がやるものだと勝手に決めつけていた藤沢だったが、それならばちょっとやってみようか? もしかしたらいつか一緒に滑る機会があるかも知れないと思ったりもした。逆に若干の嫉妬心もあった。憶測の域を出ないが、その『友だち』とは声変わりしている友だちかも知れない。そんなちょっとしたことも後押しして、「寒くて面倒くさくて痛いから、スキーはそこそこでいいよ。」と言ってゲレンデから遠ざかっていた藤沢がスノーボードをやる気になっていた。
その冬、藤沢はゲレンデに向かった。その時に初めてスノーボードを履いたのをすっかり忘れていた。五年前最後に滑った時にはスキーではなくてスノーボードをやっていた。吹雪の中、何を教わるでもなく、手はかじかみ吹き付ける雪で顔も痛い。両足を固定されて、生まれて初めての感覚にまともに立つことも出来ず、何度も転ぶうちに手首の骨が折れたかと思えるほど痛くなり、尻も冗談抜きに痛くてそこから動けないような状態だった。
まわりからは「そんなものは痛いうちに入らない。」だとか「転んでうまくなるんだ。」だとか言われ、こんなスポーツはやりたくないとすっかり記憶から消し去りたい思いだった。
実際先ほどまで全く記憶の片隅にもなかったが、嫌なことを思い出してしまった。当時は無責任な「大丈夫だよ。」の声に逆らってガンとしてリフトに乗ることを拒否していたが、藤沢の石橋を叩いて渡る性格による判断は、そのろくに指導者も居ない状況では適切だったと痛感した。
しかしそれにしても今日の彼女たちは楽しそうにゲレンデデビューを果たしている。確かに藤沢はどちらかと言うと運動神経が良い方ではなく、まず理論をある程度頭に入れてからではないとなかなかスポーツが上手く出来ない。
教育批判をするわけでもないが、子供の頃の体育の授業のように、なんの説明も無く「さあやってみろ。」と言われてすぐ出来るクラスメイトが居るのが不思議でならなかった。藤沢がパソコンのインストラクターや塾講師の経験が長いこともそういった理論から入ることの裏付けになるのかも知れない。
ただし、今日ゲレンデデビューした二人はどちらかと言えば華奢で、昨日酔って話したところでは運動経験もほとんど無いと言っていた。明らかに体力的に優位な藤沢が惨めな記憶から消し去りたい思いをしたのに対して、どう考えてもおかしい。納得出来ない思いでいる反面、昨日初対面ながらも仲良くなった彼女たちが、藤沢のような思いをせずに良かったと安心せずにはいられなかった。
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