新世界 -4

 今日は十二月二十九日。何かと慌ただしかった今年もあとわずかだ。藤沢、史也、靖之の三人は正月明けまでコテージに泊まる予定だ。志村は今日は一旦帰って元日の朝にまた来ると言う。村田は、

「年末年始忙しいんだよなあ。」

 と残念そうな表情を見せて帰ってしまった。

 コテージに戻ると、

「今日は鹿だよ。」

 と諸星オーナーが漬物石ほどの大きさのある鹿肉の塊を見せてくれる。昨夜心地よい酔いに浸りながらも、今日は沙耶とその友人たちが来るのでぜひその鹿肉などを食べさせて欲しいと三人が頼んだのを忘れずにいてくれたのである。

 諸星オーナーが言うところによると、ご自宅の裏手の山々で懇意にしている近所の猟師がスノーモービルに乗って仕留めて来て、撃ったその日に持ってきてくれるので鮮度が違うとのことだ。そんな手近な山で鹿が捕れるのかと驚いていると、どうやらこのあたりの山でも鹿やら熊やら野生動物が潜んでいるらしく、猿やウサギなどはこのコテージのまわりでもよく見かけるらしい。ICから程近いがやはり山深いのだなと感心していると、

「ゲレンデでリス見たこともあるし、リフトの下はウサギの足跡だらけだぞ。」

 と史也が言う。今日はすっかり緊張して乗っていたのでリフトの下を見るような余裕はなかったが、今度乗るときは是非見てみようと藤沢は思った。

 そんな風に肉の塊を囲んで皆で話をしている傍らでは、岳野さんが返却されたレンタル品の片づけのために立ち働いている。ストックの紐を器用にまとめ、サイズごとに所定の場所にぶら下げ、ブーツは底を洗い乾燥室へ。ウェアも同様にサイズごとにハンガーに掛け乾燥室に入れ、板もビンディングなどのゆるみが無いか確認してからサイズや型ごとに仕舞っている。やはり岳野さんは長らく管理人をしているだけあって手際が良いと思っていると、おもむろに史也も靖之も返却品を手にして動いている。

 あまりにも自然な流れで驚く暇も無かったが、レンタルが忙しいときはそのように日常的に手伝いをしているとのことだ。ここではいろいろ世話になっていて、その代わりと言う程でもないが手伝うようになったと言う。諸星オーナー曰く、中には史也と靖之を完全に従業員だと勘違いしているお客さんも居るぐらいで、大いに助かっているとのことだ。


 まだ時間は早いが、立ち寄り温泉施設で汗を流す。コテージから下山して水上ICを超えたあたりの一帯は上牧温泉と言うらしく、透明ながらも水上温泉ほどさらさらしておらず、しっとりとほんのりなめらかな肌触りである。

 リフト一本と情けないながらも、慣れないことをした藤沢はゆっくりと湯船に浸かって疲れた体や節々を休める。史也も足首やふくらはぎのあたりを揉みながら一緒に浸かっていたが、靖之は早々に風呂場から出て行ってしまった。靖之は昔から熱い風呂が苦手で、折角の温泉でもまず五分と入っていられないのがもったいない。

「あとで痛むから、よくマッサージしておいた方がいいぞ。」

 史也に言われて、さらに念を入れてあちこちを揉みほぐす。間違いなく明日は筋肉痛に違いない。年明けまで何泊もするが、道具を用意してくれた靖之には悪いがもう滑らないだろうから、帰るころには痛みも消えているだろう。あとは旨い肴に旨い酒だ。と思いながら目を閉じる。

 隣には藤沢たちと同年代の男たちが四人。どうやら今日ゲレンデを滑ってきたらしく、スノーボードの話で盛り上がっている。藤沢にはわからない単語も多々出てくるが、その様子はとても楽しそうでもあり、そんな連中と同じような気分でここに居ることに、何故か仲間入りでもできたようなうれしい気持ちになった。


 温泉から出て地元のスーパーで買い出しを済ませて早々にコテージに戻る。何故こんなに急いでいるかというと、沙耶たちから意外と早くやって来れそうだと連絡があったからだ。早く来るということはそれだけ楽しみにしていてくれているということでもあり、藤沢は何もしていないながらも、呼んだ側の人間としてはうれしい。

 藤沢と史也は今日のメインの鶏鍋の下準備のため、野菜その他を切り、出汁の準備をする。藤沢は先ほど靖之が鹿肉をさばいていたのを思い出す。その身はほとんど脂が無く、赤身のしっとりとした弾力が傍で見ていてもわかるくらいだった。筋の部分を丁寧に除いて表面を焼き、買い出しの前に炊飯器に仕掛けておいた。

「いい感じ、いい感じ。こいついい仕事してくれるよ。」

 靖之は満足げに炊飯器をポンとたたくと、密閉した袋から鹿肉の塊を取り出し、慣れた手つきで薄くスライスする。肌理の細かい身が美しい。諸星オーナーに促されて醤油にわさびを溶いてつまみ食いをすると、見た目以上のなめらかさと淡白な旨味に驚く。獣肉というととにかく臭みがあるのではないかと先入観があるが、以前靖之が言っていたように臭みなど全く無い。馬肉の赤身にも似ているが、それよりもさらに肌理の細かい繊維が心地よい歯ごたえを演出している。もちろんのど越しも良く感じられ、知らないで食べたらこれが鹿の赤身であるとはわからないだろう。

「あっはっは、どうだい? よく生姜とかニンニクとか入れるけど、臭みが無いからわさびが一番だろう。」

 諸星オーナーの言うとおりである。もちろん新鮮で丁寧な処置がしてあることが一番のようで、時間の経ったものは炭火で焼いて、生姜醤油、ニンニク醤油、焼き肉のたれなどで食べると言う。それも野趣あふれていて美味そうだが、この美味さを知ってしまうと今はともかくシンプルにローストが食べたい。

 だが、蝦夷鹿に関しては少し脂と一緒にスライスして焼いて食べるのが一番らしい。名は似ているが、食材によって向いている調理法も食べ方も違う。こんなに食べたことのないめずらしい食材がまだまだあるのだから、熊やイノシシなどもさぞかし美味いに違いない。そんなことを考えていると、諸星オーナーがなにやら袋から黒光りする大きなしゃもじ状のものを取り出している。燻した香りが食欲をそそる。どうやら魚の燻製らしいが、燻製にしても長さ約五十センチもあり、鮭のようでもあるが顔つきから見ると違うようだ。川魚でこれだけのサイズとなると何だろうか? と考えていると、史也が、

「そのイワナすごいだろ。」

 と教えてくれた。ひと口味見させてもらったが、これまた美味い。まずは香しい燻香。固く引き締まった身を噛むとイワナの脂がじわりと滲み出てこれは見事に熱燗に合いそうだ。この誘惑はすごい。先にビールを飲み始めてしまいたい誘惑に勝つにはかなりの忍耐力が必要になりそうだが、なんとか準備をしながら気を紛らわせる。

「来たみたいだよ。」

 岳野さんが教えてくれたが、まだ車の姿は見えない。

「何でわかるんですか?」

 と聞くと、この辺はハイシーズン以外の夜は車の通りもまばらで静かなので、エンジン音でなんとなくわかると言う。

 ほどなく沙耶たち四人を乗せた車がコテージの駐車場に到着した。しばらく車の中でごそごそやっていたようだったが、藤沢が出迎えると車を降りてレンタル棟に入ってきた。

 四人の女の子たちは初めての場所とのこともあってか幾分緊張気味だ。そんなことはまるで気にしていないようで、史也が部屋ごとに宿帳を書かせ、宿泊費を徴収し、シーツと鍵を慣れた手つきで準備している。宿泊の受付まで手伝っているのかと少し呆れながらもその慣れきった姿に岳野さんと目を合わせて笑ってしまった。

 沙耶たちは史也の指示で先に温泉に浸かってきたらしいが、聞いてみると藤沢たちが行った立ち寄り湯と同じところに入ってきたらしい。こんな偶然もあるんだな。と思っていたが、史也曰く上牧温泉には温泉宿が日帰り温泉を提供しているところは他にもあるが、立ち寄り温泉に限った施設はそこの一ヶ所だけだと言う。


 まずはビールで乾杯だ。初対面の女子が三人も居るとやはり靖之は緊張の面持ちだが、そんな中にもうれしそうな様子が見て取れる。なんとこのレンタル棟にはビールサーバーがあるのだが、靖之がうれしそうにそのサーバー導入の経緯を彼女たちに説明している。

 ある日、いつものように史也、靖之、諸星オーナーの三人で缶ビールを飲んでいたところ、諸星オーナーの口から、「これだけ飲むなら樽生の方が安上がりなんじゃないかい?」と思いがけない言葉が出たらしい。確かに割安で樽生が飲めて缶ゴミも出ない。おまけに冷蔵庫もすっきりするとなっては検討しない手は無い。何故今までそこに気付かなかったのだろうか。早速翌日に史也と靖之とで近所の酒屋に赴き、交渉の末ビールサーバーを貸し出してもらったという。

 その時の山嵐酒店の店主の顔はかなり訝しげだったそうだが、冬期には週に何本も十リットル樽が売れるので今ではすっかり上客扱いをしてくれているそうだ。しかもそこには地元群馬の地酒の旨いところがずらっと揃えてあって、それもかなりの魅力だと言う。

 ビールサーバーの横には小さな貯金箱が置いてある。常連客、スタッフを問わず、生ビールを一杯注ぐとそこに必ず一杯分の代金を入れる。そうしておいて、樽の中身が無くなるとその貯金箱から新しい樽の代金を酒屋に支払う。当たり前のことだが、原価から計算して一杯分の金額を幾分多目に算出しているので次の樽の代金が足りなくなるということは無い。逆に若干の利益が出るが、それは有志で建て替えておいた一本目の樽の代金や炭酸ボンベ代、泡こぼれ等のロスに充当するので基本的に利益と言う利益は出ないのが通常である。こんな風にきちんと一杯ずつ代金を入れさえすれば生ビールに困ることはないのでこの方式はとても便利だ。

 もちろん、一般の来客には通常価格が設定してあってその場合は利益が出るが、特に積極的に生ビールの営業をしているわけでもないので一シーズンに何杯も売れないそうだ。


 諸星オーナーと岳野さんを入れて総勢九名の宴は盛り上がる。ビールサーバーから直接自分で注ぐというのもなかなかいい。ちょっと居酒屋の店員にでもなった気分にもなれる。沙耶の友だちだという三人も上手く泡がつけられただとか、あふれただとか口々に言いながら楽しそうだ。

 彼女たちは沙耶も含めて全員スノーボードをやると言う。そのうち二人は今回が初めてのスノーボードで、明日はここのレンタル用具を借りるそうだ。史也に言わせると沙耶もなかなか上手いらしいが、頻りに史也に初めての子達を教えてやってくれと頼んでいる。

 雪山に来たという非日常性も手伝ってか、四人は口数も多く食事も美味しいと喜んでいる。沙耶などはそれが目当てと来たものだから、「美味しい」を連発し、諸星オーナーを大いに喜ばせた。他の三人も道中沙耶に聞かされて来たらしく、食事と酒と会話を楽しんでいる様子で藤沢は安心した。

 夜も更け今はそれぞれ思い思いの酒を飲んでいる。男たちと佑梨と名乗った子は日本酒を飲み始め、他の子たちは買い出しておいた缶入りカクテルや自分たちで買ってきた缶チューハイを飲んでいる。鍋もあらかた食べ終わったところで彼女たちが買ってきてくれたスナック菓子や乾きものがありがたい。男はどうしても酒ばかり買ってしまい菓子類には頭が及ばないところがあるが、こういった気遣いはやはり助かる。

 それにしてもなかなか気持ちよく酔ってきた。藤沢はどうせ明日は滑らないのだから、楽しさにまかせて飲めるだけ飲んでやろうと思っていたが、運転の疲れもあったのか沙耶がめずらしく寝てしまったので、明日の滑りに備えて早く寝ようという史也のひとことで寝ることになった。

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