新世界 -3
このノニエル水上スキー場はバブルの余韻残る1994年、リレハンメルオリンピックの年に開場したとあって、センターハウスも小ぎれいで施設も使い勝手が良さそうである。
多くのスキー場のそれと同様にゲレンデの斜面に向かって建てられ、今藤沢たちが居るゲレンデへの出入り口がある場所が二階。一階にロッカールームがあり、三階は外階段を上がって屋上テラスといった感じになっていて、一階から三階部分と面一になる部分まで吹き抜けがあり、開放感がある。
週末の朝には二階レストラン前で焼き立てパンとコーヒーの販売をしているらしく、それを呼びかける売り子の女性もてきぱきと立ち働いている。藤沢は朝食はまず摂らないが、パンの香りに誘われて低く腹が鳴った。
出入り口から見えるゲレンデは日差しに照らされてまぶしいぐらいだが、早朝ということもあり、インフォメーション前のベンチのあたりも人はまばらだ。数人の人々は脚を広げる格好をしたり、首をまわしたりとストレッチに余念がない。この時間はスキーヤーもスノーボーダーもかなり技術レベルが高そうに見えて、五年ぶりに滑る藤沢はなんとなくこの場に居るのが場違いなような気がして準備体操などもそこそこにあたりを見回してみた。
史也は普段見せないような真剣な表情でスノーボードのソフトブーツの紐の締め具合を調整しているように見える。志村はインフォメーションでなにやら話をしている。どうやら藤沢以外は、シーズン券といったワンシーズン有効のリフト券をあらかじめ買って持っているらしく、その券をインフォメーションで提示して当日のリフト券を発行してもらうといったシステムになっているらしい。
藤沢はもちろんそのような券を持っているはずもなく、靖之に案内してもらいながら今居る建物のゲレンデ側にあるチケット売り場に向かった。スキー場のチケット売り場といってもリフト券と代金を受け渡しする小窓が開いているといった点で、何ら他の同様の売り場との違いはなかったが、その小窓のところに見かけない文字が書かれてあった。
―― 風のため、お札が飛びますのでご注意ください。 ――
何のことかわからずに、靖之の勧めるままに五時間券という券を買うことにした。あとで知ったのだが、スキー場では一日券のほかにそのスキー場によっても異なるが、半日券、四時間券、五時間券、午前券、午後券、早朝券、ナイター券、回数券などのように多種多様の券種があるようで、それに加えてそれぞれ、キッズ、ジュニア、シニアなどに分かれているようだ。もちろん、以前にもリフト券を購入した経験はあるのだがいつも靖之が一緒に買ってくれていたので、その詳細は知らずにいた。スキー、スノーボードを趣味としている人々にとっては当たり前のことだろうが、その当たり前のことをこの年まで知らずにいたことに、藤沢は少し恥ずかしい気持ちになった。
「五時間券を一枚ください。」
「3,600円です。」
五千円札を窓口に置くと札が窓口に消えた。いや、消えたと言うより吸い込まれたと言った方が正しいだろう。売り場の女性は器用にそれを受け止めると、子供が書道の時間に使う文鎮のようなもので五千円札を抑えた。
「すみません。」
と自然に口をついて謝ったものの、一瞬何が起こったのか理解できなかった。当日の日付と五時間の終了時刻が大きくプリントされたリフト券と、つり銭を受け取りながら手元を見ると、
―― 風のため、お札が飛びますのでご注意ください。 ――
と先ほどの注意書きが目に入った。事が起こってから初めてその内容が理解できた。藤沢の憶測では次のとおりである。
外気は雪が積もっているほどだからかなりの寒さだろう。その逆にチケット売り場の中では暖房を効かせているのは間違いないから低く見積もっても十五度以上に違いない。要するに売場の外では相対的に気温の低い状態になっていて、売場の中では相対的に気温の高い状態になっている。気温の高い売場の中では上昇気流が起こって、窓口のような低い部分の気圧が下がっている。結果として気圧の高い外から低い内側に風が起こって紙幣など軽い物が飛んでしまう。といったことだろう。
藤沢は日本文学科を出たぐらいだから、文系理系と分ければ完全に文系だがそんな風に考えてみた。まあ細かいところはわからないが、中学理科ぐらいの知識でもなんとなく自分なりの理解はできたような感じがしていた。
五年ぶりにスキー板をつけてみた感覚は、意外と立てるがやはり自由が効かないといったところだ。天候も素晴らしく、スキー経験の豊富な靖之やスノーボードの得意な史也、初対面だが見るからにやりそうな志村とバックアップも安心でき、ひさびさのスキーには申し分ないほどの条件ではあるが、やはりこのまますぐにリフトに乗るというのは気が進まない。
スケーティングもまともにできない藤沢は両足をバタバタとして、気も進まなければ足も進まない。そんな藤沢の様子を察してか、
「四人乗りリフトだけど、空いてるから二人ずつ行こうか。」
史也がこちらを振り返りながら言う。その様子を見て、スノーボードのスケーティングは片足を外してその足で蹴って進むのか。などと思いながら、仕方なしにあとについて行く。なんとかリフト乗り場まで辿り着くが、どのように乗るのかで藤沢の頭はいっぱいだ。
子供のころに習ったリフトの乗り降りの仕方をこの土壇場で脳の片隅から引っ張り出そうとしていると、靖之が笑いながら言った。
「板を前に向けてそろえて、ゆっくり遠く見てれば大丈夫だよ。」
言われると同時に、ピンポーンと音がして係員に促されるままに乗車位置によたよたと向かう。靖之がリフトの椅子を押さえてくれて、なんとか無事に乗ることができた。靖之のサポートで無事に乗ることができたが、藤沢の少ない経験でもリフトは乗るよりも降りる方が難しいというのは良くわかっている。
「転んだらすまん。」
と靖之に言うと、
「後ろは身内だから気にしなくても大丈夫だよ。あの二人なら減速しなくても簡単に避けるだろうし。」
と事も無げに言う。我々が先に乗車したのはそういった意味もあるのか。逆に藤沢が遅いからと邪険にして先に行かせたのかと思っていたが、経験のある三人の深謀遠慮には驚かされる。もちろん自分が今日のお荷物なのはわかっていたが、それ以上に皆が考えてくれているのには正直言って驚いた。酒場では馬鹿ばかりやっているが、こんなところで有り難味を感じるとは。
「天気良くなったなあ。」
などと靖之が呑気に言うが、徐々に降り口が近づいてきて、藤沢はやはり転んでリフトを止めてしまうのではないかと緊張する。
「ゆっくり立って遠く見てれば大丈夫だから。」
靖之がまた言ってくれるのが心強い。言われたままに遠くを見て降りると思いのほかすんなりと降りることができた。近頃味わったことのなかった緊張感だったが、立つのが少し早かったことを考えれば上出来だろう。それにしてもリフトの乗り降りでこの調子では先が思いやられる。
後学のために後ろの二人の降りるのを見てやろうと思い見ていると、何やら大笑いをしながら降りてきてこちらの方まで滑って来た。あんな風に話をしながらでも降りて来られるのかと、やっとのことで降りてきたリフト降り場を何度も見返してしまった。
史也がスノーボードのブーツを板に付けているのを待っていると、
「景色いいですね。」
と志村が遥か前方の山々を見やって言う。藤沢は、リフトの乗り降りの緊張感から解放されたままで、景色を見るような余裕はなかったが、見渡す限りの峰々は白く輝き、その圧倒的な存在感がかえって現実感をどこか遠くに追いやってしまっているようにも思える。その現実感の無さは、さながらBSの特集番組で見たテレビ画面の向こうの俯瞰映像のようでもある。
「おまたせ。」
とやってきた史也のゴーグルのミラーレンズに映る自分の姿を見て、藤沢は現実感を取り戻した。
今藤沢達が居るところの目の前にはかなりの斜度がありそうなゲレンデが広がっている。昔靖之に連れられて来たことはあったが、言われるままについて行くのでコースの記憶などほとんど無い。
「テクニカルは無理だから、セントラルでいいんじゃない?」
史也が靖之に言っているが、どうやらテクニカル、セントラルと言うのはコースの事らしい。今乗ったリフトからアクセスできるのは、ここの急斜面のテクニカルコースと幾分斜度の無いセントラルコースの二コースらしかった。
なんとか昔覚えたボーゲンでセントラルコースの方向へ滑り出す。斜面が右に傾いていて右足がものすごく疲れる。だが、少しでも気を抜いて力を入れずにいるとどんどん右側の林に落ちていってしまいそうで、力加減もわからずなんとか降りて行く。ほんの数十メートル滑ったところで、もう一息ついてしまう。平らな斜面ではいくらか調子も出てきてターンしてみるが、スピードも斜度も近くを通る滑走者も怖い。できるだけゲレンデの隅を滑っているのだが、あまり端に寄ると今度は落ちてしまいそうで怖い。
藤沢の後ろを靖之、その少し横を志村、藤沢の先を先導するように史也といった布陣で、さながら護送船団のようである。他の滑走者の邪魔にならないように藤沢を見守ってくれているようであるが、やはりいい年をしてなんとも恥ずかしい。何度か目の休憩でそのことを言うと、
「相当うまいやつでも居なけりゃ、だれも他人のことなんか見てないぞ。」
と史也に言われてしまった。確かに転んでいる人は目には入らないが、上手い人は目に入る。そう言われて開き直ってセントラルコースを下りてきた。
慣れないことをして力がかなり入っていたのだろう。センターハウスの前まで来たころには藤沢の両手両足は痛くて動かす気にもなれなかった。史也に、転ばなかったのは褒めてやる。と言われたが、もう今日はこれ以上リフトに乗る気力も体力も失っていた。
三人に付き合ってもらった礼を言ってセンターハウスの中のベンチに腰をかけ、足を拘束しているブーツを脱いだ。その間に靖之は板とストックを車に置いてくると言う。盗難防止のためと言っていたが、ゲレンデにはいろいろ注意しなくてはいけないことが多いな。と藤沢は思った。
右を見るとスキー場のレンタルがあり、四、五人のグループが申込書らしきものを書いている。左前にはクレープショップがあり、細身の実直でやさしそうな男性が丁寧にクレープ生地を焼いている。ほんのり甘い香りと、クレープを両手で大事そうに持った藤沢より幾分若いように見える女性の笑顔がとてもうれしそうで、藤沢もやさしい気持ちになり笑顔になる。史也達がいつあがってくるのかわからないが、ガラスの向こうにはゲレンデも見えるし、行き交う人々を見ているのも意外と時間がつぶれるだろう。いよいよとなればショップをぶらぶら見て歩いてもいいし、三人に抜け駆けしてクレープを食べたりビールを飲んだりしてしまうのも楽しそうだ。
それにしても足が痛い。しかも転んでもいないのに肩から腕にかけても痛いのには困った。五年ぶりに滑ってみたもののリフト一本か。と思うと情けない思いもあるが、この痛さには勝てそうにない。コースの途中でブーツを脱ぎたいとも思ったが、なんとか下に下りるまでは我慢しないとどうしようもないと、我慢に我慢を重ねて下りてきた。ブーツを脱いでいくらか落ち着いたが、足の裏の熱を帯びた腫れぼったいような感覚はしばらく抜けなそうだ。しかも全身に力を入れていたのか、ただでさえ多汗な藤沢はウェアの下に着た長袖シャツから何から汗でじっとり濡れていてなんとも気持ちが悪い。幸いなことにセンターハウス内は十分に暖房が効いていて、風邪を引くようなことにはならなそうなのが救いだ。
「よう、めずらしいね。」
と笑いながら背の高い男が右手を挙げながら声を掛けてきた。地元の友人村田だった。どうやら村田は、誰が来ているかもわからず、一人で来て滑っているところで三人と合流したそうだ。村田も朝一から滑っていたようだが、テクニカルコースを中心に滑っていたので藤沢が気づくことはなかった。合流してからしばらく滑って皆と一緒にあがってきたところだと言う。
「待たせたね。」
と靖之が気を使ってくれる。こんなところで村田と会えるとは思っていなかったので少しうれしくなりながら、「ゲレンデで合流か、ずいぶん粋だな。」と思った。
村田というのは藤沢の同じ町内で付き合いはかなり長いが、お互い適度な距離感でしばらく会わなかったとしてもまるで違和感は無い。実際村田がニュージーランドに留学していた時期もまるで会わなかったが、会えば昨日会ったように会話もするし酒も飲む。もともとスキーを中心にやっていたが、留学中にスノーボードメインに滑るようになったと聞いている。そのニュージーランド仕込みの滑りはなかなかのものらしい。
帰国当時はそんな話を熱心に聞かせてくれたが、当時はそんなものかと聞いていたものの、実際にゲレンデを間近にしてみると村田の滑りというのも見てみたい。
「ムラも泊まるんだろ?」
明日、村田の滑りを見てみたいと思い聞いてみたが、今日は日帰りとのことだった。
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