新世界 -1
ゲレンデの朝は早い。特に史也は朝一の整備されているバーンを気持ちよく滑るのが楽しいといつも言っている。折角整備されているのに、他人に荒らされて雪も緩みがちになって板も走らない昼ごろに滑ってももったいないと言うのである。
なるほど、そういうものか。と藤沢は思うが、数少ないゲレンデ経験のスキーでもボーゲン一辺倒な藤沢からしてみれば、雪の良し悪しというものを自分から実感したことがない。しかも板が走るといった感覚もよくわからない。以前行ったときには一緒に行った靖之から「今日の雪は緩んでて疲れる。」と言われたりしてはじめてそうなのか。と思った。うまいやつはいろいろこだわりがあるのだなと感心したりもするが、実感としてないものだからなんとなく別世界といった感覚だ。
そんな訳で、今は金曜日の十八時。仕事が早く上がれたり、余裕があるときには前日にコテージに泊まって翌朝一番でゲレンデに行くそうだ。
何を用意したら良いのかわからなかったが、滑るにせよ滑らないにせよ靖之が念のため藤沢にウェア以外のスキー用具一式を貸してくれると言うので、学生時代に買った少し時代がかったウェアと着替えを持って行くことにした。学生時代もスキーに行くとなると、いつも靖之が用具を貸してくれたものだ。靖之曰く、「コテージのレンタルも安く貸してもらえるけど、レンタル品とは違う。」らしい。確かに貸してくれるのなら靖之が前使っていたような高価なスキーを使いたいが、自分では到底そんな高価な用具は買えないし、もし買ったとしても無駄になってしまうだろう。そういったニーズにスキーレンタルは応えているのだと思う。
藤沢は中学生時代に親に連れられて行った軽井沢のスキー場で借りたレンタルスキーを思い出していた。ただ、今日これから行くレンタルはスキー場併設のものではなく、ルート沿いのレンタルショップらしい。そういったレンタルショップには行ったこともないし、噂では聞いているがコテージというのもどんな感じなのかなかなか想像するのも難しい。二人の話ではカジュアルな雰囲気らしいが、その中学時代のスキーで泊まったログハウス風のコテージとは違うのだろうか。
あの時のスキーは楽しかった。スキー場至近のリゾートホテルのコテージに宿泊し、スキースクールのコーチを頼んでレッスンも受けた。若く優しい男性コーチは楽しく教えてくれ、夜にコテージの窓から見える人工降雪がライトアップされた幻想的な風景は今でも覚えている。あの頃は、大人になったらお洒落なスキーヤーが集うと言う苗場スキー場に行ってみたいと漠然と充実したスキーライフを夢見たりもしていたが、結局スキー場に行ったのは十回程度で、楽しい思いもしたもののいまだにゲレンデを颯爽と滑ると言うのには程遠い。
まあ今回は相当気が向かないと滑らないだろうからスキー旅行の雰囲気だけでも楽しめればいいだろう。藤沢がそんなことを考えていると、靖之が愛車の白いセダンを駆って迎えに来た。
面白いことに、雪山にワンシーズン何十回といく靖之と史也だが、二人とも後輪駆動のいわゆるFR車に乗っている。物理的に考えれば、重い車体を後ろのタイヤを駆動させて雪道を登るのだから、FF車や4WD車に比べれば滑って登りづらいはずである。ただ、滑り始めたら滑りを比較的コントロールしやすいのがFR車だと二人は言っている。何にせよカウンターを当てて滑りをコントロールするのにも技術がいるだろうし、相当の勢いをつけて登らないと山腹で止まってしまってやり直す羽目にはなりそうだ。実際史也はノニエル水上スキー場へ向かう道で対向車が来て滑らせながら上がる訳にもいかず、減速してしまって登りなおしたこともあると聞いた記憶がある。
「お待たせ。」
靖之は藤沢の家の前に車をつけると、なんともうれしそうな笑顔を見せて言った。どうやら一番の酒仲間の藤沢とコテージで飲めるのがうれしいらしい。「和人が雪山に自分からすすんで行くとは思わなかったよ」と何度もメールして来たことからもそれは良くわかる。ちなみに和人とは藤沢の名前だ。
関越道沼田ICを過ぎたころから、ちらちらと雪が舞ってきた。
「雪だな。」
「冷え込んできた。」
などと靖之と史也の会話を後部座席から聞いている。靖之の運転も慣れたもので、すでに安全速度まで落としている。少し感心したが二人には当たり前のことらしく、これぐらいならコテージへの道も苦も無く登れるだろうと教えてくれた。
藤沢も運転には自信があるが、なにせ雪道の運転は慣れに負うところが大きく、二人のこういった対応には安心感がある。靖之が言うには、水上地方はクリスマスを過ぎたころから本格的に雪が降ることが多く例年年末年始の降雪で全コース滑走可能となることが多いとのことだ。聞くまではスキー場のコースに開いていないコースがあるなどとは考えたこともなかったが、雪がなければ開けようもないので良く考えれば当たり前のことだった。
藤沢は雪山に関することは何も知らないな。と思い一人で笑った。雪道の運転もそうだが経験に依るところは大きい。もちろん経験が全てではないが、どんなことでも経験と素質にはかなわないようにも思える。
水上ICを下り信号を左折すると山道に差し掛かった。他に車の居ない暗闇の中をヘッドライトに照らされた雪がこちらに向かって来る姿が、さながら異空間への誘いのようである。藤沢の日常からはかけ離れた光景を目の当たりにし、静まり返った自然とひときわ大きくなったエンジン音に期待を大きくする。懐かしいような感覚を不思議に思いながら普段感じられない感覚に身を委ねていた。
すると突然車体が予想していない挙動をした。
「おわっ。」
思わず声に出すと史也に笑われた。
「今日は滑らないほうだ。」
軽やかな笑顔を浮かべながら、助手席から首をひねるようにこちらを向いてなんでもないように言った。なるほど後輪を滑らせながら登るとはこのことかと納得するが、なかなか滑る感覚には慣れない。思っていたよりも滑るのには驚いた。
靖之が右に左にとハンドルを小気味よく操作しながら、
「上山さんなんか、しょっちゅう横向いてるらしいよ。」
と気軽に言う。上山さんと言うのは知らないが、どうやらスキーの仲間らしい。
「いつもここが難所なんだよ。滑る雪だといつもここで登らなくなるんだよなあ。」
続けて言うと、いつぞやはああだったなどと二人で話はじめた。確かに大きく右カーブを描く道は登りもかなりきつそうだ。車のノーズを対向車線にはみ出して車が斜めになりながら進む。対向車が来たらどうするんだ。と冷や冷やしていると、それを察したようなタイミングで、
「夜は対向車の明かりがあるからコーナー攻めやすいよな。」
と二人の会話は続いている。この車はなかなかいいシートだが、尻がむずむずと落ち着かない。斜めになりながら進むものだから、ライトがガードレールを照らすと冷や汗が出る。
そんな思いをしていたのも束の間、長い直線路の向こうにボウっとあかりが見えてきた。対向車でも来たかと思っていると、光はどんどん大きくなってくる。
「あれがコテージだよ。レンタル棟。」
靖之の左手の指はその光を指していた。なんだかずいぶん長い時間に感じたが、ICからここまでの距離は約2km。雪の上り坂を考慮しても五分も経っていないだろう。
「今日はオーナー来てるな。」
駐車車両を見て、史也がうれしそうに言った。
マフラーがいい音をたてて敷地内に入って行くと、他に周りには何もない雪の中にたたずむレンタル棟がまぶしい。入口には年のころ三十手前といった痩せた男が立ってこちらを見ていた。
「うぃー、さむいさむい。」
などと言いながら二人とも慣れた様子でその男の方へ向かう。全く勝手がわからずそのままあとについていくと、
「おつかれさん。早かったねえ。」
とその男が人懐っこい表情でこちらをうかがった。
「ああ、これが飲み友の和人。岳野さんと同じ名前だよ。」
靖之は言うと藤沢に向かって、
「岳野さんもカズトっていうんだよ。漢字は違うけどね。」
と続けた。後で聞いたところによると、この岳野さんは岳野一利でタケノカズトという名らしい。
「おー、同じですか。藤沢和人です。」
と藤沢はその人の好さそうな岳野さんの笑顔に少し安心して自己紹介した。
「管理人の岳野です。よろしくです。」
ラグラン袖のトレーナーの腕をまくった手を差し出して握手したその手は細いながらもなかなかに男らしい手で、岳野さんの人柄もその手から伝わってくるようだ。
「あっはっは、はじめまして。諸星です。」
快活な笑い声とともにちょっと往年の日活スターのような長身の紳士が落ち着いた色合いのネルシャツにベージュのチノパンといった出で立ちで迎えてくれた。
「こちらがここのオーナーだよ。」
靖之がなんとなく自慢そうに言うのが少しおかしかったが、諸星オーナーはこんな山の中にいる感じではなく、俳優で言うと若いころの二谷英明が豪快さを増したような雰囲気で只者ではない感じのオーラが伝わってきた。
「今ね、一利くんと飲んでたんだよ。ま、一利くんは飲めないんだけどね。あっはっは。」
なるほど、噂通りの豪快さだ。
「ま、ま、座って。いい酒開けたから。」
と促されるままにレンタル棟の応接スペースらしきところに座らせてもらった。藤沢は入口を背に右隣に靖之。その右にこちらを向いて諸星オーナー。正面に史也。藤沢の左には業務用の大きなストーブがあって部屋は長袖一枚でも十分温かい。その奥には小さいながらもテレビも備え付けてある。圧巻なのが藤沢の後ろに所狭しと並べてあるレンタル品である。スキー・スノーボード・ブーツ・ストック・ウェアなどが整然と並んでいる様はなかなかに見ごたえがある。
岳野さんはどうしたかと後ろを向くと、レンタルの受付カウンターでお茶を飲んでいる。少し追い出してしまった格好になったかと申し訳なく思っていると、それを感じたか否か諸星オーナーが、
「ま、とりあえず一杯。」
と酒を勧めてくれる。
「一利くん、てっぽう漬けがあったろう。それ切ってくれ。」
と告げると岳野さんは手際よく冷蔵庫から漬物を取り出し、我々のつまみのために切って出してくれた。どうやら瓜の中に唐辛子を入れてたまり醤油に漬けたもののようで、これは酒を旨く飲ませるつまみだ。辛いのが苦手な史也は、
「辛い。でも旨い。」
と辛さに顔をゆがめながらも、その手が止まる様子はない。諸星オーナーが勧めてくれた酒は地元群馬の銘酒という。誉国光という名のその酒は、厚みのある旨味が酒好きをうならせるには十分なようだ。
「これはオーナーの家で漬けたものですか?」
靖之はたくあんの切れ端を口に入れると言った。
「そうそう、これはうちで漬けたものだよ。あっはっは。てっぽう漬けは違うけどね。」
「オーナーの家の漬物うまいんだよなあ。」
少し一味唐辛子と醤油をかけてあるたくあんを酒で流し込むと、靖之は、
「ここいいだろ?」
と少しだけアルコールで顔を赤くして藤沢に言った。
確かにいい環境だ。諸星オーナーはもちろん岳野さんも人柄がいい。外は雪だというのに温かいストーブを囲んでの旨い酒はとても楽しい。史也や靖之が定宿にするのもとても良くわかる。史也も上機嫌で言う。
「オーナーはりんご園のオーナーでりんごはもちろん、ジュースやジャムとか手広くやってるんだよ。」
「ま、そんな話はいいから。」
笑いながら諸星オーナーは史也の杯を満たす。杯といえども湯呑茶碗なのでなみなみと注がれるとかなり飲みごたえがある。
「しかもオーナーはスキーの指導員の資格も持ってるんだよ。」
靖之も続けるが、諸星オーナーはただ笑いながら、
「まあまあ、ぐっとあけちゃって。」
と酒を勧めてくれる。それにしてもこの諸星オーナーは酒が強そうだ。我々が到着する前から飲んでいるはずだが、朗らかながらもいささかも酔った素振りはない。噂通り、いや噂以上の酒豪のようだ。
藤沢も楽しくて仕方がない。史也や靖之は旧知の仲であるが、はじめて訪れた藤沢までもこのように歓待してくれる。しかもよく考えたらまだ荷物も車から降ろしていない。まあ、今日は細かいことは考えずに楽しく酔ってしまおうと思い、酒の注がれた湯呑茶碗に手を伸ばした。
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