夜明けの空

空見ゐか

夜明けの空

 肌を裂くような十一月の風が、眼下の木々をかさかさと揺らす。枯れた葉は屋上にも舞い込み、灰色のコンクリートを淡く色付けていた。


「はくしゅん」


 空がくしゃみをした。……変な比喩ではなくて、空は私の友達だ。


「大丈夫?」


 同じく友達の柚が、心配そうに空の顔を覗き込む。


「大丈夫だよ」

「風邪ひいたんじゃない? 身体も震えてるよ……」


 柚の言葉に、空は少しだけ俯いて、そして「ふふ」と笑みを溢した。


「ほんとに、大丈夫だから」


 風が当たらない塔屋の影で、私たちは腰を落とす。今日の昼ごはんは、コンビニで買った菓子パンと、野菜ジュース。柚はお弁当で、空は何も食べていない。

 退屈そうに私たちの食事風景を眺めていた空が、突然何かを思い出したかのように問いかけてきた。


「茜さあ、前から思ってたんだけど、野菜ジュース飲むくらいなら普通の野菜食べたほうがいいでしょ」


 至極真っ当なご意見だった。たしかに、としか応えようがない。


「たしかに」

「もうちょっと健康に気をつけた方がいいよ。菓子パンも身体に良くない。たまにはおにぎりにしたら?」

「……そうだね」

「不健康だとさ、死にたいときに、死ねなくなっちゃうよ」


 冗談っぽく空が言ったけど、柚は今にも泣き出しそうな顔になった。慌てて空が「ごめんごめん」と柚を宥める。柚は私たちより一足早く十八歳になったのに、まだ一番子供みたいだ。


「健康診断は終わったの? あと、精神診断だっけ」


 私が問うと、空は「昨日ね」と、柚の肩を撫でながら応えた。「いじめられてないですか、とか、友達との関係は良好ですか、とか、面白くない質問に応えただけ」


「心身ともに健康じゃないと死ねません、って、皮肉な話だ」


 国の法律で、十八歳以上の国民は、安楽死の権利を自由に行使できるが、それは心身ともに健康であることが条件となっている。純粋に『死にたい』と思う他に、死の理由があってはならないわけだ。

 例えば、いじめられているから、という理由では、死ぬことはできない。その背後に、いじめられていなければ生き続けたい、という可能性がある以上、死の権利は行使できない。


「菓子パン依存症の茜は一生死ねないじゃん、よかったね」

「空が死ぬんだったら、私もちょっと死にたいかも」


「……やだぁ、茜も死ぬなんて……やだよそんなのー……」ついに柚は号泣した。今回は私にも非がある。「冗談。私は死なないよ。ごめんね」柚の弁当のご飯は涙で濡れていた。流石に申し訳なく思う。


 柚はブレザーの袖で涙を拭き、真剣な顔つきで言う。


「これ、茜が食べて」

「……え?」


 戸惑う私の、まだ半分も食べていない菓子パン(小さなメロンパン)を取り上げて、柚は自分の弁当を私に差し出した。


「これは私が食べる」

「急にどうしたの?」

「茜が菓子パン依存症で死なないように、これは私が食べるの」


 泣きながら菓子パンにかぶりつく柚。それを横目で見ながら、空は面白そうに笑っている。


「こりゃあ、なかなか死ねないね、茜」

「ほんと、まったくだよ」


 口に入れたご飯は少し塩辛い。涙の味だろうか。自分の涙かもしれない。


「心配しないで、茜、柚」


 空が笑う。「私はずっと柚のそばにいるでしょ? それに、夜明けの空は、もうすぐそこだよ!」


 真昼の屋上で、空は高らかに、世界に宣言した。


 



 ✳︎





 私はまた、屋上にいた。

 今度は一人だ。茜色だった空がもうすっかりと闇に満ち、星々が輝き始める頃、私は死について考えていた。


 五十年前、死後の世界が観測された。


 それは肉体を失った意識が集う、人間の観測できない領域。この世界はいくつもの層がミルフィーユのように重なってできていて、私たちが五感で認識できるのは、そのうちの最も浅い層でしかない……というのが科学者たちの見解だ。物体を第一層目の存在であるとすれば、意識は第三だか四だかの存在らしい。ともあれ、死んだ後も、意識は別の層で存続するのだ。

 まだ死後の世界を目に見える形で観測するに至ってはないが、そこは安寧と幸福で満ちているらしい。肉体というしがらみを捨てた意識は、やがて一つの存在に収束し、その後再び個々の存在に別れて肉体を持つ。理論的に算出された意識の欠片の総数が、いま地球上に存在する生命の総数とほぼ同数であり、その時間変化もほぼ等しかったために、この循環は証明されたと、論文には書かれている。この発見が世に発表された途端、世界は大きく変わった。


「多くの人は、人間……いや、全ての生命を死の恐怖から解放する素晴らしい発見だと思ったでしょう。死は神から与えられた罰ではなく、ただの中間点に過ぎなかったのだから」空の言葉が、私の脳裏に過ぎる。「けど、死という最終的な到達点を失った私たちは、何によって生きる意味を見出せるのだろう。死があるからこそ、生が定義される。死がなければ、冗長な生だけが残る」


 空の長い黒髪が、ふわりふわりと虚空で揺れる。まるで髪自体が生きて呼吸しているかのように、自然で、美しかった。


「生きる理由を失い迷える子羊となった私たち。そんな哀れな存在に与えられた新たな救済が、『生存選択の権利』。つまり、生きる理由がなければ、死ねばいい。死ねば、確実に、誰であっても、平等に、幸福になれるのだから。迷いながら生きるくらいであれば、理由なく生きるくらいであれば、死ね、死んじゃえ、さっさと死ねっ」


 実際、五十年前は、著しい人口増加が国際的な問題となっていた。だから、死後の世界の発見は、政府にとって都合のいい口実となった。まず、七十歳以上の高齢者に対して『生存選択の権利』は与えられた。『誰かに迷惑をかけるくらいなら、幸せな場所にお引越ししましょう』次に、全ての国民に与えられた。『あなたはどうして生きているのですか? 生きる理由がないのに、どうして生きているのですか?』『生存選択の権利』を行使した人の家庭には、遺族手当が与えられた。


「私の弟が優秀でね、科学者になりたいんだって」空の言葉。「だから、お金が必要なの」




 ピピピピピーーー




 スマホのアラームが鳴って、空の幻影は消えた。時刻は午後五時四十五分。


「肩が、痛い」


 なんとなく、一人で呟いた。肩は本当に痛い。空は鞄に何を詰め込んでいたのだろう? 彼女の好きな、殺人小説? もっと重いものだろうか。


 東の空に薄っすらと満月が見える。夜明けは近い。





 ✳︎





 屋上。午後六時ちょうど。

 キーンコーン、カーンコーン。

 下校時刻が過ぎたことを知られるチャイムの音……。


 ガシャン!!


 硝子が砕けたような破裂音が、虚空に響いた。

 次いで、つんざくような悲鳴。

 今、立っている場所の真下から、それらの音は聞こえた。


 この校舎は『L』の形をしていて、校庭の南側と東側を囲むように建てられている。東側の校舎の屋上からフェンス越しに下を覗き込むが、暗く、さらに木の葉が邪魔をして、地面まで視界が届かなかった。校庭がある方を正面だとすると、校舎の背面には木々が立ち並んでいて、電灯などの光源は一切ない。教室から洩れる淡い光だけでは、下の様子は分からなかった。


 駆け足で塔屋に戻る。

 スマホを見る。

 午後六時四分。


 階段を降り三階に着くと、廊下の先で、複数の人影が見えた。彼らのうち一人は国語の教師である田辺先生で、廊下の突き当たりにある音楽室のドアを叩きながら何か叫んでいる。

 残りの約十人は生徒で、そのうちの一人は泣きじゃくりながら廊下の端に蹲っている。三人ほどが彼に寄り添うように座って、話を聞いているみたいだ。


 私も他の生徒たちと同じように、泣いている彼に駆け寄る。顔を知らないから、おそらく違うクラスの生徒だろう。


「何があったの?」


 私とともに駆け寄った生徒の誰かが訊くと、その場にいた人物の一人、八代凛が、状況を説明してくれた。


「音楽室の中で、誰かが死んだみたい」


「死んだ……?」「誰が!?」「どうして……」さまざまな疑問が飛び交う中、それらを制しつつ凛は言葉を継ぐ。


「さっき、この奥でガシャンって音がしたでしょ? そのとき、この子がちょうど音楽室の中を見ていたらしいの。部屋の電気は消えていたのに、女の子が一人、ピアノの上に座っていた。それで、声をかけようか、それとも誰かに話そうか、迷っていたら、部屋から突然ガシャンって音がした。慌ててもう一度、部屋を覗き込んだら、少女の首がなくなっていた。そうだよね?」


 凛の問いかけに、彼は「……ああ」と弱々しく肯いた。


「俺は、部活が終わって、それからロッカーに問題集を忘れてたことに気付いて、それで教室に戻ってきたんだ。そしたら、さっき彼女が言ったように、女の子が、真っ暗な音楽室で、多分ピアノの上に座ってた。暗くて誰だか分からなかったけど、制服とか、髪の毛で女の子って分かった。おかしいと思ったけど、じろじろと見つめるのも変だし、ちょっと怖かったから、どうしようかと思ってたら、急に音がして。それで、もう一回部屋を見に行ったら、女の子の頭がなくなってて、胴体だけがピアノに座ってた。俺は怖くて、でも身体が固まって、動けなくて……。そしたら、目があったんだ、その女の子と」


「……目があった? 頭がなくなっていたのに?」


 誰かの言葉に彼は肯いた。


「幻だったのかもしれないけど……でも、見たんだ。一瞬だけど、が、俺を見ていたんだ……」


 話し終えると、彼はまた泣き始めた。これ以上、質問を重ねるのは酷だろう。周囲の生徒たちも、彼や田辺先生の様子から、何か異常な雰囲気を察したみたいだ。


「おい、お前たち! ここに集まるな!」


 さっきまで音楽室のドアと格闘していた田辺先生が、群がる私たちの元に駆け寄ってきた。いつも生徒たちを萎縮させている図太い声が、今日は見る影もなく震えている。


「いいか、今から俺と一緒に職員室に来い! 保護者に連絡して、学校まで迎えに来てもらう。携帯持ってるやつは今から親に連絡しろ。迎えがない生徒は、先生たちが家に届ける。絶対に俺から離れるな! あと、音楽室の中は見るな。絶対にだ」


「音楽室で何があったのですか?」


 生徒の一人が田辺先生に訊くが、黙殺された。

 私たちは先生の後に続いて、階段を下る。


「ねえ、茜」


 その途中、凛が小声で話しかけてきた。

 彼女は私と同じクラスで、その名前の通り凛とした性格だ。クラスのリーダー的な存在で、吹奏楽部でも、引退するまでは部長だった。


「私、ちょっとだけ見たんだ」

「……部屋を?」

「うん……。ちゃんと見たわけじゃないけど、でも……どうしても、気になって」


 凛は一つ一つ噛み締めるように、言葉を紡ぐ。


「実は……今日ね、音楽室で、後輩の子たちのコーチをしてたの。それで、いつも通り五時三十分に練習が終わって、部屋の戸締りをして、鍵を職員室に返しに行くとき、空に会って……」

「……空?」

「うん」


 凛は苦しそうに肯いた。

 彼女はクラスのみんなと仲が良くて、もちろん私と空と柚の仲良しグループとも、時間が合えば一緒に帰るくらい、仲が良かった。


「空がね、自分も職員室に鍵を返しに行くところだから、ついでに音楽室の鍵も返すよって、言ってくれたから。私、後輩たちを待たせてるし、空に鍵を渡して、それで……」

「空はどうしたの?」

「……分からないよ」懺悔するように、何かに縋るように、凛は自分の胸を押さえる。「でも、私、見たの。彼が言ってた、胴体だけの女の子。私……私にはどうしても、それが…………」


 凛が伝えようとしていることが分かった。

 凛は部活の後、音楽室のドアに鍵をかけた。その鍵を、空に渡した。……ということは、ごく単純に考えて、部活が終わった午後五時三十分以降、音楽室に這入ることができたのは、ただ一人しかいない。


 空だ。

 音楽室の屍体は、空だった。


「ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……」


 凛の大きな瞳から涙が溢れ出す。「私があのとき、自分で鍵を返しに行っていたら……。ああ……、許して、空」


 凛を慰める言葉を考えるけど、何も思い浮かばない。「凛のせいじゃないよ」かろうじて喉から絞り出したそれは、凛の嗚咽にかき消されて、届かなかった。


「死は救いなんだよね……茜?」


 凛は最後にそう言って、それから壊れたように喋らなくなった。


『今、学校に残っている生徒は、直ちに、職員室前に来なさい、繰り返します、今、……』


 校内アナウンスが殷々と鳴り響く。

 一階に着くと、廊下の向こうから柚が私の元に駆け寄ってきた。柚は二つの鞄を持っていて、一つは肩にかけ、もう一つは大事そうに胸に抱えている。


「ねえ、何があったの?」


 柚の質問に、私はただ顔を俯けた。





 ✳︎





 三日間の臨時休校と共に、保護者に対する説明会が開かれた。


 『水無瀬みなせそらさんが音楽室で自殺しました』


 出席した私の母によると、学校からの説明はそれだけで、後の小一時間は騒ぎに対する謝罪の言葉がつらつらと述べられたらしい。要約すると、


『たかが自殺で大騒ぎしてしまい申し訳なかったです』


 ということだ。


 死後の世界が初めて観測されて以降、自殺者の数は指数関数的に増加し、今では一日に数万もの人間が、世界のどこかで自ら命を絶っている。日本においてもそれは同様で、どこの市町村でも、毎日のように人が自殺する。世界の裏側で幼い子供が餓死しても、悲しくもなんともないように、例え顔見知りの誰かが自殺したところで、私たちはほとんど何も感じなかった。『向こうに行ったんだな』と、少し感慨深くなる程度だろうか。むしろ世間では、つまらない芸能人の不倫だとか政治家の賄賂だとかの方が、よっぽど深刻な問題として認識されている。


 死とは、幸せな場所に飛び立つこと。


 小学校のとき、道徳の時間で習った台詞。

 最近では、『死』を別の言葉に置き換えた方が良いという意見もある。『障害者』が『障がい者』に変わったように、『死』も、『出発』や『旅立ち』、あるいは『回帰』や『祝福』などと言い換えられるのかもしれない。


「アメリカのアッタマ・イイー・ユニバーシティの歴史的な発見以降、殺人事件の数は劇的に減少しました。理由を説明できる人?」


 社会担当の南先生が訊くと、三人の生徒が手を上げた。そのうちの一人が先生に名前を呼ばれ、説明し始める。


「死がまだ恐怖の対象であった五十年前までは、人を殺すことは、その人に対する憎しみの、最も強力で効果的な表現方法でした。殺人とは、人間の存在そのものを消し去る行為であったからです。しかし、死後の世界が観測され、そこが安寧で幸福な場所であると判明した現代では、殺人は『相手に幸福をもたらす行為』へと成り下がってしまいました。『死は幸せな場所に飛び立つこと』であるからです。現代の犯罪は、憎しみの表現方法としての価値を失った殺人から、生きている人間に苦痛を与えるための強姦や強盗へとシフトしているのではないでしょうか」

「いい答案だね」


 南先生はぽんぽんと拍手する。「現代社会では、殺人罪よりも、強姦や強盗罪の方が、より重い罪であると判断される。柳くんの言ってくれた通り、生きている人間に対する苦痛が最も重罪であるからだよ。殺して、死んでしまえば、それはもはや幸福を与えたことになってしまうからね」


 授業は淡々と進んでいき、教科書のページが一斉に捲られる。

 ふと、空を見る。空はいなかった。空の座席はもうなくなっていた。空の後ろに座っていた百瀬さんが、それ以降の座席の人と一緒に一つずつ前に詰めて、人一人分の空白は容易く埋められていた。


「ですが、同時に新しい問題が生じました。殺人事件の被害者が減った一方で、自殺者の数が急激に増加したのです。……ご存知の通り、先日、この学校でも、私たちの仲間であった水無瀬空さんが自殺しました」南先生は穏やかな口調で言った。「しかし、私は思うのです……これは本当に痛ましいことなのでしょうか? 近年の素晴らしい発見により、死はもはや死ではなくなりました。死は、永遠に続く人生の、一つの通過点となりました。水無瀬さんは死んだ? いいえ、これは死ではありません。水無瀬さんは死んでなんかいません。これは、旅立ちであり、祝福です。彼女は、私たちより一足早く、大いなる幸福を手に……?」


 南先生の演説が、空虚な教室に響き渡る。けど……それは壊れたラジオのように、突然止まった。


 天井にまっすぐ、手を伸ばしている生徒がいたからだ。凛だった。


「……八代さん、何か質問ですか?」


「はい」凛は立ち上がる。「話を遮ってしまって、すいません……。私、その、ずっと考えていたのですが……」


「なんですか?」話を中断されたことが不快なのか、南先生は苛立ちを隠しきれない口調で凛を急かした。


「空の死は、本当に自殺だったのですか?」

「…………は?」


 目を見開き、呆れた声色で聞き返す南先生。「そのように、学校から説明があったはずでは?」


 先生の言葉を無視して、凛は話し始める。


「私は空と友達だったので知ってますけど、空は十八歳の誕生日に『生存選択の権利』で死ぬことを決めていました。それなのに、誕生日の前夜に、空は学校で自殺した……。おかしくないですか? 空はなぜ、わざわざ学校で死ぬことを選んだのでしょうか。次の日を待っていれば、空の家族は政府から遺族手当を受け取ることができたのに」

「……どうしても早く死にたかったのではないですかね? 政府によって殺されるのではなく、自分の手で、自分の命を終えたかったのかもしれませんよ」


「もう一つあります」凛は自分に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。「これは公にされていないみたいですが、私が空の屍体を見た時、空の首は切断されていました。自殺をするのに、わざわざ自分の首を切断する人がいますか? また、それはどうやったら可能なのでしょうか? ノコギリを使ったとしても、普通なら首を最後まで切断する前に、出血で死んでしまうと思うのですが」


「それは……」


 戸惑う南先生に、クラスの副委員長である上条くんが追い討ちをかける。


「凛と一緒で、空のことは俺も不思議に思ってました。職員室で先生たちが話していたのをちょっと盗み聞きしたのですが、切断された空の頭は、まだ見つかっていないみたいですね」上条くんの告白に、教室がざわつき始める。「仮に空が自分の首を切って自殺したのなら、胴体の近くに生首が落ちてないとおかしいでしょ? それがないってことは、音楽室の中にいた別の誰かが、空の首を教室の外に待ち去ったとしか考えられない。常識で考えて、そいつが空を殺したってことになりますよね?」


「君たちは何を言っている!」南先生は怒号を上げる。「いいですか、水無瀬さんは自殺したのです! ……これは本来、君たちに教えるべきではないですが、水無瀬さんの屍体が見つかった時、音楽室のドアには鍵がかかっていました。その鍵はどこにあったと思います? 屍体が身にまとっていた、ブレザーのポケットです! これがどういう意味だか分かりますか? あの時、音楽室に這入ることができたのは、水無瀬さんただ一人ということです。仮に上条くんの言う通り、水無瀬さんを殺し、その首を持ち去った人物がいたとしましょう。その誰かは、いかにして音楽室の外に出たのでしょうか? あるいは、どうやって部屋の外側から、鍵を使わずにドアを施錠できたのでしょうか?」


 不可能だ。私も南先生と同感だった。

 そもそも、音楽室の鍵に合鍵があるとは思えないし、例えあったとしても、ドアを出てすぐそこの廊下には、忘れ物を取りに来ていた早乙女くんがいた。彼に気づかれずに、空の頭を持ち去って音楽室を後にできたとは考えられない。

 では、窓からは……? いや、それもだめだ。音楽室は三階の東側にある。暗闇の中、校舎の壁を伝いながら二階や屋上に移動できたとは考えにくい。


「でも、自殺だったら、頭はどうなるんですか!? 生首に羽でも生えて、自分でどっかに飛んでいったとでも言うんですか? それとも、本当はまだ何か隠してるんじゃないですか?」

「黙りなさい! 私は何も隠してなどいない! 水無瀬空は死んだんだ……。幸福な世界に旅立った。それで、この話は終わりです」


 他殺であるとすれば犯人の存在が否定されて、自殺であるとすれば消えた首の存在が否定される。


「空……どうして、死んだの?」


 凛は嘆いた。

 教室にカオスが満ちる。誰もが、空の死を認め、混乱し、恐怖は伝染した。感じたことのない、あるいは忘却していた、絶対的で不可避の存在……。




 死が、ここに舞い戻った。





 ✳︎





「姉は殺人小説を崇拝していました。ミステリ、と、姉は呼んでいましたが」


 放課後。

 私と柚の携帯に、空のメールアドレスからメッセージが届いた。『音楽室に来てください』件名はなかった。

 立ち入り禁止のテープを潜って中に這入ると、黒いロングコートを羽織った青年が割れた窓の側に佇んでいた。「水無瀬りく、名探偵です。水無瀬空は僕の姉でした」青年は名乗った。


「君は何を知っているの?」


 私が問うと、陸は「エヴリスィン」と応えた。「……ああ、失礼。ご存知かどうかは知りませんが、本来ならば、私はアメリカのアッタマ・イイー・ユニシティに留学中でして、……ああ、もちろん飛び級ですよ。それで、ちょっと英語が出ちゃうのです、無意識に」


 照れ隠しなのか、陸は空に似た綺麗な黒髪を指で撫でていた。


「姉が自殺したと聞いたので、急遽日本に駆けつけてきたのです。いろいろと面倒な処理を終えて、やっとこさでここに来ることができました」

「……それで、陸くんはなんで私たちをここに呼んだの?」


 柚が訊くと、陸は演技っぽくニヤリと笑った。


「明らかにするためです。姉は、自らがミステリになることを望みました。そして、ミステリとは、謎の提示に次いで、その解決が不可欠です。僕は探偵役として、姉の死の謎を明らかにします。ああ、なんて姉想いの弟なのでしょうか」


 ミステリ。推理小説とも呼ばれていたが、どちらも現代においては死語である。

 死が死ではなくなり、単なる『意識の移動』と化した今、必然的にミステリの存在価値は失われた。誰も死に対して興味を持たなくなったのだ。恐怖も魅力も神秘性もない、砂浜の砂のように、死はありふれたものとなってしまった。


「フーダニット、ハウダニット、ワイダニット、それぞれを明らかにすることで、姉の死は解決されます。ただ、冗長に語るつもりはありません。僕の研究は佳境を迎えていまして、今すぐにでもアメリカにゲットゥ・バェァッ(get back)したいのが本音です。手短に話しましょう」


 陸は細くしなやかな指を、ぴんと天井に向けた。


「まず、フーダニットから。姉は自殺しました。先輩たち二人は、姉の自殺に協力しました。以上です。異論はありますか」


 私と柚は黙っていた。陸は満足げに肯いて、言葉を継ぐ。


「では、次はハウダニットです。先輩たちは『首なしゥラァイディア(ライダー)』をご存知ですか?」


「知ってるよ」柚が応えた。「道路にピアノ線が張られていて、そこにバイクでつっこんだライダーの首がはねられた。けれど、首を失ったライダーは走り続け、夜な夜な自分の首を探してバイクで彷徨い続ける、っていう都市伝説でしょ」


「ええ。よくご存知ですね。実は、僕は姉も『首なしゥラァイディアー(ライダー)』と同じように、ピアノ線を利用して首を切断したのだと考えています」


 陸は窓辺から数歩だけ進み、血で汚れたグランドピアノの屋根に腰を落とす。


「ここで姉は死にました。さて、床をご覧ください。ピアノの、脚のところです」


 言われた通り、しゃがみ込んでピアノの脚と床の設置面を見る。木目調のフローリングに、擦れたような跡が残っていた。それは三本の脚から、全て同じ方向に伸びている。


「フローリングの傷は、窓に向かって伸びていますね。また、ピアノの脚と胴体の境目にも、傷が残っていました」


 次に、陸はピアノから離れ、再び割れた窓に目を向けた。


「先生たちの話によると、ドアを壊して音楽室に這入ったとき、窓の鍵はすべて施錠されていたそうです。ご覧の通り、窓硝子は破られていますが……その破片は、窓に外に飛び散り、部屋の内側には、窓の破片はありません」

「窓を割った何かは、教室の外側から中に這入ってきたのではなく、内側から外に飛び出した。そういうことだよね」


 私の言葉に、陸は「はい」と肯いた。「加えて、もう一点。窓からピアノまでの距離は、僕の歩幅で三歩程度……約、二・三メートルでしょうか」


 実際にグランドピアノと窓との間を何度か行き来しながら、陸は呟いた。


「『首なしゥラァイディアー(ライダー)』で例えると、ゥゥラァイディアー(ライダー)は姉で、バイクはこのピアノでしょうね。姉の生首はここから窓の外に吹っ飛んだ。ライ・カ・ゥロケットゥ、ですね、ハハ」

「何がおもしろいの?」

「別に」不自然なほど端正なその顔から笑みが消えた。「ここで確認すべきものは、もうありません。屋上に行きましょう」



 屋上に上がると、陸は東側の校舎の、ちょうど音楽室の真上にあたる場所に向かった。


「ゼェァッゥ・ヒィァァ(That’s here)」


 そこは、空が死んだあの夕方、私が立っていた場所だった。


「見てください、フェンスに跡が残っています」


 陸が指さしたのは、フェンスの地面に近い箇所だった。十字の部分がやや歪んでいて、擦れたような傷がついている。


「さて、大変長らくお待たせしました。ハウダニットをご説明いたしましょう」妙に改まった口調で、陸は喋り始めた。「まず、先輩のうち一人が、屋上のフェンスにピアノ線の端を巻き付け、三階の音楽室に向かってもう一方の端を垂らします。フェンスのこの場所からピアノ線を垂らすと、下にはちょうど音楽室の窓があります」


 空が死んだとき、窓が割れる音は真下から聞こえてきた。


「次に、姉は音楽室の窓から身を乗り出して、屋上から垂らされたピアノ線をキャッチします。その後、ピアノ線を挟んだ状態で窓を施錠し、あらかじめ用意しておいたロープで自分の身体をグランドピアノに縛り、固定します。さらに、首にピアノ線を巻き付け、加えて髪の毛をピアノ線に結びつけることで、頭とピアノ線が離れないようにします。あとは、ピアノ線の端に重りの入った鞄をくくりつけ、鞄を窓に向かって放り投げるだけです。十分な重さの鞄が準備できれば、ピアノ線が窓の外に引っ張られる力によって、あの細い首ならいとも容易く切断されるでしょう」


 あの日、私は非力な空の代わりに、空の鞄を三階まで運んだ。とても重くて、肩が痛くなったのを覚えている。


「ピアノから窓の距離は二メートルちょいです、さすがの姉でも全力で投げればどうにかなるでしょう。切断された首は、ピアノ線に結びつけられた髪に引っ張られ、割れた窓の外に飛び出した」


 忘れ物を取りに来た早乙女くんが目撃したのは、ピアノ線に巻きついた空の生首だった。しかし、電灯のない校舎の東側では、暗くてピアノ線が見えなかったため、生首だけが宙に浮いているように見えた。


「あとは、屋上にいた人がニッパーか何かでピアノ線を切断し、もう一人が地上で、落ちてきた姉の生首と鞄、それからピアノ線を回収すれば、一応の証拠は隠滅できます。もちろん、それなりに時間のかかる作業でしょうし、誰かに目撃されてしまうリスクがないわけではありません。しかし、姉が死んだ瞬間、窓が割れたことにより、人々の注目は三階の音楽室に集中しました。誰にも気づかれずに屋上を後にし、三階の群衆に溶け込むことは、そう難しくなかったと思います」


 陸の推理に間違いはなかった。

 弟は優秀だと、空は言ったっけ。たしかにその通りらしい。


「まあ、一つ、気になることがあるとすれば、姉の生首の行方ですかね。まだ見つかっていないということは、お二人のうちのどちらかが隠し持っているのだと思いますが……いかがでしょうか?」


 陸の言葉に反応して、柚は胸に抱えた鞄を両手でぎゅっと抱きしめた。「……渡さないよ」


「ああ、まあ、そうですか。姉の生首、自慰行為にでも使うのですか? 好きに活用していただいて結構ですけど、腐らないように注意するといいかもしれないですね」


『私はずっと柚のそばにいるでしょ? 』

 あの日の屋上で、空が柚に告げた言葉が蘇る。空は誰よりも優しかった。


「最後はワイダニットですが……これは先程も言った通り、ミステリオタクの姉は、ミステリになりたかったのでしょう。だから、ミステリにおいて最も象徴的なファクターである『密室』あるいは『顔のない屍体』を、自らの死に包含させた。それによって、姉の死は、他殺でも自殺でもない、人間の理解できる範疇を超えた、正体不明の謎となりました。正にそれは、五十年前の、死後の世界が発見される以前の死であり、人々が恐怖し、忌み、嘆いた、死としての価値を取り戻した死……、つまり、ミステリにおける死を、姉はこの世界に復活させたのです」


 空が言った『夜明け』とは、死が死としての意味を取り戻した世界、つまり、ミステリが復権した世界。空は、自らの死によって、ミステリを取り戻そうとしたのだ。


「……しかし、姉は僕のように、才能に恵まれていなかった」


 なんだろう?

 陸から、闇が満ちる。空が、闇に侵食されていく。

 日が沈み、夜が始まる。


「どんなに表面を取り繕っても、結局は自殺なのです。特別でもなんでもない、そこらじゅうに溢れかえって、掃いて捨てるほどある、つまらない、しょうもない、ゴミのような自殺の一つに過ぎません。姉の死で世界が何か変わりましたか? ナスィンッッ(nothing)!!! チェンンジドゥッッッ(changed)!!!」


 陸の演説は続く。


「僕は変えます、この世界をっ!!! 茜先輩、なぜ生き物は死を嫌うのでしょうか? 痛み、苦痛、それらは、我々を死から遠ざけるために、本能が我々に仕込んだセンサーです。このために、我々は生きて苦しまなくてはいけない。なぜ苦しんでまで、死を遠ざける???? ビッコーーーズッッ! それは、本能は知っているからです。死は、我々が感じ得る苦痛よりも、はるかに辛く耐え難いものであると!!」


 陸はぜえぜえと肩で息をする。


「僕はあの論文で、どうしても気に食わない箇所がありました。死は循環であるとか、その辺りはいいでしょう。しかし、科学者たちは、なぜ死後の世界が安寧で幸福であると知っているのでしょうか? 死んだこともないくせに! 僕は違うと思います。死は苦しく、耐え難く、まるで、身体一つがやっと入るようなコンクリートの箱に、永遠に、気が狂うこともできずに、ずっとずっとずうっと閉じ込められているような、救いのない、絶望的なものだと考えています。だからこそ、最初に誕生した生命は、本能で感じたのです。『生き延びなければ』と。……私は、来年、論文を発表します。ああ……空姉ちゃんの言った通りだ……夜明けは、もうすぐそこだぁ(恍惚)」










 終わり

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