第4章 春雷と夏の嵐と(1)
「お兄さま。お姉さまのお具合はいかが? お花を差し上げてくださいな」
「ああ、サラが持っていけば喜ぶだろう」
花束を抱えている妹のサラ王女を見て、王子は気軽に左腕で抱き上げ、お妃の部屋へ向かった。ライラ王妃には好感を持てないが、妹は可愛い。もうすぐ十三歳になるので、女性に変身する季節に入っているけれど、心温まる存在だ。アリサ妃は喜んで侍女に花瓶を持って来させ、彩りを考えながら花を活けた。
部屋の中では元気そうだが、体調を崩すとなかなか元に戻らないようだ。微熱がつづき、ご懐妊かと侍医が診た結果は違うとの報告で、みんなの期待ははかなく凋んだ。お妃は不安と焦りのなかで自分を責め、すぐ疲れる躰を扱いかねている。周囲の目が気になるうえに嫌な思いも味わった。
最近の舞踏会で、少し踊ったものの疲労を感じて椅子に掛けていたとき、後ろを薄紫の衣装に身を飾った女性が、「お弱い方にはご無理ですわねぇ」と聞こえよがしにつぶやいて通りすぎたのが胸に響いた。だれがだれにだれのことを言ったのかは判らないが、アリサ妃には、躰の弱い人に王太子妃の役目は務まらないと非難されたように聞こえたのだ。
社交界の貴婦人たちを紹介されたとき、高位の女性はあまり微笑など見せないものだというふうに、取り澄ましていた紫衣の婦人がいたのを思い出す。王子の言葉を守って微笑みを絶やさないように努力しているのだが。
やがて王子もお妃の様子に気づいた。
「アリサ、侍医がしばらく静養すれば良くなると言っているのだから、カリヤかセイランへ保養に行ってはどうだ? 環境の変化による神経の遣いすぎで疲れているのだろう」
「でも私が公務を果たせなくては、あなたにご迷惑をおかけしますわ。次の行事も決まっているのですから」
いろいろな行事に出られないと王子も困るのは事実だが、お妃の責任感の強さが自分を追いつめる。王子はだんだん不安になった。
何があろうと妃を護るつもりでいても、神はすべてを与えると同時に奪うこともできる。自分が三歳のときに、母が妹を死産して体調を損ね、亡くなったという話を思い出すと、心配になるのだ。妃を失ってはならない。王子は優しい心遣いを示し、夜も侍女たちに任せて自分の部屋で休むことが多くなった。妃に何と言って励ませばいいのか判らないし、抱き寄せれば自分を抑えるのがつらくなる。
部屋にいても落ち着かないときは隊士たちがいる控えの間に行く。たいていモリスとダリウスは小卓に向き合って駒を動かしているから、王子も入って勝負に興ずる。ジョウは弦楽器に夢中だ。セキトはほとんど自宅に帰らず、夜、どこかへ出かけても戻ってくるし、タクマも自分の家より居心地がいいのか、隅の寝椅子で本を読んでいることが多い。時々、少し気遣わしげな瞳を王子に向けるが何も言わず、言ってもしようがないので王子も黙っている。しかし隊士たちの間で「お妃はどんな状態なのだ?」という話が交わされるようになった。
「王子はまじめすぎる」とローベルが言う。
「ほかに誰か良い女性はいないのか?」
「無理だよ」モリスはあっさり否定する。
「ロベールのように簡単にいくものか」
「王子じゃ街の酒場にも行けないしなぁ」
「適当に遊べばいいじゃないか。あのカリタ夫人はどうだ? 評判の熟女だぞ」
「馬鹿。カリタ夫人などと言うな。熟れすぎだよ。胸くそが悪くなる」
「なぜだ?」「何かあったのか?」
「婚礼の前に王妃が差し向けたらしい。王子は断ったそうだ」ジョウはさすがに情報通だ。
「本当か?」「断られた夫人の顔が見てみたかったな」「怒ってすごい顔をして帰ったらしいよ」「しかし夫人はほんとに魅惑的な女なのか?」「どんな女か試してみたい気もするなぁ」
「夫人がロベールを相手にするとは思えないぞ」とセキトが冷ややかに断言する。
「それより王子の話だ。アニタはどうだ?」ロベールが大声を上げたとき、
「もう、いいかげんにしろ」と、静かだが苛立ちを含んだ声が響いた。
「王子自身の問題だ。我々が騒ぐことではないぞ」
「しかしタクマ、結婚して三か月といえばいちばん良いときだぜ。情愛が深まっていくときなのに、王子はほとんど毎晩、自分の部屋で休んでいるじゃないか」
「それが何だ。ロベールに関係があるのか」
「タクマには判らないだろうが、女性を知ったらつらくなるはずだよ」
タクマの瞳がきらっと謎めいて光った。
「王子が考えるだろう。王子を信頼して嫁いで来られたお妃の気持ちはどうでもいいのか?」
モリスが怒っているタクマを見つめた。
「確かにタクマの言うとおりだな」
「しかし、それはそれ、これはこれだよ」
「何だ、それは」
「マリウスは判らなくていいよ。とにかく王子がお妃を大切にされるのは良い。しかし現実問題としてだな 」
「やめろ」とタクマは遮って、怒ったまま寝椅子に戻ってしまった。あとは静かになった。
今までは競技場で汗をかき、大浴場に飛び込んで爽快な気分になれたし、駿馬を駆けさせるのも心地良く、何の不満もなかったのに、今はどんなに馬を飛ばしてもすっきりしない。心配やもどかしさで落ち着けないまま、自分の部屋に入り、本を手にした王子だが、静かな夜に瞬く灯も寂しく感じられる。お妃の体調を気遣って自分の欲求は抑えていた。そこへ微かな衣擦れの音がして、目を向けると水差しを持ったマヤが立っている。いつもは空色の制服に紅帯を締め、女剣を下げているのに、柔らかな薄桃色の衣装が美しくて別人のようだ。
「今夜はきれいだね、マヤ」と王子は他意なく声をかけた。幼い頃から知っているが、こんな姿は初めて見る。水差しを置いたマヤが少し硬い表情なのに気づき、「どうした。何か用があるのか」と訊いた。
「差し出がましいことと承知しておりますが」マヤは目を伏せながら小声で言う。
「もし私を抱いてくださるお気持ちが少しでもおありでしたら、私はいつでも王子のご意思を喜んでお受けしたいと思っております」
王子は戸惑いながらマヤを見たが、すぐに言葉が出てこない。マヤも困ったふうにうつむきながらも、つづけて言った。
「私はグラント王子を尊敬しておりますし、心から真実の愛を捧げます。ほかに何の望みもございません。決して王子を困らせるようなことは致しませんので、どうぞ安心して私を抱いてくださいませ」
王子は何となくマヤを見つめた。小さい時は仲良く遊び、泣かせてしまったこともある
マヤに親しみはあっても、情愛の対象として考えたことはない、(どういうことだ? マヤはなぜ…)疑問はあっても美しいマヤを見ていると、迷いが生じ、心が揺れはじめた。マヤなら秘密を守るだろう。しばらく黙って見ている王子に、マヤは困って、つい、あと一言を付け加えてしまった。
「王妃から、王子をお慰めするようにと命じられました。でも私は命令ではなく」
「待て、それ以上言うな」
甘い香りがただよいかけていたのに、一瞬にして冷たい風が吹き飛ばしてしまった。
「慰めるなどという言葉は大嫌いだ。私に慰めは不要だ。それに王妃の指図は絶対に受けたくない。退がってくれ」
マヤは一礼して寂しげに部屋を出て行った。
王妃の命令という言葉がなかったらどうなっていただろう。しかし王妃に自分の弱みなど見せるものか。それなら自分の意志でほかにだれかを…今まで思ってもみなかったことを考えて王子ははっとした。
(それよりアリサ、早く元気になってほしい。母のように私を置いていかないでくれ。死んでしまったら困る。どうすればいいのだ? どうすれば…)
荒れ狂いそうな思いをなだめて、母の肖像画に問いかける。何か言いたそうに見ている母。しかし何も答えてくれない。ふと(どんなときでも王子です)という一節が浮かぶ。今夜は夜鶯もいないらしい。悶々として眠れない夜が更ける。孤独な夜だ。
マヤがそっと自分の部屋に戻っていく姿を、お妃の侍女が見ていたのを王子もマヤも知らなかった。
翌日、中央宮殿へ行った王子はセイランから戻ったアマリ大臣の報告を聞いたあと、何となく雑談をした。セイランは風光明媚な保養地であり、西の国のアムランと隣接している自由で交易の盛んな都市だ。一年の半分をセイランで過ごす大臣は、その地に愛人がいるそうだが、それはともかく、粋で話しやすい。大臣はいつもと違う王子の声に気づいた。
「お妃はまだ回復なさらないのですか」
「この国の気候が適わぬのか、どうもすっきり良くならず、困っている」
「いろいろとお気遣いが多いのかもしれませんが」と大臣は少し声をひそめた。
「どなたか、お気に召す女性がおられましたら、私が密かに話をつけましょう」
「いや、戦いが無くなり緊張が薄れたせいか、自分を持て余しているだけだが…」
「いいえ。ご自身を持て余すと仰せですが、それは自然の要求ですから、お妃が回復されるまでの間、秘密に事は運べます。王子ご自身を大切にお考えください。どなたか気の合う方はいらっしゃいませんか?」
「そう都合良くいくものか? 妃への愛情に変わりはないのだが、どうにも落ち着かぬ気持だ」
「それは私も同じです。躰の中に暴れ馬を飼っているようなもので困るときがあります」
「アマリ大臣の歳になってもそういうものか」
「はい。まだ美女を見れば心が騒ぎます。いや、私のことはさて置き、若く健康な王子が耐えておられるのは見るに忍びないことです」
大臣が数人の女性の名を挙げても王子は考え込んでいる。ライアン公子が女性とうまく遊んでいるのとは対照的に、王子は狩りだ、戦いだと夢中で馬を駆けさせる快感を追ってきた。やっと王太子妃にふさわしい伴侶を得て、これから情愛が深まろうというのに病に臥せってしまうとは…しかし、誇り高く傷つきやすい王子に、安易な同情は禁物だ。
「気楽にお考えください。アムランでは王者に愛妾や寵姫がいるのは当たり前ですから私に任せてくださいませんか」
「しかし、我が国ではそのようにいかないだろう」
「秘密は守らせますから、ご安心ください」
王子は考えているのか黙ったままだ。自由に見えても大勢の視線を意識し、自分を律してきた。母の肖像が恋人だった。しかし快楽を知った今は、自分を抑えるのが難しい。
次の日、国王に呼ばれた王子は、アリサ妃をしばらくセイランで静養させるようにと促された。侍医団の進言を容れて事実上の命令だ。健康回復に専念せよ、という王子の決断にお妃もついに従った。ユリア公妃が同行し、ケイトも話し相手に行くことになった。
アマリ大臣が付き添い、馬車を連ねて発つ。王子は護衛隊士のほかにモリスとタクマをセイランまで送らせることにした。
その前夜、王子は寂しげな妃を抱き、優しく愛を交わして慰め、励ました。
「必ず早く良くなって帰ってきますわ」と、お妃は細い指をからめて王子に誓った。
「いろいろと心配ばかりかけてごめんなさい」
「気を張りつめてきたのが悪かったようだ。何もかも忘れてゆっくり静養すれば良くなる」
「マヤも連れて行って不自由ではございませんか?」とお妃は王子を見上げた。
「身の回りの世話くらいだれでも代わりにやってくれる。私のことは何も心配いらないよ」王子はあっさり答える。お妃は王子の顔を見つめてから、再び唇を求めた。
やがてお妃と大臣の一行がセイランへ行き、しばらくしてモリスとタクマが帰ってきたが、大臣からの土産だという魔術団が一緒に従いて来た。アムランで好評だという一行は、セイランにも興行に行く。勢力者や富豪が招くのだ。大臣の保証付きなので王子の心は動いた。退屈な夜の気晴らしになればいい。
早速、王族や主要な人々を招いて観覧会が催されることになった。
まず、技に磨きをかけた男たちが空中で飛び回り、様々な回転芸を見せる。互いに短剣を投げ合う機敏な動きは見事だ。そして魔術が始まり、箱に入った美女が消え、何もない箱から現れたり、数本の剣が刺された箱から出てきたりする。鏡の中に消えた踊り子が、空っぽだった樽から飛び出てびっくりさせたり妖しい美女に変わったりと早い展開で進んでいく。みんなはどんな仕掛けがあるのかと目を凝らして見つめるのだが、さっぱりわけが判らず、感嘆の声が上がった。
やがて楽の音が変わり、三人の陽気な踊り子が楽しげに舞い踊りながら、愛想良く観客に冗談を言って喜ばせる。三人が姿を消したあと、音楽はいっそう妖しい響きを帯びてきた。突然、中央に躍り出た一人の舞姫。
妖艶な魅力に満ちた花形アダの登場だ。薄衣に素肌が透けて、くびれた腰や、すらりと伸びた脚線美が目を奪う。女約のように強くしなやかな躰がうねり、魅惑にあふれた舞踊が繰り広げられていく。豊かな胸を引き立てる黄金の首飾りが妖しくゆれ、腰の動きがだんだん早くなってくる。
何という美しさだろう…王子はアダを見つめたまま目をそらすことができなくなった。美しい顔は微笑のかけらもなく、双眸を大きく見開き、唇も引き締まったままだが、何とも言えない豊かな魅力を発散している。初めて見た官能をゆさぶる蠱惑的な踊りに、王子は心臓をわし掴みにされたような息苦しさを覚えた。
奔放かつ繊細な舞い姿は、甘美に強烈に王子を誘い、いつしか森の中でしなやかに跳びはねる美しい獲物を追って、一緒に跳び回り戯れ合っているような気分にさせられてしまう。何とかして捕えたいものだ…。
踊り終えてアダがいなくなった後も、王子は夢幻の世界をただよっている思いで呆然としていた。王子は知らなかったが、数ある歌舞団や魔術団の中で最も美しく妖艶な舞姫として知られていたアダは、金と権力に物を言わせて手許に置こうとする男性たちをうまくあしらい、決して許そうとも侍ろうともせず、自由の身で魅惑的な踊りだけを披露する。
品の良い姿は一介の踊り手とは思えないが、だれもアダの生まれや経歴を知らないらしい。観客の盛んな拍手と歓声を浴びて幕が閉じると、団長が王子の前に進み出て、「お気に召しましたら幸いでございます」と自信ありげに顔を見上げた。
「思っていたより面白かった。あとでいろいろ話がしたい。あの舞姫と一緒にくるがよい」
アマリ大臣から受け取った以上のお金を受け取り、団長は宿舎に戻るとすぐにアダを呼んだ。王子がアダに関心を持ったのに気づいている。それはうれしい半面、恐ろしいことだ。強国の王子では相手が悪い。魔術団の人気に影響する。
「アダ、おまえを所望されたら断れないが、拾って育ててやった恩は覚えているな。何とかいい知恵を絞りだせ」
アダも王子の熱い視線に気づき、アムランの遊び慣れた男とはちがう純粋でひたむきな瞳に感動していたが、団長には逆らえない。
「馬鹿なふりをしますから、あとは団長の巧みな話術でごまかしてください」
髪をひっつめ、素顔に田舎くさい紅を丸くつけ、眉も長く下げて描き、だぶだぶのやぼったい服を着てアダは団長と一緒に王子の前に現れた。そんなこととは知らず、王子はあまりの格好にびっくりして急速に気持ちが凋んだ。これが本当にあの舞姫なのか? 半信半疑で話しかけても答えるのは団長ばかりで、女はもじもじと落ち着かず、話もできない。
「どうしてこの女は何も話さないのだ」
「恐れ入ります。これは馬鹿でろくに話もできません。できるのは踊って見せることだけのつまらない女でございます。はい」
王子はため息を吐きたいほどがっかりした。王子の顔を見て団長は聞かれもしないのによけいなことをあれこれと話した。
「アムランには黄金色の髪をした美女がたくさんおります。特にジュリア王女さまはとても美しい光り輝く姫君です。それはもうお見せしたいほどの美しさでございます。はい」
「そんなに美しいか。それで頭のほうはどうなのだ」
「実に賢くて機転の利く活発なお姫さまです」
「そうか…会ってみたいものだ」
巧みにすり替えた団長は、王子の関心が王女に移ったので、ほっと胸をなでおろし、アムランは自由に恋愛や快楽を愉しむ開放的な国だから、王女を呼び寄せたらきっと満足できるだろう、と王子の心を煽り立てた。
(確かジュリア王女の肖像画も来ていたはずだ)団長の魔術にかけられたのか、アダの舞い姿と王女の姿が重なって同じような錯覚に陥り、王子はジュリア王女を呼び寄せたいと思ってしまった。アダが内心どんな思いで王子を見ていたかは知らなかったが。それでも美しい舞い姿だけは王子の胸にしっかり刻み込まれた。
魔術団の一行がアムランへ帰る際は、セイランにある国境を越えていく。アマリ大臣はアダが一緒だったと報告されて首をひねった。(あの美しい舞姫でも王子のお気に召さなかったとは?)しかし、届けられた密書を呼んで合点がいった。
(アムランのジュリア王女を密かに召し連れよ)王女の肖像画を見て、その美貌に魅せられたと書かれているが、だれかに勧められなければ見るわけがない。きっと団長がアダを手放したくなくて、うまく逃げたのだと大臣は察した。
それでもジュリア王女の美貌は確かに評判だ。アムランはダイゼンに攻め込まれるのを恐れている国だから、断れるはずもない。
大臣は早速アムラン国王の許に、王子からの贈り物と少々甘い手紙を持って行った。
王子は自分では嫌っていた強大国の王子の特権を初めて行使したのだ。
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