第3章 王家の秘密
ロベールが加わってから、隊士たちの会話はずいぶん活発になり変化した。ダリウスに言わせると、品位を落とし節度を乱したということにもなる。それまではよけいな話などせず、まじめに王子の警護をしていたのだが。雑談のきっかけは或るのどかな日に馬をゆっくり進めながら、青空に浮かぶ丸くて白い雲を見たジョウが、「あの雲をちぎって食べたら美味いだろうな」と言ったことに始まる。モリスは王子の口元が緩んだのに気づいて、「私はあの雲の上でのんびり一眠りしたいよ」とつづけ、現実派のダリウスが、「すぐ消えるから落ちてしまうぞ」と夢のないことを言った。セキトも「剣で突いたらとれそうだが、手応えはないんだなあ」と冷めた言い方だったが、ロベールはせつなそうな声で、「あの白い柔らかそうな雲を抱きしめたら、さぞかし良い気分だろうな」と想像をたくましくしたのでみんなが笑いだした。ややあって王子に「タクマはどうだ」と訊かれたタクマが、
「乗れるものなら雲に乗って、いろいろな国を自由に見て回りたいと思います」と答えると、「そうだな。高い雲の上から見る地上はどんなものか興味がある」と王子は楽しそうに頷き、自由な会話がつづけられた。それから時々王子が「雲の話をするか」というのは何でも自由に話していい時間となり、後から入ったマリウスもすぐ慣れて積極的にみんなの話に加わったが、「これじゃ雲より雷の話だよ」と活発な意見やロベールの大声に恐れをなした。雷鳴が轟き、どこへ話が落ちていくのかわからないというのだ。話し終わるとみんながけろっとした顔をしているのも当を得ていると、王子は面白がった。
若者たちの会話は若い息吹にあふれ、女性の話も飛び出して、いろいろな情報が得られる楽しい時間だ。特にロベールは女性について遠慮なく語り、王子に聞かせたがる。
何人かの女性と付き合っているらしく「もててもててしょうがない」と嬉しそうに自慢し、「女性のことなら何でも任せろ」と威張ってみせる。マリウスも、「童貞など大事に抱えておくものではないよ」などとからかわれて、「私は女性を選ぶんだよ。ロベールみたいに牝豚でも女狐でもいいというわけにはいかないさ」と言い返し、「ロベールは雲を見ても女性を連想する男だからな」とセキトが加勢した。セキトに向き直ったロベールが、
「セキト、隊長が出入りしている酒場にまぎれこんでいるのを知っているぞ」とやり返してセキトをあわてさせた。若い者は出入り禁止の高級酒場へ、こっそり兄に随いて行って可愛がられているらしい。ダリウスは苦い顔をした。不潔感があって肯定できないのだ。
それでもみんなが待望していた王太子妃がやっと決まって、安心感がただよっている。周囲では王子の心変わりを恐れるように素早く準備が整えられていた。婚約が発表されても、隊士たちはまだアリサ王女がどんな女性なのか、愛情があるのか政略結婚なのかも判らず、王子の態度にも変化が見られないので、心配したロベールが、
「グラント王子、女性のことで何かわからないことがあったら、私に訊いてください」
と言ってのけて、王子を苦笑させた。しかし、ロベールの場合は苦笑で済んだが、そのうち王子を怒らせる出来事が起きた。
婚礼に向けて新しい礼服を作らせ、部屋の調度品や装飾の数々を点検し、画家に肖像画を描かせる。アリサ王女へ手紙と一緒に様々な贈り物も届けられ、すべての準備が整い、婚儀が十日ほど後に迫った或る晩。王子は珍しく王妃や公妃と晩餐を共にした。薄紫の貴婦人と呼ばれているカリタ夫人もいる。年上のカリタ公を先年亡くし、豪華な館は芸術家たちに開放され、広間ではいつもカリタ夫人が女王然とふるまっているという。なぜカリタ夫人が同席しているのかと思いながら果物を摂り、当たりさわりのない会話を交わしている間に、王妃と公妃がいなくなり、王子は夫人と二人だけになってしまった。
ほど良い美酒の酔いを感じて長椅子へ移った王子を見て、夫人はすぐ同じ長椅子に腰かけ、こぼれんばかりの媚態を示してすり寄ってきた。親しげな口調で、
「グラント王子、私が愛の手ほどきをして差し上げましょう」
と、なまめかしい視線を向ける。王子が眉をひそめたのを気にも止めず、
「少しも姫君たちとお楽しみにならなかったとか。王妃が心配してお頼みになられましたのよ。何もご心配には及びませんわ」
と馴れなれしく王子の手に指先が触れた。
「何も心配などない。いらぬおせっかいだ」
「それでもご本はご覧にならないし、女性と付き合われたこともないとか。私が成熟した女の技で、十分満足なさるようにお相手させていただきますわ」
そっと置かれている本ぐらいめくってみるさ。面白ければ読むし、つまらなければやめるだけだ、と王子は不機嫌になった。絡んでくる腕を払って立ち上がったが、無性に腹が立ってくる。(王妃は私が若いと思って馬鹿にしているのだ。こんな女に自分もアリサ王女も汚されてたまるものか、まったく嫌な女たちだ)王子は鬱憤をたたきつけた。
「二度と来るな。そのほうの嬌名は耳にしているが、私の好みではない。王妃の命令であろうと私は断る。早々に立ち去れ」
「残念ですこと。ライアン公子はとても喜んでくださいましたのに」
意外な捨て台詞に王子はよけいかっとした。
「ライアンと一緒にするな。誰が喜ぶものか。ライアンが良ければ向こうへ行け!」
だれがリドと同じ女など相手にするものか。こんな母親に近い年配の女と 。王子は大声で侍従を呼び、馬を曳かせて外へ飛び出した。高慢なカリタ夫人が、王子に拒絶された怒りをどこへ向けるかはまだ判らなかったが、悪魔の喜ぶ嫌な空気が流れたのは確かだ。
婚儀の前日、城内は儀式の準備に追われて忙しく、人々の華やいだざわめきで満ちあふれていた。しかし、当の王子は特に用事もなく、ダリウスに目配せしてこっそり城を抜け出してしまった。いつもみんなが集まる場所へ行くと、次々に隊士たちがやってくる。
「今日は護衛隊も手薄だろう。少し変わったほうへ行こう。見つからないように気をつけろ」
いちいち後を付けられて国王に報告されるのは面白くない。緑の林を抜け、また小さな森へ入って馬を止める。静かな森にうっすらと鈍い蹄の音が近づいてきた。
「やはりだれか追って来たぞ。二手に分かれよう。モリス、馬を換えて競技場のほうへ行け!捕まるな」
王子は素早くモリスの黒馬に乗り換える。地響きを立てて五騎が左へ駛り去ると、護衛隊士が二人、隠れている側を通り過ぎ、「あそこだ、栗毛の馬が見えるぞ。競技場か?」と言いながら追って行く。王子はダリウスとセキトに面白そうな顔を見せ、右側の細い道を下り、渓谷の浅瀬を渡って進む。初夏を待つ水の流れはゆるやかだ。初めての道に出てまた森に入ると、急に視野が広がって美しい庭と瀟洒な館が見えた。
(こんな処にだれが住んでいるのだろう?) ほかに人家はないので王子は首をひねったが、閑静な佇まいに惹かれて近づいていくと、馬の音で気づいたのか、品の良い中年の婦人と老人が出てきて、驚いた様子で身をかがめた。
「我々は護衛隊士だが道に迷った。どなたの館か知らぬが一休みさせて頂けるだろうか」
ダリウスが声をかけると、あわてて家の中に入った婦人とともに主人らしい痩身の男性が現れ、穏やかな顔と物腰で快く三人を迎え入れてくれた。静かな部屋に置かれた調度品は、由緒ある物らしい品格と落ち着きを見せているが、時折り聞こえる小鳥のさえずり以外は物音もせず、家族はいないようだ。婦人が運んできた飲み物と菓子を勧めながら、
「私はナルセ学長の処で大学教育に携わるエド教授と申します」と男性は自己紹介をした。
「文学や歴史を教えております。家族はなく独り暮らしですから、どうぞお気楽に」
「先ほど外で若者の姿がちらりと見えたが」と王子は目敏い。
「親友の息子たちです。二人とも学問が好きなので面倒を見ております。親友は何年か前に亡くなりましたので」
ふうんと王子は感心した。なかなかできることではないし、最高学府の教授なら信用していいだろう。ナルセ学長には何度か教えを受けている。王子は安心して寛いだ。
「学長とはお親しいのですか」ダリウスが尋ねた。
「はい。懇意にしております」という返事は同等の立場とも受け取れる。
「たくさんの絵がある。ご自分で描かれたのですか」と王子も敬意を表した。奥の間には風景画や小鳥、馬の絵などが並んでいる。
「本を読んだり絵を描いたりして、気ままに暮らしております」とエド教授は穏やかに微笑んだ。なごやかな空気が周囲を包み、居心地が良い。初めて訪れた気がしなかった。
馬の世話をしている老人の姿に気づいたセキトが外へ出たあと、見事な馬の絵に惹かれて観て回るうちに、王子は飾り棚の上にある一枚の絵に興味を覚えた。美しい女性の横顔だ。肖像画というより、ゆったり寛いでいる感じで豊かな髪は長く波打ち、衣服も部屋着らしいが趣味が良くて心温まる絵だ。どこかで会った人に思えるがどうにも思い出せない。
「この絵の婦人はどなたですか。どこかで見た覚えがあるように感じられるのですが」
王子は少し不躾かなと思いながらも訊かずにいられない。ダリウスも首をかしげた。
「どなたとも申せません。ただ私の心のなかで理想と思う婦人を描いただけですから」
エド教授は静かに答える。それ以上は訊けなかった。王子はしばらく雑談をしてから立ち上がり、「楽しいひとときを過ごせた。たまにお訪ねしても良いだろうか、名乗るのが遅れたが私はグラント王太子だ」と明かすと、教授は変わらぬ微笑を浮かべたまま、
「存じ上げております。どうぞ、いつ何時なりともご自由にお越しください」
と外へ見送りに出た。庭には満開の花々が咲き乱れ、鳥たちが空を舞う穏やかで静かな午後だ。三人の姿が消えたあとも、教授はじっと庭に佇んでいた。
(王子は十七歳か……)それは自分が十七歳だった頃を思い出しているようでもある。見上げた空色の瞳に大鳥の影が横切った。
王子たちが浅瀬を渡って戻る姿に気づいたのか呼笛が鳴り、モリスをはじめ次々と護衛隊士が集まってきた。隊長が恐い顔でセキトを睨んでから、「お急ぎください。皆さまお待ちかねです」と急かし、前後左右を護って王宮へ誘導する。王子から見れば包囲されているようだが、婚儀の前日に花婿がいなくなっては困るし、事故が起きても大変だ。もう薄暗い。灯火が明るく照らす城のなかはすっかり清められ、きれいに飾り付けも済んでいた。いつものように、広間にある母の肖像画をちらりと見てから階段を上がりかけた王子は、はっとして振り返った。ダリウスも足を止めた。一瞬、ふたりの瞳は意外な事実に気づいたが、何も口には出さず、また急いで階段を駆け上っていったのだった。
翌日は、王太子の成婚を祝うように雲ひとつない青空が広がり、王宮の神聖殿で大勢の招待客が参列し祝福するなか、厳かに儀式が進行し無事に成立した。
儀式は王宮だけでなく、中央宮殿でも公賓を招いて盛大な祝宴が三日もつづく。四頭立ての馬車が、輝く陽光のなかを軽やかに駛り、王宮と中央宮殿の間を行き来する。美々しく着飾った護衛隊士に護られて、黄金の装飾も豪華な馬車が進むと、集まった民衆が王太子妃を歓迎して称賛や祝福を送った。それはアリサ妃にとって幸福と緊張をもたらす晴れの儀式だ。宴会では賓客が多くて紹介されても覚えきれないし、新しい環境での気配りにも緊張がつづく。カザクラから馬車にゆられてきた疲労か寝不足か、体調の悪さも感じる。それでも表には疲れを見せず、優雅な物腰と微笑を絶やさないようにしていた。
王太子妃の気品と美貌を称える人々の言葉を耳にすると、王子は自分の選択が正しかったのだと改めて誇らしく、うれしさに胸を熱くしながらアリサ妃を見守っていた。その夜、王宮の居間に落ち着くと、王子はアリサ妃が疲れているのを感じ取って早めに寝室へ案内した。王子の居間からつづく広い居間はふたりで使う部屋だが、その向こうには王太子妃のために用意された幾つかの部屋があり、カザクラからついてきた侍女たちが神妙な顔で控えているので、王子はちょっと嫌な顔をした。その上、そのとき顔を上げたアガタ女官長と目が合ってしまった。王子は何気なく周囲を見てからお妃に「疲れただろう」と労わった。アリサ妃は黙って微笑み、じっと王子を見つめる。
「今夜はゆっくり休むといい。また明日も忙しくて大変だ。疲れてしまっては困る」
お妃は少し首をかしげて王子を見上げる。もの言いたげな瞳ではあるが、(ここでお休みにならないのですか)と口には出さない。王子は優しく抱き寄せて軽く口づけしたものの、傍らの侍女にお妃を任せて立ち去ってしまった。マヤがあわてて後を追ったが、王子は自分の部屋に戻り、慣れ親しんだ寝台に横たわった。仕方がないのでマヤは何も言わず部屋を出たが、何があったのだろうと不審に感じたものだ。
壁に掛かる肖像画の母が優しく見下ろしている。(アリサが疲れなければいいが…母上はアリサを喜んで迎えてくださっただろう。もうこれからずっと一緒にいられるのだ……)
夢のようにも思える。そう、急ぐことはない。先は長いのだから。ふと夜鶯の声がした。眠ろうとするとき啼き声が聞こえると、優しい夢の世界へ溶け込んでいくような快い気分を味わうのだが、急に啼き止むと静寂が広がり、現実に引き戻されて寂しくなったものだ。それは自分の存在や責任の重さを見つめ直す時でもある。今はきれいな声で啼いている。夜鶯も祝ってくれているのだと思いながら、いつか王子は夢のなかへ誘われていった。
翌日も祝賀の客に囲まれて自由にならない。この場を抜け出して青空の下を思いきり疾走したらどんなにすっきりするだろうと思っても、みんなの注目を浴びている今はじっとしているしかない。うんざりする時間を過ごし、やっと解放されて王宮に戻ると、内輪のひとときが持たれた。国王と王妃、サラ王女、ライアン公妃夫妻と息子のリド公子も同席した。円卓を飾る花々が灯りに照らされ、菓子果物がふるまわれるなか、リド公子がすでに王子夫妻は愛を交わしたと思い込んで軽口をたたいたのが、敏感に王子の胸を刺した。
「お妃はたとえ眉をひそめても凄艶な美しさだろうね」と顔を覗き込み、
「だれにも見られないお妃の濡れた瞳を見てみたいよ」と意味ありげな顔をする。母の公妃にたしなめられても羨望の目で、アリサ妃がどんな反応を示すかとじっと見ているのだ。アリサ妃は優しい表情を崩さず、しとやかに聞き流しているけれど、少しうつむきかげん。
ふだんなら親しい従兄に言い返す王子も無言で考えている。国王はまじめな顔をしているが、王妃はどんな首尾だったかと気にしている様子だ。遊び好きで知られるライアン公は王子の正面に掛け、愉快そうな顔をしながら知らぬふり。サラ王女は無邪気に果物を口に運んでいる。どこか妙な空気が流れ込む。式を挙げたからと言って、すぐ飛びつかなくてもいいじゃないか。女官長の顔が気に喰わなかったのは事実だが、しかし結果的にアリサ妃を寂しがらせたのだとしたら……きっと待っていてくれたのだ。と少し心配になった頃、「明日も忙しくて疲れるでしょうから先にお休みなさい」と王妃が促した。国王も、
「新しい生活に慣れるまでには時間がかかる。急がずゆっくりこの国になじんでいけばよい。王子を頼りにして何でも相談するように」と、隣に掛けているアリサ妃に労わりの言葉をかけた。お妃はお礼の言葉を述べてから立ち上がり、みんなに挨拶を済ませると王子の腕に手をすべり込ませる。王子も早く公子の目を避けたくて、当てつけるように妃の腰を支えて立ち去ろうとした。正面のライアン公は酒盃を高く上げて祝福の笑みを送り、公子は残念そうに見送っている。いつの間にかアリサ妃の細い腕も王子の腰に回っていた。
顔を見るとおちゃめな瞳が笑っているので王子は安心した。公子の凝視をそ知らぬ顔で受け流していたものの居心地が悪かっただろうと思いやり、一緒に部屋に入るとお妃は昨日と違ってすぐ侍女たちを退がらせ、真紅の帳を下ろしてしまった。女官長もいない。
王子は急に胸が熱くなってきた。期待のなかにちらりと不安もかすめる。こんな思いは初めてだ。お妃が着替えを手伝おうとするのを断り、先に寝台へ横になったが、お妃は衝立の陰で夜着に着替えているらしい。そっと女官長が手伝っているのか、やがて密やかな足音が消え、お妃が薄紅色のきれいな薄衣で現れた。待っている間、女性の着替えを手伝いながら首筋に口づけするだの、抱き上げて寝台に運ぶだのと、モリスやロベールが話していたのを思い出したが、何も役に立たなかった。それでもアリサ妃が傍らに寄り添って愛を込めたまなざしを向け、差し出した腕に身をあずけてきたので救われた。
「昨日はよく眠れた?」と王子は接吻を交わしてから尋ねた。
「いいえ、少しも」お妃は甘えた瞳で否定する。
「あなたがいらっしゃらないと、私、心配でとても眠れませんわ」
「どうして。何も心配する必要はないよ。ここで休まなかったのか?」
「ここはあなたと一緒に……」あとははにかんで胸に頬を寄せるアリサ妃をいとおしく抱きかかえると、柔肌が温かく、高まる鼓動が伝わってくる。なめらかな上腕は触れていて気持ちが良いし、ふくよかな胸も心を躍らせ、ほのかな香水も情感を刺激する。
王子は知らないうちに五感で感触を楽しみ、美しさを愛で、自然の要求に身を委ねた。
ロベールの詳細な解説を思い浮かべるまでもなく、健康な肉体は勝手に行動する。アリサ妃は素直というよりも積極的に王子を求め、受け容れようとした。何の心配もない。
(カリタ夫人の誘いなどに乗らなくてよかった。いや、、王妃がいけないのだ。妃と初めての愛を交わす以上の喜びがあるだろうか。王妃は何を心配していたのか、簡単なことなのに。アリサがいとしい……アリサはどう思っているだろう。何か言ったほうがいいかな。うーん、モリスがあまり早く終わっては面白くないとか言っていたが、ゆっくりしろといっても、疾走する馬だって止めようとしても止まらないぞ……)
目まぐるしく様々な思いが交錯し、やがてはじけ飛んで現実が何もなくなってしまった。天馬に乗って青空を一気に天翔けていくような爽快さだ。天空を突き抜けるとまばゆい陽光を浴びて柔らかな雲の上にただよっている快さを感じた。アリサのすべてを自分に溶け込ませてしまいたい。いとしい妃……身も心も充たされた思いに満足してアリサ妃を見ると、閉じた目許が少し濡れている。それに気づいた王子は自分のたくましい躰に比べてあまりにも華奢な妃を強く抱きしめすぎたのかと心配になった。思わず、「苦しかった?」と声をかけると、アリサ妃は別の意味にとったらしい。「いいえ」と答えて恥じらいの瞳が優しく瞬きしながら王子を見上げた。
王子が安心して眠りについても、アリサ妃は神経が高ぶっているのか、なかなか眠れなかった。このところ寝つきが悪いし、眠りも浅い。考えてみると婚約が決まってからずっとおかしい。新しい環境に早く慣れようとしていろいろ勉強したが、知りたいことも覚えたいことも多すぎる。初めての経験や変化に対応しようとする緊張がほぐれないのだ。ダイゼンや王子との生活にきっとすぐ慣れるわ、と思いながら朝を迎えてしまった。
一通りの儀式が終わった後、王子は公見の間でアリサ妃に七人の隊士たちを紹介した。隊士たちはまじめな顔をして直立不動だ。背が高くほっそりしたアリサ妃は髪を高く巻き上げていたので白い首筋がいっそう華奢に見え、優雅な微笑がみんなを魅了した。
特にロベールは高貴な姿に幻惑されたのか、地上に降り立った女神を崇めるような目でじっと見つめたままだ。賭けのことなどすっかり忘れている。
「ダリウス・アサドです」と、まずダリウスが名乗って片足を折り曲げ腰をかがめた。
「ダリウス・アサドですね」とお妃は繰り返し、細い手をゆっくり差し出して確かめる。
「グラント王子が幼い頃から一緒に学ばれてきた方。アサド宰相の後継者ですね」
お妃は前もって調べておいたらしい。白い手にそっと触れたダリウスは掌から全身に電流が奔るような衝撃を覚えた。温かい微笑みが甘い香りをともなって頬をなでる。王子は幸せな人だ、とダリウスは羨望を感じた。
「モリス・ハラドです」モリスは前日リド・ライアン公子とともに紹介されていたが、そんなことはおくびにも出さず慎ましやかだ。
「ハラド公のご長男。沈着冷静な方で剣の達人と聞いておりますわ」
「セキト・カムラです」
「カムラ将軍のご次男でハヤト隊長の弟ですね・勇猛なご一族ですこと」
セキトは誇らしげな顔をした。
「ロベール・グレエです」
「大胆で勇敢な槍の遣い手とか。面白い話もされるそうですね」
ロベールはちょっと困った顔でまばたきをした。
「ジョウ・ケインです」
「馬術の妙技を披露される方、趣味もいろいろとお持ちだそうですね」
お妃は一人ひとり自分の記憶を確かめ、顔と名前を覚えようとしているようだ。
「タクマ・アキノです」
次の瞬間、ふたりの視線が微妙に絡まり、一呼吸ずれた。それでもお妃はすぐ、
「アキノ国政大臣の後継者。華麗な剣の技を拝見したいものですわ」
と言葉をかけたが、疲れているのか声の調子が落ちている。微笑に少し無理があるように思われたが、気品があって美しい人だとタクマは王太子妃を認めた。
「マリウス・アサドです」
「ダリウスの弟ですね。剣の上達が著しいと王子が褒めておられました」
マリウスは頬をあからめた。モリスはふと、お妃はずいぶん神経を遣っていると感じて心配になった。みんなは礼節を失わぬように自制していたが、ロベールだけはお妃を凝視しつづける。視線に気づいたお妃が、はにかんだ笑顔を向けた。(そんなに見つめるものではありません)という意味が含まれているのに判らないらしい。お妃は困惑した瞳を横にずらしてダリウスの瞳をとらえ、また微笑した。困ったひとですね。と言われたようでダリウスはどぎまぎしながら目を伏せた。紹介が終わるとお妃は、
「グラント王子に忠誠を尽くしてくださって有難う。これからは私もよろしく」
と気さくに言ったが、みんなはそれぞれ自分だけに言われたかのように畏まった。王子は黙ってみんなの様子を見ていたけれど、隊士たちの心を捕らえたアリサ妃に満足した。
人知れぬ努力もあるだろうが、不思議に人の心を惹きつける女性だ。自分も知らないうちに魅了され、伴侶に決めてしまった。美貌の女性の威力はたいしたものだ。
しかし、この隊士たちが束になっても自分には勝てない。自分が許さなければ妃の指一本にも触れることはできないのだと思うと、王子は誇りと喜びに満たされた。
控えの間に戻った隊士たちは、王太子妃の感想を次々に語り合った。
「飛びっきりの美人だったじゃないか」
「蘭より気高く、薔薇よりも華やかだ」「古びた詞をひねるな」
「どうせ高嶺に咲く花だ。羨ましくても眺めるだけだな」
「しかし、あんなに神々しい女性がいるとは思わなかったよ」
「王子がすんなり決めたのも判るな。たいしたことはないかと言ったのはだれだ?」
「そうだ。ロベールみたいにじろじろ見る奴はいないぞ」
「まったく失礼な奴だ。我々の品位を落とした罪は重い。みんなに謝れ」
仲間に攻撃されたロベールはさすがに何も反論できず首をちぢめる。しばらく笑いながら見ていたモリスが、「まあそのぐらいで許してやれ」と声をかけた。
「ロベールからは三倍の賭け金を徴収する」
「いいよ、俺は五倍払う。今度は王子の第一子で勝負だ」
「懲りない奴。みんなは男児に賭けるからロベールは女児にしろ。儲かるぞ」
うーんと唸ってロベールは首をふった。男児に賭けたいらしい。
あとで賭け金を支払いながら、ロベールはモリスの顔を見てにやりとした。モリスも微笑で答える。(王子はうまい具合にいったようだな)
城内は一度や二度案内されても迷ってしまいそうに広くて複雑だ。アリサ妃は王子からいろいろと説明を受けながら見て回った。王子はいくつかの隠し扉を開けてみたり、
「このなかは秘密の通路があって中央宮殿までつづいている。地下宮殿もある」
と自慢げに教えたりしてうれしそうだ。
「いざ戦いとなって危ないときは、ここから外へ出られるのだよ」
「お使いになったことはありますの?」
「入ったことはあるが、追われて逃げたことは一度もない」
王子は面白そうに答える。ほの暗い一角に目を向けたアリサ妃が、
「あちらは時が止まっているような静けさですわね」
と、ささやいた。深閑と静まりかえっている。
「幼い頃、亡霊が出ると脅かされて近づけなかった。もっともここはだれもいないはずだ。空部屋がいくつもある。探検するなら案内しようか」
「いいえ、けっこうですわ。カザクラにも幽霊が棲んでいたようですから……」
「そうか。あの椅子はときどき曾祖母が座っているという噂だ。私は見たことがないが」
それより王位の間を見せたい、と最後に入ったのは広くて豪華な場所。王位に就くとき王冠を戴き、王位継承の儀式を行う。王族や高位高官の人しか入れない神聖な場所だ。めったに公開されず厳重に護られている。
王の椅子は三段ほど上がったところに置かれ、黄金の装飾で輝いていた。その後ろに重々しく下がる緞帳を開けて、王子はお妃を招き入れた。絢爛豪華な黄金の間がある。
「まあ、すばらしい宝石の城。柱は緑玉ですの?」
「青玉もあるだろう。黄石や紅珠、水晶もきれいだ。カザルから運んだ原石が地下にたくさんあるが私は興味がない。アリサが欲しければつくらせるよ。それよりこれはどうだ」
黄金でつくられた獅子と、翼を広げた大鷹が護る枝に、宝剣を抱いた大蛇が鎌首をもたげている。王位を護る両刃の宝剣はまばゆい光を放つ宝石で飾られ燦然と輝きを増した。
「これは王家の宝剣。即位のときに持つ剣だが、危急の際には使ってもいいことになっている。正統な者が持てば正義の神に力を与えられ、魔力を発揮するといわれているが、別名を『嵐を呼ぶ雷鳴の剣』ともいう」
「雷鳴ですか」アリサ妃は興味深げな顔で王子を見た。
「剣を取り上げて少し経つと轟音が響き渡る。その音が雷に似ているのだ。しばらくすると止まるが、その仕掛けはここにある」
王子は楽しそうに場所を教えて、詳しく説明した。
「その凄い音にはアリサも驚くだろう」
「私は決して驚きませんわ。きっと」
「そうか。それは頼もしい」
「いかなる時もあわてず、沈着不動の心を持って正しく行動せよと教えられました」
「そうだ。王者は時に応じて正確な素早い判断と決断が必要であり、皆の者に的確な指示を与えねばならぬ。動静その時を失わず、だ。王道とは光明の道を正しく進むべし。恐れてはならぬが無謀な行動を慎み、身を護ることも大事だ……うむ、いろいろ教えられた。臣下には平等に接して、信頼を勝ち得ねばならぬ、か。時には自己演出もいる。人の好き嫌いもないとは言えない。王者というものは周りが思っているほど楽なものではないな」
アリサ妃は、平気でそんなことを言って笑っている王子に親しみが増した。
「それでもその地位にある選ばれた王者は、でき得るかぎりの努力をせねばなりません」
「そういうことだよ。アリサも大変だね」
王衣や王冠、剣などを見てから、黄金色の緞帳を開けると、別の部屋に通じていた。
「この向こうは国王の居間につづく。こちらから出よう。ロイとランが待っているだろう」
謁見の間に出て二部屋ほど通り過ぎると、見覚えのある広間に出た。犬たちが目敏く見つけて走り寄ってくる。王子以外は懐かないはずなのに、お妃が首をなでると目を細める。犬には判るのか、初めから尻尾をふって歓迎したのにはみんな驚いたものだ。
獰猛な犬も認める王太子妃の座は、何の心配もないように思われた。が、新しい生活に慣れるまでにはいろいろと神経を遣うことが多い。あらかじめ国内の事情や主要な人々の名前と経歴を調べてきたアリサ妃だったけれど、王族との付き合い方をはじめ、多数の目が注がれるなかで立派に王太子妃の務めを果たそうとすれば、知らないうちに緊張して疲れを覚える。この国だけの細かいしきたりもたくさんあるのだ。
次第にお妃は選ばれた者の栄光に付随する責任の重さを感じるようになった。まじめで責任感が強く、つい完璧を望んでしまう癖が自分を追いつめる。寝つきが悪いから、睡眠時間も短くなり、したいことがたくさんあるのに躰がついていかない。
すぐ眠りにつく王子は朝早く馬を駆けさせに行くので、起きようとするお妃に、朝食の時間まで寝ているようにと言うのだが、甘えてはいけないと思ってしまう。ダイゼン王国の未来の王妃として、みんなの尊敬と信頼を得るためには、心身を削ってでも努力を惜しむまいとする、その覚悟の強さが徐々に巌よりも重くのしかかっていく。頼りにしたい王子は忙しいのか、すぐいなくなって話もあまりできないのだ。どこへ行ったのかと侍女に聞いても首をかしげているし、女官マヤに尋ねると「お出かけになりました」とそっけない。行き先を訊くと「いつも何も仰言いませんが、ご心配には及びません」と軽く答える。カザクラではだれでも行き先を告げて出かけたのに、とアリサ妃は暗闇に放り出されたような心細さと寂しさを覚えてしまう。
心配したユリア・ライアン公妃が、ナルセ学長の長女ケイトを話し相手に紹介し、同じ歳ということもあって、遠慮のないおしゃべりを楽しむようになった。内緒話も飛び出す。
「踊りのお相手をさせて頂いたことがありますの」と笑いながら王子の話がでる。
「外のほうばかりご覧になって、広い処へ行きたいという声がしましたのよ」
「無言の声ですね。踊りはあまりお好きではないのかしら」
「ですから小さな声で、どうぞお出かけくださいませと申し上げましたら、王子はちょっとびっくりした顔で微笑まれて、少しずつ隅へ寄ってさっと出ていらっしゃいましたわ。後からダリウスさまが急いで追いかけて行かれましたの」
「まあ、困ったお方だこと」
「でも馬や剣のお好きなお方ですから、部屋のなかでじっとしているのはお嫌いですもの」
「あなたは理解があるのね。私はいつも側にいてほしいと思ってしまいますのよ」
公務が忙しいのだと判っていても、姿を見ないと不安なのだ。
「あなたはお好きな方がいらっしゃるの?」
「心で想っている方はいますけれど、その方はまだ私の想いに気づいてくださいません」
「残念ね。でも、どうしてかしら」
「大事に思って尽くしているお方がいらっしゃるからかもしれません」
「王子のこと? 隊士のだれか……早くあなたの気持ちが通じて想いが叶うように、私も祈っていますわ」
ケイトは少し頬を染めたが名前は明かさなかった。お妃も恋する気持ちはよく理解できたので、それ以上聞かなかった。
ケイトが帰ったあと、アリサ妃は疲れを覚えて長椅子に寄りかかった。頭が妙に重い。早く新しい生活に慣れて、みんなから良い王太子妃だと評価されたい。そんな思いも疲れを増す。のんびりしたくても完璧主義の癖は直らず、いいかげんに済ますことができない。
一方の王子は夜明けとともに朝駆けに行き、活力あふれた顔で朝食の間に現れる。そんな王子を見ると、うれしい半面なぜか圧迫感があって息苦しく、疲れを覚える自分が萎れていく花に似て頼りなく思えてくる。会話も少なくなってしまった。
やがて王子がお妃の様子に気づき、具合が悪いのか、と尋ねたのだが、お妃は否定してがんばってしまう。疲れたとは言いたくなかった。それでも何か望みがあれば言うようにと気遣われて、お妃は演劇を見たいと頼み、希望はすぐ叶えられて度々催されることになった。見ている間は気が晴れる。王子はいつも夜の演劇には付き合い、ユリア公妃も喜んで同席するが、夫のライアン公はついぞ姿を見せない。お妃はおかしいと思った。
公妃は毎日王宮にいるし、自分の部屋もあるので泊っていることが多い。公妃夫妻の仲を心配して、王子にライアン公の噂の真偽を尋ねてみた。確かにライアン公はおしゃれで男としての魅力を十二分にそなえ、恋の噂が絶えず、だれか愛人はいるらしいけれど、暗黙のうちに秘められている。しかし、公妃がすでに夫への愛をなくしているのは事実だ。話を聞いたアリサ妃は、親しみを寄せている公妃が夫と不仲であることに心を痛めた。
「ライアン公はカライのような方ですのね」と言った意味が分からず、黙ってしまった王子の顔を見て、お妃はすぐほかの話に変えてしまったけれど、王子は気になった。書物のなかの人物らしいが、有名なものだったら恥ずかしい。妃が知らぬふりをしてくれても、夫として軽蔑されるのは嫌だ。妻には信頼とともに尊敬されなければ駄目だと思う。
王子は思い立って翌日エド教授の館を訪れ、雑談の合間にさりげなく、カライというのはどんな人物なのかと尋ねた。王子の顔を見た教授はすぐ立ち上がり、書斎から一冊の本を持ってきて王子の前に差し出した。
「お読みになってみてください。面白い戯曲です。よく演劇でやっていますが、ご覧になられたことはありませんか?」
さあ? 観ても何となく見過ごしていたのかもしれない。
「カライというのは女富豪に甘言で取り入り、結婚したあとで浪費や陰謀、女遊びなどで妻を裏切ったあげく、遂には信用を失って妻に暗殺されるのですが、外見の優しさと異なる裏の顔が冷酷で難しい役です。表と裏が違う人のことも言いましてね」
と教授は親切に説明する。そうか、と王子は納得した。温和で優しい気配りの良さから、どんなに妻を愛している誠実な夫に見せかけていても、実際は自分勝手で冷たいのだと言いたかったのだろう。しかし妻の言葉にすぐ反応できなくては情けないではないか。
「有名な演劇や書物を教えて頂きたい」と王子は頼んだ。教授は理解したらしい。早速、数冊抱えてきて簡単に説明してから、一冊を選んで話し始めた。こうして王子はお妃の好きな文学や演劇の世界に興味を持ち、足しげく森の館へ通うようになった。
そして、いろいろな話を交わすうちに、王子は徐々にエド教授が戦争を嫌悪し、クラザ将軍を快く思わない平和主義者だと知り、国王をどう思っているのかと心配になってきた。長い間、真に国を愛する平和主義者たちが臆病者と言われ、非国民とののしられて弾圧を受けていたのをよく知っていたのだ。教授は遠慮なく意見を述べた。
「クラザ将軍は自分の勢力を広げ誇示するために、無用の戦いもしてきました。これ以上、権力への執念を持たせてはいけません。我が国では英雄視されていますが、近隣からは悪魔のごとく嫌われております、これからは王子の時代です。新しい風が吹き、古く汚れたものを一掃するでしょう。平和な国にしてくださるよう望みます」
「無用の戦いとは何を指して言われるのか」
「たとえばカザルです。手前の小国ラザンで終えるはずが、あまりに呆気なく陥落したので、将軍は勢いに任せて侵攻しカザルをも奪ったのです」
将軍に批判的な見方をするようになった王子にとって、教授の指摘は新鮮で共感を得られるものだったが、公言するのは危険ともいえる。国王については互いに避けて黙っていたけれど、王子のなかでエド教授の存在はだんだん大きくなっていった。
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