第2章 噂と真実

「おい、カザクラ王国のアリサ王女と、王子の結婚が決まりそうだぞ」

 控えの間に飛び込んできたジョウがみんなに知らせた。腰かけていた隊士たちはいっせいに立ち上がってジョウを取り囲んだ。

「本当か?うまく聞き出してきたな。侍女に手を出すのは禁じられているのに素早い奴だ」

「馬鹿言うな。やましいことはしてないよ。手が早いのはロベールのほうだろう」

「ロベールは足は遅いが手は早いからな」

「待て、今の話は事実か?」ダリウスはそんなに早く決まるはずあないという顔だ。

「王子の意思ではないだろう。だれからの話なのだ」

「公妃が内密にカザクラへ行って話を進めているそうだ。今度の狩りは名目で、本当はアリサ王女と会われるのが目的らしいぞ」

「まだ決まったわけではないな」

「カザクラとの話はよほどのことがないと断れないよ。父から少し聞いていたが、王子が会うと承諾されたのなら決まったようなものだ」

 モリスの父ハラド公はユリア公妃の従兄で、公妃の相談や話し相手によく招かれている。

「我々のように自由な恋もできないとは王子もつらいな。大国同士の政略結婚ではないか」

「しかし、だれも王子の心を射止めることができなかったのだから仕方ないだろう」

「我々では手を触れることも許されない高貴な姫君との縁組だ。恵まれているよ」

「どんな方だ? 招かれたことはないだろう。舞踏会に来られたことがあったか?」

「カザクラの王女はほとんど王城から出ないし、外出は馬車だから、国民もめったに姿を見ないそうだ。才色兼備の方だという噂だがね」

「噂か。歳はいくつだ?」

「確か十六歳だと思うよ」

「十七になればおそいと言われるのに、よく今まで決まらなかったな。おい、見てびっくりかもしれないよ」

「失礼なことを言うな」

「噂どおりか、たいしたことはないか賭けるか」よく負けるくせにロベールは賭けが好きだ。みんなも嫌いではない。

「噂どおりでなければ王子が承知されるものか」

「それじゃモリスとダリウスは才色兼備の姫君で決まりというほうだな。セキトはどうだ」

「そんなに飛び抜けた女性はいないんじゃないかな」

「よし。セキト、ジョウ、俺は否定組だ。タクマはどっちだ。美女か、びっくりか」

「好みもあるし美は主観的なものだろう」

「美女ならだれでも美しいと感じるはずだぞ。自分が美女らしいと思えばモリスのほうだ」

 と勝手に肯定組にされ、マリウスは迷っている間に否定組に入れられてしまった。

「王子が結婚すれば、タクマも変な噂を立てられなくて済むな」ロベールはよけいなことを言ってタクマに睨まれた。(王子の寵愛を受けている)という口さがない噂は隊士たちもよく知っていた。噂という生き物はまったくやっかいで勝手に方々へ顔を出し、人の心を傷つけたり迷わせたりするのにはっきり姿を見せないから、だれにも文句が言えない嫌な代物だ。特に社交界では暇な婦人たちが目を光らせているので、王子もうっかりしたことはできなかった。ふとした言葉や、何でもないしぐさが大げさに取り上げられて噂になる。お妃候補に挙げられた女性と親しくして駄目になったら相手を傷つける。と思うと迂闊に笑顔も見せられないのだ。それはタクマも同じで、女性たちの熱い視線に囲まれるとうっかり親しい微笑も見せられず、無関心を決め込むしかない。

 もっともふたりとも幼い頃から周囲の注目を浴びてきたせいか、人々の称賛や憧憬の目には慣れていた。驕りもせず妥協もせず、嫉妬の目にも負けず、自然に受け流していくすべを心得、自分を堅持する強さがあり、人の噂や話に左右されず、自分の目だけを信じている。王子と怪しいなどと言われながらも、タクマは強い中に繊細な優しさを持つ王子に惹かれて、王者の孤独をそっと見守ってきた。タクマから見ると王子に身分違いの恋などとても考えられない。この国最高の人々と最良の文化や芸術に囲まれて成長した王子には、同じように最上の環境に恵まれ、深い教養と知性を持った女性がふさわしい、そんなことを考えていると「遅れるぞ」とダリウスが気づいてみんなを促した。

 

今日は政治の中枢である中央宮殿へ行く日だ。週に二度ほど王子は護衛隊を従えて、駿馬を飛ばしていく。みんなは急いで部屋を出た。やがて現れた王子は四白流星の美しい栗毛馬に乗って朱い手綱を持ち、周りを黒馬の護衛隊に護らせて城門を出ると、長い直線の並木道を一気に加速していく。春が近づいている。さわやかな風が心地よく、うっすらと汗ばむほどの距離で到着すると、アサド宰相とアキノ国政大臣が王子を出迎えた。ジョウの父ケイン補佐官もいる。アゼラ地方を任せているクラザ将軍が報告に来る日だが、今日は将軍の長男を交代にアゼラへ赴任させる旨の認証式が行われる。クラザ将軍はやがて首都ダイランに戻る予定だ。

 アゼラの戦いを最後に戦争がなくなったせいもあるが、アゼラは隊士たちにも印象が深い。王位継承をめぐって双子の王子たちと王弟が争ったアゼラは、ダイゼンに攻め込まれて、結局すべてを失ってしまった。ひとり残された王女は混乱のなかで行方不明になっている。戦争の悲劇は方々で繰り返し起きていた。アゼラを攻め落としたクラザ将軍は、二十年ほども数々の戦績を上げてクラード王の勇名を高らしめた功労者だが、隊士たちはあまり快く思っていない。傲然と人を見下す態度が反感を呼ぶのだ。カムラ将軍と二分する勢力を誇っているが、本人は自分がダイゼン王国の領土を広げ、強大国にしたのだという自負と誇りを人一倍強く保持している。確かにクラード王の名なくしてその軍事力を発揮することは不可能だったが、厳しい戦略と容赦ない攻撃は周囲から恐れられてきた。

 しかし、このところ出番が少なくなって不満らしい。アゼラ王国を滅ぼし、後始末も終わったので、長男に任せて自分は首都に戻りたい意向なのだが、アゼラを望んでおきながら息子に、というのはまだ他に野心があるのではないかと王子は密かに警戒している。しかし国王に代わって政治面に姿を見せるようになった王子も、クラード王が一目置いているクラザ将軍をおろそかにはできない。(父王は将軍に甘い)と多少の不満はあるが顔には見せず、ともあれ事なく認証式を済ませた。

 そして宰相や大臣からの報告や説明を聞き、承諾や指示を与えてから王子は帰途に就いた。もう公務が終わるので、護衛隊は王宮近くの詰め所に戻り、親衛隊士だけが王子を護ってゆっくり城門に向かっていたところ、急に木の陰から二人の女性が現れた。城門を護る兵士たちが気づくより早く駆け寄った女性は危うく馬にぶつかりそうになり、タクマは急いで手綱を引いて視線を向けた。何か叫びながら物を渡そうとしているのは判ったが、今までもすべて断っている。王子の護衛中はだれでも遠慮するのが普通なのにこの女は何だ?タクマは知らぬ顔で通り過ぎようとしたが、悲鳴が上がり手に小さな刃物が光った。後ろにいたマリウスが鞭で叩き落そうとしたのだが、すでに血の色が見えている。それをダリウスは横目で見ながら馬を駛らせ、タクマも無表情に後を追う。

 公務中に事故を起こされては困る。迷惑だ。ジョウが小声で「不敬罪だな」と言ってから、「あのときの女ではないか?」とタクマに訊いた。数日前に中央宮殿へ入る大通りの角を曲がるとき、タクマはジョウと後方にいて、ジョウの冗談に笑いながら、ふと見るともなく傍らの若い女性と目が合ったのは記憶しているけれど、タクマにしてみれば何の他意もない。偶然のことなのにの女性はひときわ高い嬌声を上げ、自分に関心を持ったと勝手に思い込んでしまった。昨日も街で見かけ、寄ってこようとするのに気づき、面倒なことにならねばいいが、と思っていたのだ。マリウスが残って刃物を取り上げ、側にいた中年の女性に、彼女の一方的なあこがれで、タクマ・アキノには何の気持ちもないと告げてから、みんなの後を追ってきた。

「何でもない。かすり傷だよ」とマリウスはタクマを安心させるように微笑する。

「タクマは陰でずいぶん女たちを泣かせているな」とジョウが冗談半分にからかい、

「引き止めたくてやったんだろう。変な女難だよ。避けても追いかけられるんだから」とロベールも苦笑した。一方的に恋慕されるのを止めるすべはなく、話を交わせばよけい後がうるさいので努めて冷たく振る舞い、だれとも付き合わない。それで、美剣士タクマは女嫌いなのかと周りは噂し、王子の寵愛があるのだと勘ぐる者もいる。

 

城内に入って、まず休息の間で隊士たちと香茶を飲みながら、王子は「さっきの女はどうしたのだ」と尋ねた。マリウスとジョウが事情を説明すると、「困ったものだな」と王子は少し同情的にタクマを見てから厳しい表情になった。

「セキト。広場や大通りの警備をもっと厳重にするよう、カムラ隊長に申し伝えよ」

 それから王子は表情をゆるめて軽く言った。

「五日後にカザクラの離城で狩りがある。滞在は数日の予定だが、三日になるか五日になるかは判らぬ。そのつもりで準備をしてくれ」

 王子は二頭の犬を連れて国王の許へ報告に向かい、後ろからダリウスが警護していったが、残った隊士たちは複雑な顔を見合わせた。

「すぐ帰れば駄目。滞在が長引けば決まりか」

「どちらにしても決まるんじゃないかな」

 後は黙って香茶を口に運ぶ。いずれ王妃になる女性だから、みんなも期待と不安が入り混じっている。カザクラ王国とは前王妃亡き後も親交があり、年に一度か二度、王子たちが親睦を兼ねた狩りを催すので行ったことはある。みんなが捕った獲物で野外料理を楽しんでいる間に、城内で会われるつもりかとモリスは想像した。アリサ王女がどんな女性かはよく知らないが、カザクラの伝統と教養に培われた女性なら、まず間違いはないだろう。

「モリスももう戦争はしたくないと言っているよ」という声が耳に入って、モリスは自分の想像から覚めた。今日、久しぶりに威圧的なクラザ将軍の顔を見たせいか、みんなの話はアゼラの戦いに移っている。マリウスも一度とはいえ戦場へ出たのだから、ロベールに馬鹿にされずに済んでいるのだ。

「またあんな高揚感を味わってみたいよ」というマリウスに「平和なほうがいい。やられたらすべて終わりだからね、マリウス」とモリスも話の輪に加わった。

「ロベールはすぐ吠えるから嫌だよ。声で脅かすんだからな。槍の試合で優勝したときも天に向かって吠えていたぞ」とセキトが言う。それでもその雄叫びが国王の目に留まったのだから、効用があったということになる。

「タクマが髭の武将に追いかけられたのを覚えているか」とロベールが話を変え、

「ロベールこそタクマに色目を遣ったんじゃなかったかな」とジョウが混ぜっ返した。

 アゼラは思い出深い。特にタクマの縦横無尽な戦いぶりが話題を呼んだ。まるで軍神が乗り移ったか、魔人に憑かれたかとみんなの視線を集めたものだ。ひとしきり戦いの話で盛り上がり、飛び出してきた女のことは忘れられたようだったが、次の日、またロベールが「タクマに振られた街娘が自殺を図ったと評判になっているぞ」と言ってタクマの眉をひそめさせた。

「だれかと早く婚約してしまえよ。誰かいないのか、タクマ」

「いない」タクマはそっけなく答える。

「これだけ騒がれていながら、だれもいないなどと言うから誤解されるんじゃないか」

というのは王子との噂を指している。

「俺の女友達を紹介してもいいよ。それとも女は嫌いか?」

「別に女嫌いではないよ」

モリスがロベールを見たので、ロベールは口をつぐんだ。アゼラの戦いが終わったあと、急に噂が広がった。みんなは何があったのかと聞きたがるが、タクマは沈黙を守っている。

しかしその晩、心配したモリスが珍しくタクマを誘って軽く酒盃を傾けながら、

「ロベールが疑っているのは判っているだろう。誤解は解いておいたほうがいいぞ」

と忠告すると、タクマもいささかうんざりしていたのか、素直に真実を打ち明けた。モリスはよけいなことを言わないし、冷静で判断力に優れ、思いやりもある。話すならいちばん信用が置けるという安心感が持てた。


アゼラの戦いは常のごとく勝利に終わったが、小競り合いのなかでタクマが髭面の敵将に追われるという一幕があった。王子に傲って軍帽もかぶらず、金茶色の髪をそよがせているタクマの姿を見つけ、「生け捕りにして連れて帰ってやるぞ」と叫びながら向かってきた武将に、追われて逃げるふりをしつつ誘い込んだタクマは、一気に馬の向きを変えて反撃に転じた。周囲の騎士たちが敵も味方もどうなることかと見つめるなか、その武将はタクマの鋭い剣に翻弄されて逃げ腰になった。すかさず剣が馬の尻を微かに奔る。馬は嘶いてけたたましく駛り出し、振り落とされまいと必死でしがみついている武将の姿にみんなが笑い出した。騎士たちは歓声を上げ、分散して逃げていく敵を追いかけていく。

王子は面白がって眺めていたが、金茶色の髪をなびかせ色白な頬をほんのり紅潮させて駆け戻ってきたタクマの勇姿は、敵将ならずとも息を呑むほどに凛々しくも美しく見えた。

「タクマは間違って生まれてきたのだ」とジョウがため息混じりに感嘆した。

「母君がお妃候補に挙がったほどの美人だから仕方がないかな」

「もしタクマが女だったら、俺は絶対に放っとかないんだが」

ロベールが本音に近い冗談を言い、

「ロベール、変な目つきをするな」とジョウが牽制した。

「社交界の貴婦人たちに大もてなのに何を言っているんだ」

ダリウスに睨まれたロベールは仕方なく、にやりとした。

「愛玩用にというわけか。タクマ、気をつけろよ」

「うるさい、放っといてくれ」タクマは恐い顔をして黙り込んだ。

それでも戦場でたまに交わす気楽な会話はいっとき心をなごませ、帰りを待つ恋人や家族を想起させる。そして次の日、川辺で馬に水を呑ませているとき、またロベールに絡まれたタクマが、「もう顔のことなど何も言うな」と怒り出した。

「ロベールは自分の背格好がどのくらいで、どんな顔をして生まれてくるか、自分で決めてから出てきたのか?」

「いや、違う」ロベールは苦笑いした。「本当はもっと品よく生まれたかったよ」

「贅沢言うな。精悍でいいじゃないか」とジョウが笑った。「背丈はどうにもならないぞ」

「私の母はまるで悪いことのように『男は容姿ではない。腕を磨け』とうるさかったが、こんな顔に産んでくれと頼んだ覚えはないぞ。母が勝手に産んでおいて文句を言うのはおかしいと思わないか?私は迷惑だよ」

「アキノ夫人は美貌の息子が悪い女に惑わされないかと心配なんだろう。」

「どうにもならないといえば、兄に生まれるか弟になるかでも、ずいぶん違うと思うよ」

とマリウスも口をはさんだ。

「兄のほうが得だ」偉丈夫を兄に持つセキトが、ぶすっと言う。

「そんなことはない。弟のほうが気楽で自由だ」モリスが長男の責務を説き始めた。

王子は微笑を浮かべながら聞いていたが、みんなの話が一区切りつくと、タクマを見て口を開いた。

「タクマ。私も王子に生まれようと思って生まれてきたわけではないかもしれぬが、この偉大な恵みを天地の神に感謝している。タクマもせっかく授けられた美しい贈り物を大切にせよ。みんなもそれぞれに神から与えられた恵みと大きな使命があるはずだぞ」

そして王子は馬に跨り、おおらかな笑顔でみんなを見回しながらつづけた。

「しかし私は自ら偉大な王になりたいと望んで、この世へ送り出されたのだと信じている」 あっさり言われて、みんなは熱い陽の珠を胸の奥深く打ち込まれた思いで息を止めた。

ほかのだれが、言いたくてもそんな言葉を口に出せるだろうか。それを王子は堂々と公言する。この自信はどこから湧いてくるのだろう、とダリウスは思わず震える指先で手綱を取り直した、その言葉は麻薬のごとくみんなの心を痺れさせたのだが、王子はそれに気づいているのかいないのか、悠然と馬を駆けさせている。やはり神に選ばれた稀有な人なのだと思うしかない。自分は父のように、国王となる王子を補佐して一生を終えるのか、それとも王子のために命を散らす日が来るのか……もっとほかに自分の使命があって、自分自身の力を発揮できるならやってみたい。しかしそれが何か、ダリウスにはまだ霞がかった遠い山にかかる薄い虹のように掴みどころのないものではあったが。

 

仲間たちが知っている戦場での出来事のほかに、タクマだけの秘密があった。髭の敵将に挑まれて撃退したあと、急に王子との噂が広まったのにはわけがある。一騎打ちがあったその夜、クラザ将軍の側に仕える警備兵がタクマを迎えに来たのだ。タクマは嫌な予感がした。将軍が側近の美青年を可愛がっているという風聞は耳にしていたので、とっさに、

「王子の用事で出向くところだ。話があるならグラント王子を通してほしい」

と言ってしまった。警備兵は納得せず、確認しないと報告できないという。仕方なくタクマは預かっていた書物(それは王子が王妃に持たされた詩集で『だれか読め』と渡されたものだ)を持って、王子が休んでいる部屋の前へ行き、守衛兵の取次ぎを頼まず、

「グラント王子、タクマ・アキノ、ただいま参りました」と大声を張り上げた。なかからまだ起きていたらしい王子の、おお、と響く声がして無造作に垂れ幕を上げると、大柄な姿が現れた。そして一瞬いぶかしげな表情が、硬い顔のタクマと後ろに控える兵士を捕らえ、「クラザ将軍付きの兵士か」と質した。警備兵はたちまち畏まった。

「将軍がこの夜更けに、何か私に用があるといわれるのですが」とタクマは王子の瞳をじっと見ながら言った。王子は軽く頷いた。

「何か用ならば私を通してからにせよと将軍に伝えよ。タクマ・アキノは我が護衛隊士であるぞ」

 警備兵が恐れ入って退き下がってしまうと、王子はタクマに、なかに入れ、と合図した。

「狙われたな、タクマ」王子は親しい微笑を見せる。

「しばらく休んでいくが良い。私はもう寝るが、遠慮はいらぬぞ」

 タクマは、夜分に申し訳ありません、と謝って、傍らの長椅子を借りたが、横になった王子は何事もなかったように、ほどなく規則正しい寝息が聞こえはじめた。タクマは吐息を洩らした。総大将の命令には絶対に逆らえない。が、嫌なことは何としても従いたくない。難を避けて飛び込む処は王子の許しかないのだ。王子が理解してくれるから良いものの、仕える主人によっては自分の運命を狂わされ、人生の道を誤らす。軍団のなかでは功名心や嫉妬、暴力など諸々の争いが繰り広げられる。その渦を無難に避けて遠ざかる知恵も必要だ。美貌の母から受け継いだ端麗な容姿など、軍隊では邪魔なだけではないか。タクマはどこにもやり場のない怒りを抑えつけながら時を過ごし、守衛兵が交代に来る靴音を聞いて、その間にまぎれて外へ出た。まだ夜は深い。星空のなかで自分に向かってきらめく美しい星を見つけ出し、何とか心を落ち着かせてから、タクマはそっと仲間のいる場所に戻った。

 

それから二日後の夜、警備兵がまたやって来た。タクマが、何だ、と睨みつけると、ぶっきらぼうに「王子がお呼びだ」と告げてそそくさと立ち去った。気づいたロベールが

「何の密談だ?」と訊くのを曖昧にはぐらかして王子の許へ行くと、

「先ほどクラザ将軍と明日の攻撃の打ち合わせをしていたら、この前の兵士が来たのだ。思いついて、あとでタクマを呼んでくるようにと将軍の目の前で言ってやった。もう将軍はタクマに手を出すはずはないから安心するがよい」

 王子は将軍の鼻を明かしてやったという顔である。タクマはほっとして礼を述べた。

「少しくらい私と噂になってもかまわぬだろう。気にするな。知らぬふりをしていよう」

 タクマは王子の優しさが心に沁みた。

「せっかく来たのだから、この前の詩集を少し読んでくれ。多少は覚えて帰らないと王妃が嫌な顔をする。どれも有名な詩らしいのだ」

 本を手渡すと、王子は寝台に身を横たえ、タクマが読み始めるのをのんびり待っている。

どれを読もうかとタクマは頁をめくってみた。(今宵こそ君を抱きしめ……)これはちょっとまずいな。うーん、(霧となりて君を濡らさむ)何だ?恋の詩ばかりじゃないか。王妃はどういうつもりだ? タクマが迷って考えている様子を王子は面白そうに眺めている。どんな詩集か知っている顔だ。灯りが王子の顔を揺らし、近づいた獲物にいつ跳びかかろうかと身構える若い獅子の精悍さをほの見せている。タクマはなぜか息苦しさを感じた。

「最初からでいいよ。眠ってしまったら適当にやめて帰ってくれ」と王子が促すので、タクマは努めて感情を押し殺した低い声で読み始めたが、その抑揚のない単調な響きが快く眠りを誘ったのか、しばらくすると王子は安らかな寝息を立てている。タクマはほっとすると同時におかしな状況に置かれた自分を感じた。一難去ってまた、と言っては悪いが、噂になるのは間違いないだろう。

 しかしタクマから見ると、王子は人間としても男としても、最高の条件に恵まれた稀有な存在に思える。生まれながらに王者であり、威風堂々とした躰も頭脳も優れて立派だ。

父王以外に頭を下げる人はなく、自分の意見を遠慮なく述べて意思を通すことができるし、手に入れたいと欲すればほとんど何でも望みが叶う。また、自分の立場を自覚し、強い指導力のなかに秀でた理解力と人を包み込む優しさも持っている。

 もし自分が女だったら、文句なく男としての王子に惹かれるだろう。王子も…と考えてタクマはあらためて王子の顔を見つめた。隊士たちのなかで、いちばん自分に親しみのこもったまなざしを投げかけてくれる、と感じるのは自分の錯覚だろうか。ふたりで剣舞を練習したときの、王子の強い瞳に惹かれた自分を思い出す。周りに騒がれながら孤独を抱えている立場もふたりなら互いに理解できる。

 男同士ではいけないのか?王子に愛を捧げては。すでに命は預けているものの、それ以上に人間としての王子に深い尊敬と愛情を覚えている。どんな女性にも感じたことのない不思議な懐かしさ。自分を捧げて悔いない想い。いつも王子の側にいたい気持ち。これは何だ?前世で結ばれた絆がこの世でも絡まっているのか? しかし自分は男だ。男としての誇りを人一倍強く持っている。どうしようもないじゃないか。何かのときに身代わりになり王子の命を護る。それしか愛を表すことはできない。タクマは恋情に似た立ち去りがたい想いを抱きながら、そっと王子の側を離れた。

 真夜中の天空を見上げると、瞬く大星雲の七色の輝きが心に染みわたる。宝石をちりばめたように美しく、今にも手が触れそうに思えても届かない神秘の光彩は、自分の肉体が消え失せて魂だけが躍動し溶け込んでいく不思議な錯覚に囚われ、今ここにいる自分の存在が空しく感じられる。この美しくきらめく星空の下で、殺伐とした戦争を繰り返している人間は、なんと愚かで汚い塵芥のような生物なのだろうか。破壊のない穏やかな世界を求めても得られないのか? 強大国で天才剣士ともてはやされても、それがいったい何になるというのだ。タクマは物悲しい想いを抱えて宿舎に戻った。

 

翌日の決戦で、タクマの勇猛果敢な戦いぶりがみんなの注目を集め、その名をいっそう高らしめたとはいえ、まもなく警備の兵士たちから広まった噂が周囲を覆いはじめた。それでも王子は自然に親しみを表現して憚らず、タクマも常に王子の側を離れない。そして。二人とも沈黙を守りつづけてきた……。

「そうか。クラザ将軍に誘惑されかかって王子の処に逃げ込んだというわけか」

モリスはタクマが簡単に説明したそのときの様子を想像したのか、おかしそうに頷いた。

「王子も良いところがあるな。あの頃の将軍の威光はたいしたものだったから、抑えられるのは王子だけだ。なるほど訊いてみないと判らないものだね」

モリスは納得したらしい。本当はもっと微妙な感情がうごめいていたのだが。

「ロベールには私からうまく話しておくから、心配しなくていいよ」

モリスはそう言って目許をほんのりさせながら酒盃を手にタクマと会話を楽しんだ。遠くから見ていたときは冷たく感じられたモリスだが、仲間になってみると、だれとも中庸を保った付き合いをし、知的で頼もしい男だとタクマは評価している。話は剣の試合に移った。次の試合でタクマは雪辱を果たしたが、モリスは初めの試合を振り返り、笑いながら打ち明け話をした。

「タクマは正々堂々と剣を遣って立派だった。私は優勝したが、次はやられるなと感じたよ。終わってから王子に正攻法でやれと言われて恥じたが、絶対、初出場の者に負けるわけにはいかなかった。あれ以上やって疲れきった姿をさらすのは、私の美意識が許さないしね。タクマもさぞ疲れただろう」

「目からも汗が出たのは、後にも先にもあの試合だけだよ」

「しかし次の試合で負けたのは剣の技だけではない。タクマの燃えたぎる瞳が私をひるませたのだ。心が揺れて気が散った。参ったよ。あれから私のなかでタクマは気にかかる存在になった」

 ほろ酔いのせいか、モリスが自分の気持ちを正直に話すのは珍しい。

「何とでも言ってくれ。私の頭には優勝の文字しかなかった。絶対モリスに勝って、王子のえこひいきで隊士になれたのだという噂を跳ね返し、みんなに実力を見せつけてやりたかったのだ。だからモリスの練習試合を見て研究した。攻撃には強いが攻められると後退を嫌って無理をするとか、面倒になると左右にゆさぶってくるとか  」

「あはは、タクマは防御に強いな。見ているのは判っていたから気をつけていたのだが、それでもやられたのだから、みんなも納得したはずだ。しかし剣舞を観ていて思ったことがある。王子はよくタクマの瞳を凝視していられるな、とね。タクマの瞳は人の心を引き込み奪い取る強烈な力を持っているよ」

「いや、私のほうが王子の強い瞳に引っ張られているのだ。というか王子の瞳に自分を投入しないと従いていけない。あの剣舞はお互いの魂が一致しないと成立しないのだと思う。自分の存在が無になっていく崇高な高揚感があるし宇宙を我が物にしているような一体感もあって、心が澄み切っていく。無我の境地というのか、私にはうまく言えないが」

「恐いが美しい。剣舞は観る者を魅了する。それにふたりが同じ高揚感に浸れるという思いなど、なかなか味わえるものじゃないよ」

 モリスは何かを感じたのか、遠くを見る目をしてため息を洩らした。


 北の国の空は澄み切った青でなく、安らいだ灰色の靄がかかって見える。重厚な街並みが調和して落ち着き、人々の生活も堅実だ。カザクラ王の居城は堅固で荘厳だが、城内は絢爛豪華で、贅を尽くした凝った造りと調度品の見事さは、さすがに伝統の重みを感じさせる。最良の環境で伸びやかに育ったアリサ王女は国王王妃と二人の兄から愛情を注がれて幸せに暮らしているけれど、そろそろ結婚を決めなければならない。数々の求婚を断り、いくつかは保留したまま、グラント王太子の縁談を携えて訪れたライアン公妃夫妻を見送ると、国王は改めて王女の意思を確かめた。

 一つ年上の王子とは幼い頃に会っているし、王女は立太子式で見た凛々しい姿が忘れられず、密かに王子からの求婚を待って今日まで結婚話を延ばしてきた。待ち望んでいた話だ。それでも一抹の不安はある。肝心の王子がどれほどの気持ちなのかは判らないのだ。

「お二人が気楽にお会いになって、いろいろとお話をされた上でお二人が結婚を望まれるならば、喜んでお話を進めたいと思っております」と公妃は言った。隣国のように「ぜひとも妃として輿入れをして頂きたい」というのではない。そこが少し気がかりな点だが。

「アリサに異存はあるまい。いくつもの縁談を断ってきたのだ。グラント王太子には素直に自分の気持ちを表せばよい。アリサは賢くてしっかりしている。何の心配もいらぬぞ」

「王太子も今まで数々のお話に乗り気になられず、ライアン公妃が心配しておられたとか。私はアリサを誇りに思っておりますから、まとまると信じていますわ」

「お目にかかるのがうれしい半面、怖いような気がします。私を好ましく思ってくださるかどうか……」王女は少し心配そうだ。

「アリサ、自信をお持ちなさい。それに大国同士のお話はよほどのことがないかぎり、まとまるものですから、心配はいりませんよ」

「妃、周りが心配せずとも、若い者は自然に親しくなるものだ。ふたりに任せよう」

 王は側近にいろいろと指示を与えてダイゼンに向かわせ、縁談を進めるとともに王子の近況を調べさせる。公妃夫妻と幾度かの相談を重ね、狩りの招待によく使われる国境近くの離城で歓談の宴を催す準備が調えられた。

 

その日、モリスの推測どおり、狩りを終えた王子はだれひとり護衛を付けず、招じられた奥の間に入った。エルド王太子夫妻が歓待するなか、やがて女官長を伴ったアリサ王女が姿を見せた。若い者に任せるという国王の配慮で略式の出会いになったが、真珠や七色に光る透玉を付けた清楚な衣裳の王女は、白い蘭のように美しく見えた。想像していたより背も高いので、大柄な王子は少し安心した。あまり小柄な人では釣り合いがとれない。それに、ほっそりしているとはいえ、胸のふくらみや胴のくびれがまぶしいほどに目を射て(公妃の話は嘘ではない)と、王子は節度を保ちながらも観察をつづけた。

 高貴な容姿は男性を圧倒しそうな品格にあふれ、気軽に声をかけにくい雰囲気をただよわせているが、王子は屈託のない自然な態度で礼儀正しく接した。椅子に掛けるとアリサ王女は親しみを表す優雅な微笑をたたえ、王子と積極的に話を交わし、だんだん楽しい会話が弾んでいった。初めの印象よりずっと人懐っこくて気さくな感じがする。ライラ王妃と違って薄化粧なのも気に入った。優しい物腰と落ち着いた美しい声も王子の好みに合っている。それに、花嫁になる運命が定まっているかのように、ひとかけらの疑いもなく優しく寄り添ってくる美しい王女を、どうして邪険になどできようか。成り行き半分で会った王子だったが、断る理由は何ひとつ見つからない。要するに一目惚れということだ。

 次の日も狩りは隊士たちに任せ、庭園で会話を楽しんだ。今日の王女は薄紅色の衣裳を着て、昨日よりもっときれいに見える。

「あなたは白より薔薇色のほうがよく似合う」王子が褒めると、

「こちらでは結婚を前提にして初めてお会いするとき、白を着る習慣がございますのよ」

と王女ははにかんだ。

「白はどんな色にも染まるからですわ。私も薔薇色のほうが好きですけれど、真紅か紫にしかならないでしょう?最後は黒……でも私は暗い色を好みません。この色が大好き」

「私はあなたがいつも薔薇色の衣裳に包まれて、微笑んでいてくれたらうれしい」

「このままの私を受け容れてくださいますの?」

もちろん、と王子は知らないうちに答えていた。

「そのままのあなたが幸せなら、私もきっと幸せを感じるでしょう」

 微笑んでいる王女がいちだんと美しく見える。これほど気品のある優雅な女性がほかにいるだろうか。アリサ王女を妃に迎えよう。心が定まるといとしさが湧き上がり、恋のときめきを感じて躰が熱くなった。甘い語らいから指が絡まり、顔が近づく。男としての愛を込めた接吻は初めてだったけれど、王女が優しく受けてくれたので、再び求めた。しなやかな躰を抱き寄せると、思いのほかに弾力がある。潤んだ瞳が王子の求愛にしっかり応えているのだが、まだ何か言ってほしいと促している瞳だ。忘れてはいけない。

「ダイゼン王国に来ていただけますか、アリサ王女。未来の王妃として私の処に」

 承諾の返事を聞いて、全身に歓喜の思いが駆けめぐる。その夜の晩餐会はにぎやかに過ぎ、エルド王太子も、グラント王子が妹を妃に迎えることを喜び祝福した。両国の平和と繁栄がいっそう固く約束されたのだ。そして、妹はずっと前から王子の求婚を待っていたのだと打ち明けたので、王子は安心感に充たされ、喜びを新たにした。

 帰国する前夜、王子はなかなか寝つけなかった。数日の滞在が夢のように思われる。人生は或るとき急に変わることがあるけれど、この結婚はきっと良い変化をもたらすだろう。これで王妃にいろいろ言われなくて済むし、母にも誇らしく報告できる。ふと、夜鶯の優しい声が聞こえた。ここでも啼いているのかとダイゼンを思い出した。やがて夜が更けて眠りに誘われると、王子はよく見る夢のなかにいた。白い衣裳の美しい人が手招きし、近寄ろうとするのに思うように足が進まず、届きそうで届かないもどかしさを感じながら、それでもやっと白い裳裾に指が触れて、抱きかかえようとした瞬間にその人は消えてしまう。白い衣裳はすっと凋んで地に落ち、うっすらと靄がただよっているばかり……。夢幻の世界から覚めると、壁に飾られた母の肖像がいつも見下ろしていた。

(どんなときでも王子です。夢のなかでも王子さま)母が唄っていた子守唄の一節が耳元に響いてくる。どこで聞いたのかよく判らない。アヤ夫人だったのかもしれない。それでもしっかり心の底に息づいて、何かのときに甘くやるせない母の詞が浮かんでくる。

(どんなときでも王子です)それは懐かしいと同時に呪縛の言葉でもあった。常に自己を抑制し堅持する。孤独を感じたときも多かったのだ。しかし、この夜の夢に現れたのは母ではなく、アリサ王女のように思われた。どんな出会いであれ、美しい人は美しいし、心惹かれるものには惹かれる。労せずして得られるということは、それだけ幸運の神に愛され、恵まれているのだとも言えるだろう。欲を言えば、長い間恋い焦がれて求めてきた願望が叶ったときの喜びとは少し違っていたが。


 カザクラ王国からの帰途、ダイゼン領カザルの山岳地帯を通りかかると、カムラ隊長が、「最近、例の武装集団らしい者たちがよく現れるそうですが、不穏な動きはないので放置している状態です。ご覧になりますか?」と尋ねた。警備兵から情報が届いているというので、「ちょっと見ていくか」と王子は気軽に馬を小高い丘へ向けた。

 確かに、森から沢水が流れている辺りに数十人の人影が見える。武装はせず茶色の服を着て、馬もダイゼンの馬より小柄でずんぐりしているように思える。焦茶色の髪をして髭の立派な痩せぎずの男が大将らしい。みんなに指図しながら荷物を移している。隊長が、朱と緑の羽飾りを付けていた男に間違いない、と王子に言った。森の近くを見張っている警備隊に合図を送って、二十騎ほど攻め込ませてみると、集団に動揺が奔ったが、少数とみて攻めかかってくる。機敏な動きだがあまり軍事訓練ができているとは思えない。

 見つめていたダリウスが、「あれは女ではありませんか?」と指さした。少し小柄だが敏捷な一騎を見ると、男装して化粧っ気こそないが、きりっとした美貌の女性だ。やがて、大将らしい男が叫び、みんなを森のなかへ退がらせようとする。苛立った顔は蒼白く、神経質というよりは冷酷な感じのする男だ。

「あれはカザルかセルド地方の者でしょう」とモリスが言った。少し反った剣と、服に着けられた刺繍飾りが、その地方のものと知れる。

「カザルならタカセ大臣に問い合わせよう。あの森や山中を追うのは面倒だ。帰るぞ」 

王子が動き出したところ、後ろを振り返って気づいた女性が鋭い目で睨みつけた。何もしていないのになぜ攻撃するのかと咎める目だ。みんなが従っている様子では指導者の一人か、しっかりした指揮ぶりを見せている。どこか気にかかる集団だが、いずれ引っ捕らえてやろうと、王子は狩りの獲物が見つかったくらいの感覚で悠々と馬を引き返した。

 その後の調査でカザル地方の者だと判明したが、集団はどこへ行ったか姿を消した。カザルがダイゼン領になったのは二十年ほども昔のことだ。数多くの鉱山があり、良質の宝石が採れ、カザル王家は宝飾の収集でも名高かった。それでダイゼンに狙われたのか、宝石とともに優秀な宝飾工芸師たちが連れてこられたと聞く。旧カザル王をはじめ主要な人々は殺されたはずだが、しかしあの髭の男には人から指図や命令を受けたことのない上位の者だけが持つ傲慢さが感じられる。カザルに関係のある人間だろうか。もう一度調べ直す必要があると王子は思った。考えてみるとカザルの歴史はあまり詳しく教えられなかったことに気づいたのだ。

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