奈緒が寝入ると、寝室のベッドの淵に座った妙子が、隣の禄郎の手に触れてきた。

「パパ、あの時は思い切ったね」

「大事な瞬間を穢されたって思ったら、ついスイッチが」

 弁明口調で答えた禄郎に、妙子は被りを振りながら答えた。

「ううん、あれが正解だったと思う。私は一瞬動揺しちゃった。パパは一切迷いがなかったね」

 禄郎が頷くと、また妙子が口を開いた。

「あの狸廻見て、動き変わんないなあって思ったら、思い出しちゃった。昔のパパ」

 小声で言った妙子が、寝室の豆電球の淡い光の中で禄郎のシャツを脱がせた。妙子の指が身体中に走る傷に沿って滑り、大きく縦に刻まれた背中の傷に触れた。背後に回った妙子が、その傷に添って丹念に唇を這わせながら囁いた。

「この傷、絶対に忘れられないな」

 それはまるで自身の傷のような言い方だった。この傷が二人を文字通り結び付けた。背中に傷を背負ったことで、妙子と後に産まれる奈緒の人生も背負ったのだった。

 禄郎が二十一の秋、黒鉄衆くろがねしゅうは女陰を祓う為に、新潟の不動山に野営していた。掃討戦を控えた前夜は、折り重なった梢の隙間から金色の光が漏れる月夜だった。

 夜陰に紛れ、兜割かぶとわりの銘を持つ太刀を手に自身のテントを出た禄郎は、妙子のテントに訪いをかけた。野営の途中で体調を崩した妙子は、既に待機が決まっていた。テントの入口から妙子が顔を覗かせると、ねっとりと寝汗を掻いたらしき濃い女の薫りが漂ってきた。それを嗅いだ禄郎の胸がざわめき始めた。

 その時の妙子は十九歳だった。今よりも顎の輪郭が鋭く、精神と肉体を絞った者のみが持つ、刃のように研ぎ澄まされた美を湛えていた。

 驚いた妙子がどうしたのかと尋ねると、草地に正座した禄郎は二人の間に太刀を置いた。黒鉄衆にとって命にも等しい太刀を捧げるということは、自らの命を差し出すことに等しかった。

 息を詰めて太刀を見下ろす妙子に向かって、もし明日の戦で生きて帰って来れたら、その時はどうか結婚して欲しいと、禄郎は一思いに申し出た。

 目を見開いた妙子は、手で口を覆って固まってしまった。妙子を凝視しながら返事を待つ間、直に頭蓋に反響しているのかと思うほど鼓動が鳴り響き、もうこれ以上耐えられないと気力がえかけたその時、口に手を当てたまま妙子が囁いた。

「どうして、そんなことを?」

「そんなことって?」

「もしも、自分が明日の戦から帰って来れたら、って」

「今度こそ悪い予感がするから。だから、思い残しがないように、どうしても伝えたかった」

 禄郎の言葉に、妙子は子供が嫌々をする時のように被りを振った。

「嫌」

「嫌ッ?」

 脳天に鉄槌を振り下ろされたような衝撃に禄郎が呻くと、瞬きをした拍子に妙子の大きな瞳から零れ落ちた一筋の涙が、頬を伝っていった。

「絶対に死んじゃ嫌。その刀に誓って、死んでも這って戻って来て」

「えっ、それじゃあ?」

 妙子の言葉に勢い込んで禄郎が尋ねると、涙を零しながら妙子が頷いた。

「嬉しい。どうか私を、禄郎のお嫁さんにさせて」

 全身に高揚が駆け巡るのを感じながら、禄郎は掠れた声を絞り出した。

「今確信した。その言葉で死域しいきは去った。明日は絶対戻って来れる」

 禄郎が死を覚悟するほど、その戦は苛烈だった。幼い頃から寝食を共にしてきた黒鉄衆が七人も命を喪い、背中を縦に切り裂かれた禄郎は、他の黒鉄衆に担がれて野営地に戻ってきた。

 担がれて戻ってきた禄郎を見た瞬間、悲鳴を上げながら駆け寄ってきた妙子に、禄郎は血の気の失せた笑顔を見せながら言った。

「妙子のおかげだよ。帷子かたびらに力が宿った」

 結婚を申し出られた夜、妙子は懐抜きで裂いた自らの指先を禄郎の帷子に這わせ、テントの中で降火界咒こうかかいじゅを唱え続けた。それが二人分の念を帷子に与え、鎌を掲げた蟷螂かまきりのような六つ脚の禍津軍に背後から斬られた時、筋繊維のように帷子が収縮して、鎌を食い止めるのを感じたのだった。

「刀を置かれてプロポーズされた時は、ほんと痺れたな」

 昔を懐かしむように、妙子が囁いた。

「痺れた?」

 振り返った禄郎が尋ねると、妙子は禄郎の髪を掻き上げながら頷いた。

「あそこが。子宮が、ずうんって痺れた」

 禄郎の身体の下で一糸纏わぬ姿になった妙子も、全身傷だらけだった。二人は互いの傷の記憶の大半を共有していた。

 黒鉄衆とは、山王八幡修験さんのうはちまんしゅげんの別動隊を指す名称だった。山王八幡修験は栃木の鹿沼町に信徒専用の寄宿舎を持ち、そこで育った子供は近隣の小中学校に通った。調伏ちょうぶくの適性を持つ者だけが、禍を祓いに国中を巡る黒鉄衆に編入された。禄郎も妙子も黒鉄衆として、過酷な青春を生き抜いてきた。

 山王八幡修験は、神社本庁に存在を否定されていた。鉱物と調伏を司る八幡神を取り込み、食い詰めた鎌倉武士の残党が加わると、修法に剣術が織り込まれた。梵字を刻んだ刀剣で、直に禍を斬るようになった。

 黒鉄衆は十数人規模での行動が多く、隠形で人目を忍びながら山間部を転々とした。女陰の発生場所によっては、結界で覆った街の廃屋や工場跡などに逗留することもあった。

 結婚後も黒鉄衆に浸かっていた二人は、妙子が奈緒を身籠ると、山暮らしが長過ぎて猿めいた統領の鳴滝なるたきに棄教を申し出た。今から六年前の初夏のことだった。

 妙子の裸身に、束ねた針金のようなかつての張りは何処にもなかった。人に必要な余禄よろくを纏った今の妙子がより愛おしいと、禄郎は思った。

 下から両手で頬を包んできた妙子が、禄郎を見上げながら言った。

「生きるの。私たちは、最後までしっかりと生き切るの」

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