想
奈緒が寝入ると、寝室のベッドの淵に座った妙子が、隣の禄郎の手に触れてきた。
「パパ、あの時は思い切ったね」
「大事な瞬間を穢されたって思ったら、ついスイッチが」
弁明口調で答えた禄郎に、妙子は被りを振りながら答えた。
「ううん、あれが正解だったと思う。私は一瞬動揺しちゃった。パパは一切迷いがなかったね」
禄郎が頷くと、また妙子が口を開いた。
「あの狸廻見て、動き変わんないなあって思ったら、思い出しちゃった。昔のパパ」
小声で言った妙子が、寝室の豆電球の淡い光の中で禄郎のシャツを脱がせた。妙子の指が身体中に走る傷に沿って滑り、大きく縦に刻まれた背中の傷に触れた。背後に回った妙子が、その傷に添って丹念に唇を這わせながら囁いた。
「この傷、絶対に忘れられないな」
それはまるで自身の傷のような言い方だった。この傷が二人を文字通り結び付けた。背中に傷を背負ったことで、妙子と後に産まれる奈緒の人生も背負ったのだった。
禄郎が二十一の秋、
夜陰に紛れ、
その時の妙子は十九歳だった。今よりも顎の輪郭が鋭く、精神と肉体を絞った者のみが持つ、刃のように研ぎ澄まされた美を湛えていた。
驚いた妙子がどうしたのかと尋ねると、草地に正座した禄郎は二人の間に太刀を置いた。黒鉄衆にとって命にも等しい太刀を捧げるということは、自らの命を差し出すことに等しかった。
息を詰めて太刀を見下ろす妙子に向かって、もし明日の戦で生きて帰って来れたら、その時はどうか結婚して欲しいと、禄郎は一思いに申し出た。
目を見開いた妙子は、手で口を覆って固まってしまった。妙子を凝視しながら返事を待つ間、直に頭蓋に反響しているのかと思うほど鼓動が鳴り響き、もうこれ以上耐えられないと気力が
「どうして、そんなことを?」
「そんなことって?」
「もしも、自分が明日の戦から帰って来れたら、って」
「今度こそ悪い予感がするから。だから、思い残しがないように、どうしても伝えたかった」
禄郎の言葉に、妙子は子供が嫌々をする時のように被りを振った。
「嫌」
「嫌ッ?」
脳天に鉄槌を振り下ろされたような衝撃に禄郎が呻くと、瞬きをした拍子に妙子の大きな瞳から零れ落ちた一筋の涙が、頬を伝っていった。
「絶対に死んじゃ嫌。その刀に誓って、死んでも這って戻って来て」
「えっ、それじゃあ?」
妙子の言葉に勢い込んで禄郎が尋ねると、涙を零しながら妙子が頷いた。
「嬉しい。どうか私を、禄郎のお嫁さんにさせて」
全身に高揚が駆け巡るのを感じながら、禄郎は掠れた声を絞り出した。
「今確信した。その言葉で
禄郎が死を覚悟するほど、その戦は苛烈だった。幼い頃から寝食を共にしてきた黒鉄衆が七人も命を喪い、背中を縦に切り裂かれた禄郎は、他の黒鉄衆に担がれて野営地に戻ってきた。
担がれて戻ってきた禄郎を見た瞬間、悲鳴を上げながら駆け寄ってきた妙子に、禄郎は血の気の失せた笑顔を見せながら言った。
「妙子のおかげだよ。
結婚を申し出られた夜、妙子は懐抜きで裂いた自らの指先を禄郎の帷子に這わせ、テントの中で
「刀を置かれてプロポーズされた時は、ほんと痺れたな」
昔を懐かしむように、妙子が囁いた。
「痺れた?」
振り返った禄郎が尋ねると、妙子は禄郎の髪を掻き上げながら頷いた。
「あそこが。子宮が、ずうんって痺れた」
禄郎の身体の下で一糸纏わぬ姿になった妙子も、全身傷だらけだった。二人は互いの傷の記憶の大半を共有していた。
黒鉄衆とは、
山王八幡修験は、神社本庁に存在を否定されていた。鉱物と調伏を司る八幡神を取り込み、食い詰めた鎌倉武士の残党が加わると、修法に剣術が織り込まれた。梵字を刻んだ刀剣で、直に禍を斬るようになった。
黒鉄衆は十数人規模での行動が多く、隠形で人目を忍びながら山間部を転々とした。女陰の発生場所によっては、結界で覆った街の廃屋や工場跡などに逗留することもあった。
結婚後も黒鉄衆に浸かっていた二人は、妙子が奈緒を身籠ると、山暮らしが長過ぎて猿めいた統領の
妙子の裸身に、束ねた針金のようなかつての張りは何処にもなかった。人に必要な
下から両手で頬を包んできた妙子が、禄郎を見上げながら言った。
「生きるの。私たちは、最後までしっかりと生き切るの」
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