高揚して後部座席で暴れる奈緒を見た禄郎と妙子は、顔を見合わせて笑った。

 全身で喜びを表す奈緒を見るだけで、気鬱きうつが払われるようだった。澄んだ土曜の青空。ハンドルを握る禄郎も高揚した。禄郎たちが乗った赤のミラの一台先の銀のフレアには、平岡家が乗っていた。

 フレアの後部座席から両手を振ってくる麻衣に、笑って妙子が手を振り返すと、妙子を押し退ける勢いで席の間から身を乗り出した奈緒が手をぶんぶん振り回した。

 北本自然観察公園の駐車場に並んで駐車した途端、車から飛び出た奈緒と麻衣が駆け寄ってはしゃぎ始めた。マスクを着けた妙子と早紀さきが子供たちにもマスクを着けさせ、続いて車から降りた禄郎は、眼鏡をかけた義成よしなりと苦笑を浮かべ合った。

 駐車所の隅の石段を登ると、芝生と樹々が織り成す緑のグラデーションが視界一面に拡がった。休日の公園は人手も多かったが、敷地は広く間隔も十分にあった。

 禄郎たちは奥まった木陰にシートを敷いた。双方の家族が大人数分の料理を用意したのでシートは料理で溢れ、シートの端に座る麻衣に張り付いた奈緒が、料理に伸ばしかけた手を止めた。

「麻衣ちゃんは、何食べるの?」

 奈緒が訊くと、麻衣は躊躇ためらいなく手を伸ばした。

「おにぎりー」

「あっ、奈緒もー」

 ほぼ同時におにぎりを取った二人が指先の米粒まで食べ終えると、面白がった奈緒が再び尋ねた。

「ねーねー、次は何食べるのー?」

「玉子焼きー」

「奈緒もー」

 面白がった早紀が、「ママもー」と同じ料理に手を伸ばすと、二人が「ダメー」と唱和して皆が笑った。早紀が手で目を覆って泣く振りをすると、奈緒と麻衣が笑い転げた。

 自らも笑って野次りながら、禄郎はふいに涙腺が緩みかけた。車座に座る家族たちに斑になった木漏れ日が降り注ぎ、双子のように寄り添う二人の子供を、笑顔の大人たちが囲むこの光景が、額に縁取られた一枚の絵画のように禄郎には見えた。

 この光景を頭に焼き付けようとした禄郎は、ふと後ろ髪を引かれたように感じて背後を振り返った。背後の森の折り重なった梢の間から、ぶら下がって揺れる何かが見えた。

 それは縄で首を括った男の姿だった。足が一メートルは浮く高さのはずなのに、飴のように伸びた首のせいで地に着きかけていた。この場をけがされたという思いに、禄郎の喉が忿怒ふんぬつかえた。

「ちょっと、トイレ行ってきます」

 断った禄郎が立ち上がると、傍に座る妙子と視線が交錯し、禄郎を見上げた目が、何をする気かと問うてきた。目で頷いた禄郎は、トイレに向かって歩む途中で、皆の視野から外れるように大きく迂回して森に入った。

 樹々を縫って歩きながら、両手を組み合わせて陰会印いんえいんを結んだ禄郎は、口の端で隠形咒おんぎょうじゅじゅした。咒を誦した禄郎の姿は、樹々の間に紛れながら、妙子を覗く誰の目からも消えるはずだった。閾を淡く纏わせる隠形は、人の目に有効な行だった。仮に目に付いても記憶に残らないか、何かと誤認するほど印象が薄まるはずだった。

 禄郎は禍津軍の周りを一周しながら、鏡面咒きょうめんじゅを誦して鏡開きの結界で囲い込んだ。禍津軍をはらう際に最も重要なのは、周辺の禍津軍に気付かれないことだった。

 懐抜ふところぬきと呼ばれる、掌に隠れるやじり状の暗器を懐から出した禄郎は、禍津軍に対峙した。その禍津軍は左右の眼窩から眼球を垂らし、唇から濡れた靴下のような舌を突き出していた。禍津軍が身体を揺すると首がさらに伸びて、白いスニーカーを履いた両足が地に着いた。禄郎は忿怒火焔咒ふんぬかえんじゅを誦した。

「ナウマク、サンバラギャテイビヤク、センダ、マカロシャナ」

 風に煽られた炎のように、懐抜きに刻まれた梵字ぼんじが熱を帯びながら脈打ち、橙色に輝き始めた。火刀被印かとうひいんを誦しながら鍛えられたこの鋼には、鉱物神である八幡神やはたのかみ霊験れいげんが降ろされていた。

 口を開けて飛びかかってきた禍津軍は、縄が切れた途端に急激に速度を増した。上体を屈めて地を滑った禄郎は、突き上げた懐抜きで禍津軍の顎を貫きながら左に回って首を掻き切った。数年ぶりの狸廻りかいの型は身体に滲み付いていた。

 禍津軍の顎と首から迸る黒い血が沸騰し、傷から火を噴き始めた。浄化の炎が全身を覆い、橙色の松明と化した禍津軍はたちまち空中に四散した。

 印契いんげいを逆に結んで隠形を解いた禄郎は、素知らぬ顔で木陰のシーツに戻ってきた。禄郎を一瞥した妙子の目が、眩しいものでも見るように一瞬細められた。

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