内勤の禄郎は、毎週金曜だけ外出した。

 朝からだいぶ額の後退した韮澤にらさわという営業部員と、発注品を収めた段ボールを白い営業車に積み込んだ。毎週決まっている、都内三箇所の会社への納品物だった。固定の納品業務の兼務が決まった禄郎は、引継ぎで同行しているのだった。

 池尻大橋と市ヶ谷の納品を終えた二人が最後に向かったのは、大塚の空調整備工場だった。韮澤が工場の黒い門扉から営業車を出した時には、午後四時を過ぎていた。日は既に傾き始め、西日が過ぎゆく建物の外壁を赤く照り返していた。

 社まであと十数分の距離に近付いた頃、フロントガラスに据えられた禄郎の目が、すっと細くなった。車窓を暗灰色の靄が覆い始めていた。ぎょっとした禄郎は韮澤に目をやった。韮澤は意に介した様子もなく、ハンドルをりながら喋り続けていた。

「ほんと下世話な話でさ、出来る限り、大きい方は社のトイレで済ますの。俺がいきんでる間も給料が発生してんだから、こんな一石二鳥ないだろって思うわけよ」

「韮澤さん、道が違います」

 慌てて禄郎は告げたが、韮澤は平然と営業車を違う交差点で右折させた。右折した先も狭い住宅地が続き、靄がより濃くなった。韮澤は自覚しないままに、胎に取り込まれつつあった。

「韮澤さん、戻りましょう」

 大声で呼びかけた禄郎は、韮澤の横顔を見て背筋が凍った。韮澤の瞳は陶然とうぜんとしたように濁り、他人事のように言い出した。

「あれー、ここ何処だあ? まぁいっかあ」

「韮澤さん、韮澤さん」

 耳元で連呼すると、ようやく韮澤がのろのろと視線を禄郎に向けた。その反応の鈍さに禄郎の肝が冷えた。

「大丈夫ですか? 運転疲れしてませんか? 良かったら運転変わりましょうか?」

 丁重に喋りながら、禄郎は気が気ではなかった。頻繁に行き交っていた車や通行人の姿が消え、車窓を過ぎ行く路上のそこかしこで禍津軍が目に付き始めた。既にこの世の閾を越えて、胎に潜り込んだと見て間違いなかった。

 韮澤は禄郎をぼおっと眺め、ようやく認知したようだった。韮澤は大儀そうに答えた。

「あっほんと? 悪いね。そうして貰っていいかな?」

「ええ、ええ、お安い御用です」

 ハザードを炊いた韮澤が道路脇に営業車を停めると、禄郎は営業車を降りて運転席に回った。たまたま見上げた家の二階の窓に、ヤモリのような黒い影が貼り付き、遠くの路地に転々と佇む禍津軍の姿が見えた。

 運転席に座った韮澤は、口を開けてガラス窓から禄郎を見上げていた。禄郎は迷わず運転席のドアを開け、中から韮澤を引き摺り出した。助手席に移す猶予はないので、すぐ後ろのドアを開けて、荷物のように後部座席に押し込んだ。

 近寄りつつある禍津軍を尻目に、禄郎は営業車を急発進させた。

 今や四方が靄に覆われ、西の空だけではなく全面に西日が降り注いだような、赤く毒々しい光に包まれていた。それは光源が全く不明な、この世の終わりを思わせる光だった。

 一人ならば最悪、閾を切り開いてでも脱出できたが、韮澤を抱えて禍津軍に気取られる真似などできなかった。禄郎は焦燥を鎮めて呼気を整え、意識を徐々に胎に観じさせていった。

 それは潜水して気圧が増す感覚に似ていた。圧が高まるほど狭窄きょうさくした感覚が尖り、禄郎の目は赤みがかった靄を透過して脈打つ地脈を捕え、その流れに沿って営業車を走らせた。

 地脈を辿って胎から抜けることを筋違すじたがえ、逆に胎に潜ることを筋寄すじよせと呼び、いずれも禄郎が叩き込まれた修法だった。

 何度も道を曲がるうちに靄が薄れ、人気の絶えた道路に再び車や通行人が戻り始めた。車が閾を超えると、営業車はすっかり夜になった会社付近の道に戻っていた。ダッシュボードの時計を見ると、いつの間にか夜の八時を回っていた。

 バックミラーに、後部座席でもぞもぞと動き出した韮澤の姿が映った。韮澤は呆然と目を見開いて車窓を眺めた。

「え、なに? 俺寝てたの?」

 そう尋ねた韮澤は、禄郎が答える前に背広の内ポケットからスマホを出して、頓狂とんきょうな声を上げた。

「あ? すっげえ着信来てる」

「帰りを心配してるんだと思います」

 何があったか尋ねてきた韮澤に、途中で眠気を訴えたので運転を変わったが、道に迷って焦ってしまったと禄郎は答えた。

 不審そうな口調で、同じ内容を社に電話報告している韮澤の声を聞きながら、禄郎はハンドルを握る掌が汗で滑っていることに、今更気が付いた。

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