禄郎はその話を家族にしていなかった。ところが二日後の夜、鍵で開けた玄関を一瞥いちべつして、流石だと唸った。

 右の下駄箱の陶器の人形の向きが、反対の壁にかかった西洋人の肖像画と目線が合う角度に変わっていた。見事な鏡開かがみびらきの結界だった。瞳は鏡と同じ反射の力を持つ。双方向に映し合う瞳は、瞳の中に瞳を映す通廊状の無限連鎖を作り、胎に向けて鏡が開かれる。反射を認識できないには、玄関が見えなくなるはずだった。

 室内には、窓やドアの枠の天井部に糸を伝わせる、典型的な忌簾いみずだれが施されていた。

「あ、お帰り」

 と言いながらキッチンから顔を出した妙子たえこは、結界を施した素振りを微塵みじんも感じさせなかった。

 妙子は尋常ではない美しさだった。整い過ぎた鼻梁が大きな瞳を際立たせ、人を怯ませるような怜悧な相貌をしていた。

 パジャマで食卓に着いた四歳の奈緒なおも、精巧な西洋人形のようだった。完全な母親譲りだが、幾分吊り気味の目元には禄郎の面影があった。食卓は奈緒の独壇場どくだんじょうだった。日中妙子に散々喋った話を、今度は禄郎にまくし立てた。

「ねー、あのね、麻衣まいちゃんね、田中たなか先生よりもね、二百倍奈緒が好きだってー」

「あれー、数字増えてるけど? 奈緒、さっきママに、百倍って言ってなかった?」

 妙子が口を挟むと、奈緒は箸を持った手を振り回した。

「もうっ、細かい数字はいいの! 麻衣ちゃんがね、三百倍好きって言ったんだから」

「あ、また数字増えてる」

 禄郎の指摘に皆が笑った。転居続きで孤独を舐めてきた奈緒が、喜びを表して喋る友達の話はいつまでも聞いていたかった。

 家中に元気を振り撒いた奈緒が寝入ると、「お疲れさま」と言いながら妙子が缶ビールを手渡してきた。勢い良くビールを煽った禄郎は、妙子に尋ねた。

「いつ気付いた?」

「今日。幼稚園に迎えに行った帰り道で」

「帰り道? そんな近くで?」

 訊き返した禄郎は、会社での話を妙子に伝えた。話を聞き終えた妙子は呟いた。

「まずいね。確実に開いてる」

「多分ね」

「しかも、かなりの広域だよ。だってパパの会社って、車で三十分?」

 禄郎は頷いた。女陰ほととは閾に穿うがたたれた穴のことで、中から禍津軍まがついくさがこの世に溢れ出てきた。一端女陰が開くと周囲の閾にも綻びが拡がり、今回は十数キロ圏内に侵蝕が及んでいるのだった。

 古来から女陰は絶大な力の源泉として、崇め畏れられてきた。女陰の力は、出して入れる働きに表れる。子種を宿して子を産むように、女陰は吸い上げた魂を、禍津軍に育み直して再びこの世に産み落とした。

 禍津軍とは、禄郎たちがはらと称する彼岸ひがんに棲むものを表す名前だった。

「ママはさ、また引っ越しを考えなきゃ駄目だって思う?」

 禄郎が尋ねると、妙子は禄郎を見据えたまま、重そうに口を開いた。

「それよりね、もっと悪い可能性があるよ」

「どんな?」

 禄郎は尋ねたが、その答えは禄郎の予想を上回る悪さだった。

「多分ね、奈緒には見えてるよ、あれが」

「まさか」

 妙子の話はこうだった。五月の陽気の中、奈緒が近所の公園に寄りたがった。隅のベンチに腰かけて持参したオレンジジュースを飲んでいると、猫を見たと言って奈緒が傍の生垣に屈み込んだ。その生垣を見た妙子は、心臓が止まりかけた。奈緒が屈んだ生垣の茂みから覗く、一対の金色の眼が見えたからだ。

 妙子が大声で奈緒を呼ぶと、弾かれたように奈緒が振り返った。怯えさせて背後を気にされたら危ないと思った妙子は、冷蔵庫にアイスがあったから食べようと、奈緒の気を惹いた。妙子に近付いてくる奈緒の背後の生垣から、何かがぬっと姿を現した。それは瘴気しょうきまとって黒い影法師のように見え、金色の眼だけがぎらぎらと輝いていた。

 後ろを見ないで、と妙子が祈っていると、奈緒が背後を振り返りかけた。息を呑んだ妙子の顔色を窺ったように、振り返りかけた奈緒の首が止まり、一瞬互いを見合う奇妙な間があった。次の瞬間、満面の笑みを浮かべた奈緒は妙子に駆け寄ってきた。妙子は奈緒の頭を撫でて手で背後を覆いながら、公園を後にした。

「なら、大丈夫では?」

 妙子の話を聞き終えた禄郎が言った。

「だって、奈緒の態度は変わんなかったんでしょ? あんなもの見て、取り乱さない子供なんている?」

 妙子は頷きながらも、仕草とは反対の言葉を口にした。

「私もそう思いたいけど。もしや、って瞬間があって」

「どういうこと?」

「奈緒が振り返る途中で、私をじっと見てきたの。あの時ね、奈緒は見ちゃったんじゃないかって思うの」

「どうして?」

「奈緒が、どうしたらいいの、って目でこっち見てきたから。とんでもないのを見ちゃったけど、これ泣いて事実ってことにしていいの、って感じで」

「ああ」

 禄郎が声を発したのは、ニュアンスが理解できたからだ。引っ越し続きで苦労を重ねた奈緒は、親の顔色をおもんぱかる哀しい習性を早くも身に付けつつあった。しかし、禄郎は妙子に同意したわけではなかった。

「でもさ、奈緒は結界を感じてないよ」

「それはかんじ方を知らないからよ。チャネルが合わなきゃ影響ないの、分かるよね? だって結界は、あっちに干渉するんだから」

 神の加護を降ろすのも、禍を感じるのも、全ては「かんずる」ことから始まる。観ずる力を高めて自らを同化させて、初めてそれらが感じられる。その集中を高める為に、ぎょうを積む行為があった。

「行なんて、教えたくない」

 禄郎が呻くと、即座に妙子が言い返した。

「私もよ。あんな苦行、誰が。でも、もしあれが見えるなら」

 妙子は口を噤んだ。その先は言わなくても分かっていた。禍津軍に気付かれて行を知らなければ、それは魂を喰われることを意味していた。

「それくらいなら、まだ引っ越した方がマシだって思わない?」

 禄郎の言葉に、妙子が小刻みに頷いた。

「うん、そうかも。今から候補地を探した方がいいのかも」

 妙子の発言は失敗を踏まえてのものだ。市川に住んでいた頃に周辺で女陰開きが起きた時は、全く準備していなかったので夜逃げ同然で離れ、しばらく宿無し生活を余儀なくされたのだった。禄郎は妙子に言った。

「でも、ギリギリ粘ろうよ。折角あんな嬉しそうに喋る友達ができたんだし」

 禄郎も麻衣とその家族を知っていた。家族ぐるみの付き合いがあったからだ。麻衣は幾分狐顔の奈緒とは反対の、幾分狸顔の可愛らしい女の子だった。

 禄郎の提案に頷いた妙子は、沈痛そうに呟いた。

「そうしよ。だって来週だよ。麻衣ちゃんの家族とピクニック行くの。それでお別れなんてあんまりだよ」

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