撤退戦

江川太洋

 給湯室も兼ねる二階の食堂が、ほぼ唯一の社の休憩所だった。

 緑茶の入った紙コップを手にした山崎禄郎やまざきろくろうは、三浦洋子みうらようこの世間話に相槌を打っていた。

 長身で厳めしい顔付きの禄郎は、無言だと威圧感があった。細面の顔は顎が張り、細い吊り目は相手を威嚇するかのようだった。二十代後半なのに散々厭なものを見てきたような苦みがあったが、尖った犬歯を覗かせて笑うと優しそうな印象に変わった。

 話に頷いていた禄郎は、ふいに紙コップを落として床に緑茶を撒き散らした。

「あっ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと雑巾」

 立ち上がりかけた洋子を禄郎は制した。

「いえいえ、自分で拭きますから。ごめんなさい」

 立ち上がった禄郎は、流しの下の棚から取った雑巾で床を拭き始めた。見間違えだと思いたかったが、一瞬とはいえ禄郎は確実にそれを見た。

 洋子の肩越しに、火事の煙のようなどす黒いもやがちらっと映った。その靄は拡散せず、不自然に宙に凝固していた。

 風でなびいたように一瞬靄が揺らぐと、その奥から瞳が現れた。それが人の目と決定的に違っていたのは、その瞳が金色だったことだ。それは宙でぱちぱちと瞬きしながら、忙しなく周囲に視線を彷徨わせた。

 見られる!

 全身に危険信号が走ってコップを落とした禄郎が床に目を走らせると、既に靄は消えていた。

 洋子が不信感を抱かなかったようなのが、せめてもの救いだった。禄郎は緑茶を拭いた雑巾を流しで洗いながら、まだ激しく脈打っている鼓動を感じた。

 今の眼単体では蠅程度のものだが、あれは個体よりも群体に近かった。あの瞬間、もし目が合えば認知されて、周辺の群れが一挙に押し寄せてきたかも知れなかった。

 この世を覆うしきいは、常に移ろいながら揺らいでいた。今の眼は、その揺らぎにたまたま生じた泡沫に過ぎないという考えに縋りたかったが、それが偽りに過ぎないことを禄郎は熟知していた。

 あんな泡沫だけで、あれはこの世には留まれない。数キロ圏内の何処かで、女陰開ほとびらきが起こったのだ。

 妻と一人娘を抱えて土地を転々として、ようやく手にした安住の地だった。ここ北本市に2LDKの安いマンションに借り、プラスチック加工を扱うこの会社にも就職できた。

 禄郎は一階の工場へ戻った。廊下の途中でマスクを着け、暗澹あんたんとした気分を悟られなくするには良いと思いながら、プレス機の電源を入れた。

 妻の妙子と娘の奈緒に、遠くないうちに引っ越しを切り出すことを考えただけで、禄郎は胃が痛くなってきた。

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