午後三時過ぎ、一端休憩しようと禄郎はプレス機の電源を切った。

 工場を横切って階段を上ろうとした禄郎は、誰かが奥の廊下を駆ける足音を聴いた。不審に思った禄郎が奥の廊下の角を右折した途端、飛び出した青木あおきという若い女性と衝突しかけた。泣き顔の青木を引き止めた禄郎がどうしたのかと尋ねると、引きった声で青木は答えた。

坪井つぼいさんが」

 坪井は痩せた中年の経理係長だった。部署違いで普段は接点がなかったが、たまに話した時の子煩悩ぶりを、禄郎は好ましく思っていた。

 廊下の奥は騒然としていた。並んだ背中の列を見ただけで、倒れた坪井を囲んでいるのが分かった。異様に切迫した空気が漂い、誰かの救急車という叫びが聞こえた。二人の社員が屈み、その隙間から微動だにしない左右の靴のゴム底が覗いていた。

 皆が床を凝視する中、禄郎の目だけは狭い壁に釘付けになった。人間並みの大きさの、百足のような禍津軍が壁を這っていた。

 その禍津軍が、巨大な顎で首に噛み付いた坪井の魂を身体から引き摺り出しながら、壁を這い上がっている最中だった。魂とは彼岸の成分で構成された、その生命のもう一つの肉体に他ならなかった。

 首から血を噴く坪井は、真っ赤な口を開けて聞くに堪えない絶叫を上げながら、天井に引き摺られていった。壁も天井も引き摺られた血痕に染まり、禄郎の目には天井と奥で波打つ閾が二重に写った。

 水に没するように、天井に沈む血塗れの坪井の顔を見た禄郎は貧血を起こしかけ、よろめく足でその場を後にした。何もできないという事実が、これほど残酷に突き刺さったのは初めてのことだった。

 定時に帰宅させられた禄郎が、奈緒が寝静まった後に坪井の件を伝えると、妙子は唇を噤んで黙り込んでしまった。重い沈黙が漂う中、妙子がぽつりと呟いた。

「もう潮時かも。本当に越さなきゃ、何が起きるか分からない」

「俺もそう思ったけど。でも、ひょっとしたら、とんでもない考え違いをしてたのかも知れないよ」

 禄郎の言葉に、妙子は怪訝そうな顔をした。

「どういうこと?」

「目の前で人が天井に引き摺り込まれるのを見ながら、思ったんだよ。これ、本当に逃げ切れるのかって?」

 禄郎は言葉を切ったが、妙子から返事はなかった。禄郎は一端噤んだ口を再び開いた。

「何処かに越しても、またそこが侵蝕されるかも知れない。それで、いずれ逃げ場所がなくなったら?」

 疑問を投げかけた禄郎に、挑むような目を向けた妙子が、抑えた声音で訊き返した。

「それで、パパはどうすればいいって?」

「逃げるんではなく、逆に前に出て闘った方が――」

「駄目よ」

 禄郎を遮った妙子の目が吊り上がっていた。それは妙子が自分を押し通そうとする時の表情だった。妙子は反駁はんばくも赦さないと言わんばかりに捲し立てた。

「そんなことして戦争になったら、誰が責任取るの? 誰が奈緒を護るの? 勝手に弾けて、奈緒を巻き込むのは止めて。そんな事態になったら、それこそ奈緒に行を叩き込まなきゃいけなくなるよ。親子三人で闘いに明け暮れるのが得策だって、ほんとにパパは思ってる?」

 禄郎が無言でいると、大きく息を衝いた妙子が態度を軟化させた。

「ごめん、言い過ぎた。パパの心配は分かるけど、私は反対。そもそも、私たちだけで女陰を祓える? 十数人がかりでやっと包囲して祓えたものを? どう考えても闘って勝ち目はないけど、引っ越しはまだ無事な可能性があるって、私は思うな」

 咄嗟に禄郎は否定しかけたが、それは溜飲を下げたいからだと思い直した。

「確かに。そうかも。焦れて飛び出したくなっただけかも」

 禄郎が素直に答えると、分かっているという感じで妙子が頷いた。

「パパは昔から、火が付いたら一人でどんどん突っ込んじゃうから、私はそれが怖いよ。今は撤退戦と同じだから、我慢しなきゃ。何年も続くなら、何年でも耐えなきゃ」

 妙子は状況をそう捕えているということだ。黒鉄衆として暮らしながら、絶望的な戦局でも最善手を探り続ける妙子の強さに、禄郎は度々驚嘆してきた。

 見境のない自分も撤退戦の険しさに耐える必要があると、禄郎は気を引き締めた。

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