雨の喝采
雨の喝采
<font size="4">■雨の喝采■</font>
その日は、雨が降っていた。
とはいえ、天気がどうであれ、特にぼくは感傷を抱かないし、青い空を見て、思うのは『あー、青いなあ』ってくらい。
国語の授業は苦手で、だからといって嫌いでもない。たしか、国語の先生とは、相性が悪かった気もする。
よく誤解されるが、冷めているわけではないし、むしろ、簡単に喜んでしまうのだ。草が生えてる、とか、猫がいた、とか、そんなことに。外は、素晴らしい。
――その日も、ぼくは思っていた。雨だな、って。わかりやすく、そのまんま。今日の湿度は68パーセント、気温推定20度前後。それから、ああ、雨か。って。
だから、雨の日に、気持ちなんて聞かれても、ただ、灰色で、水が跳ねてて、ああ、これが雨だなって。
だって、それ以外に、何か必要?
□
誕生日を祝う、なんて習慣は、家にはない。
習慣、なんて作ること自体が、ややこしいってぼくも思ってたから、それは普段通りだった。
欲しいものは、ずーっと、ゆったりした寝床と、美味しいごはんだ。
(これはちなみに、経済的問題などではない)
今日も明日も、剥奪されないのなら、それで充分に、ありがたい。今日あったご飯が、明日は無いかも、なんて考えるだけで、胸がいっぱいになるからだ。
中学校の帰り、ぼくは、傘も持たずに、ふらふらと、外を歩き回っていた。
その日は、誕生日だった。暖かい汁物が食べられたらいいな、とぼんやり考えていた。
「あー、でも、洗濯しないとなあ」
体に張り付いたジャージが気になり、腕を振ってみる。(ひどい天気の日は、制服を着ずに帰宅する許可が出ることがある)鬱陶しくて、でも、なんだかおかしくて、ぼくは笑いが止まらなかった。
帰り道は好きだ。
解放された時間。何もなくても、嬉しくなる。
笑い死にするんじゃないか、ってくらい、笑いながら、外を歩き回っていた。
学校に行く時間だけは、拘束の厳しい家にいた、そのときのぼくにとって、自由だったので、出来るだけ外に居たいのだ。
「イエーイ! 雨だぜっ!」
古びた商店の、閉まったシャッター前で、奇怪な声を上げているやつを見つけた。かかわらんとこ、とぼくは思ったのだが、ばっちり目があってしまった。
「元気かい! いぇー!」
「……なにしてんの」
「にひひっ、予想では、今日この時間帯にね、もうちょいしたら、面白いもんが見えるんだ」
嫌な予感は的中した。
光の加減で茶色だったり黒だったりする、耳が隠れて肩に向かっている長さの髪をふわふわ揺らして、そいつ──佳ノ宮まつりが笑っていた。
佳ノ宮まつりはお向かいにある、うちの2倍か3倍はあるだろうお屋敷(庭付き)に住んでいて、ご近所付き合いというか……そんな感じだ。
(家同士の仲は最悪みたいだが、ぼくには関係ない)好きとか嫌いとかは別に思っていないが、しかし、出来れば会いたくない。
こいつと出会うと、ろくなことにならないのだ。ぼくが。
「面白いもんって?」
しかしこうなった以上は、仕方がない。腹をくくって近寄る。
「あー、ほら!」
すっ、と指差したその腕は、だぼだぼのシャツで隠れていて、辛うじて指先が確認出来た。
……どうしてか、大体、こいつはサイズに合わないものを着ている。小柄ではあるが、まさか、特注するしかないような体型とは思えないし、わざとなのだろうか。
転んだら危ないから、と普段のぼくは言うのだが、今日はそれもすっとばして、ただ『それ』を見た。
「えっと……」
てるてる坊主だ。
てるてる坊主。
一人、と数えれば良いのだろうか。
それが、小さな路地を、歩いていた。
……何かのイベントだろうか?
ぴっちゃぴっちゃと、ねっとりした足取りで、彼は、歩いていた。
布から出た裸足で。
20代後半のおじさんの足、という感じだ。
足がムキムキしたてるてる坊主、というのは、なんだか見てはいけなかったような、ちょっと背徳を感じさせる雰囲気を纏っている。
地面に石が落ちてないか、つい確認してしまった。
踏んづけたら大変だ。
家じゃあるまいし、何が落ちてるかわからないってのに、なんて無謀な人なのだろう。
そもそも、景色、どっから見てるのかな。
「わー、お酒とか、お供えした方が、いいのかな……」
「それは、晴れてからだと思う」
「そうなのか? 未成年だから、そもそも持ってないけどさ」
「代わりに一緒に泣いてみる?」
「そもそも、彼、泣いてないような……」
ぴっちゃ、ぴっちゃ、ぴっちゃ、ぴっちゃ、ぴっちゃ。
だんだんそのリズムが楽しくなり始めた辺りで、てるてる坊主はこちらを見た。ちょっと、ビクッとしてしまう。目があった、そんな気がした。
その瞬間、獲物を見つけたとばかりにぼくらの正面、少し離れた通りから、かけてくるムキムキてるてる坊主。
わお、斬新なキャラクターだ。
しかしそれどころではなく、どうしよう、とぼくは焦った。
両手が、ちょっと厚い布で隠れているし、そもそも雨だ。一部、道路に埋まっているタイルの飾りもあるし、滑るだろう。転びでもしたら、ぼくはちょっと、おじさんを支える力は無いぞ。
骨折したら大変だし、怖いなあ……こんな日は、走ったらだめだと思う。
「あ、危ないですよ」
とりあえず忠告を試みる。彼は、ぴた、と足を止めた。
「……大丈ーっ夫」
──はい?
シーツの中から、間延びしたくぐもった声がして、てるてる坊主がグー、と指で表した。
クラスの、野球クラブに通ってた奴が、確かこんなノリだった。あいつは坊主頭だが、まさかてるてる坊主ではなかろう。
それに、体つきがなんか違う。
頼もしさを感じさせるかも、しれなかったが、ぼくはぼくで、ぽかーんとしていた。
一方、背後で、急に、アハハハハハ! と、甲高く笑い出したのが、佳ノ宮まつりだった。
「そっちの方の道、近くで見たら結構汚れてるし、水溜まりもいくらかあるのに……布、全然……汚れてないのな、すご……すごい、や」
笑いが止まらない佳ノ宮まつりは、震えてひいひい言いながら、喋りづらそうだった。いったい、何がツボに入っているのだろう?
どうした、と聞くと、肩をばしんばしん叩かれてしまう。痛い。超痛い。
むっとしたので二回目のあたりで、次に叩かれる前にまつりの腕を掴み、前で(無理のない形で)クロスさせておいた。
無防備だし、笑いで冷静じゃないからこそ簡単に出来たことだが、普段はこんなことしない。
拘束(?)されたまつりはなおも小さく震えていた。
力が入らないくらい笑っていて、振りほどこうともしない。
大丈夫そうかと思って、拘束を解除した。
「なーにするんだよお……」
冷静になったまつりが、ものすごく不機嫌そうに睨み、ぼくに掴まれていた腕を自分のブラウスで擦り付けた。無理やり摩擦で誤魔化そうとしているらしい。
ぼくは男が走ってきた路地の、壁だと思っていた部分を見つめた。
あまり視力に自身がないので、今の、そこの様子がわからないが、そういえば、確か、少し前に、寄り道でここを通ったことがある。
そのときのことを思い返すと、瞬時に浮かんだのは、日当たりがいい時間帯のときの、その場所だ。
あそこは、三階建ての借家で……両脇の壁、は、そういえば、窓があった。今は閉まっているけど。
まつりは、何を思ったのか、体と布が離れている部分を目敏く見分けるやいなや、男からシーツを奪った。華奢なのにこういうときは、よくわからない力があるらしい。
不意を付かれた男が、ほぼ裸になる。あまり見ていて楽しいものではなかった。濃いめ、というか、色がはっきりした顔で、一見すると優男だ。髪は、ギリギリ坊主の部類に入りそうな短髪。驚きで固まって、しかしすぐに笑い出す。
「返してくれないか?」
「やーだ」
おい、なんでわざわざこんなのに絡んでるんだよ、とこっそり耳打ちしてみたが、まつりはけらけら笑う。どうしよう、ぼくの上着は、サイズが合わないし……えーと。とやっていたら、まつりは男をじいっと見つめた。
遠巻きに見るとシュールな光景だが、裸で雨に打たれるなんて、風邪を引きそうで心配してしまう。
まつりは頑なにシーツを握っていた。
「聞いたら、返すよ。──おじさんは、さっきまで、そんなのをかぶってなかったよね? この通りまできてから、そんな目立つ真似してるけど」
「……窓から降ってきてね。ついかぶってたんだよ。服を着忘れて、寒くてさ」
「で、なんで裸なの」
「だから、服を──」
「ときどき、この辺りに不審者がいるって聞いたから、今日、ここで待ってたんだ。どうして、そんなことを、しているの?」
意外と、真面目な話になってきた。誰から聞いたんだよ、と言いたい気持ちはあったが、ぼくは言わなかった。
男はなにも答えない。
ただ、シーツを返せと言うだけだ。
「……わかったよ」
答えない男に、まつりは何か、納得したらしい。そう呟いて、肩にかけていた鞄から、バスタオルを渡し、シーツを返した。
「じゃ、風邪引くなよ?」
まつりは、そう呟いてから、踵を返してすたすたと反対方向に戻っていった。
あっさりした対応だ。
あわててぼくも、さようならと声をかけつつその後を追う。男の表情は、布で見えないままだった。
「──なあ、なにがわかったんだ?」
答えは何も、返って来ない。もともと、気が向かないと喋らないけれど。
早足で、狭い道を奥へ奥へと歩き、どこかに向かっていく。ぼくはひたすら着いて行く。
まつりが足を止めたのは、さっきの道から、5分ほどの場所の、道端だった。
閉まっている店の影で、箱に入った3匹の、白黒の猫が、だれかの上着に隠れて、すやすやと眠っているのがわかる。
「え、猫……?」
もう少し先にも、また箱があって、誰かのズボンらしきもので、覆われていた。
「えーっと……えーっと……なんだこれ」
「しっかし……だからって、シーツを、どうして、てるてる坊主みたいにしていたんだろうね……」
目をぱちくりと動かすぼくと、苦笑するまつり。
「頭が濡れないように、とか、シーツが風で、飛ばないように、とか?」
「……くく、あはっ、あははは! それなら、さっきのところに来るまでは、あの道を通る間ほとんど裸だったってことだろう? あの人は、本当になにを考えているんだ……!」
……ああ、それで笑っていたのか。
服を一枚一枚脱ぎながら、ここまで来たっていう、今どき見ないようなどこに向かいたいかもわからない優しさ。自分のことを、一切省みないおせっかい。
っていうか、もはや犯罪になりかねないぞ……
大丈夫なのかな。
「無駄に難しく些細なことをする具合が、きみみたいだな、って思ってさ!」
「……う。うるさい。っていうか、どうしてこの道からあそこに来たってわかるんだ?」
「……ああ、それはね、足に付いていた土だよ。……って、本当に、靴はどうしたんだろう、あの人……」
まつりは、半分笑いを堪えるような顔で、誰にともなく、疑問を投げた。
「この辺の土は砂が混じっているんだな」
ぼくはそんなに足元を注視したことはなかったので、まじまじと見てしまった。
「……最近、この辺り、多いんだ。捨て猫とか、そういうのが。その時期から、ときどき彼の目撃情報を聞くようになっている」
「へぇ……しかしなんでまた、服を」
「──ああ、それについては、今日が初めてみたいだ。今までは、道案内しようとしてどうとか、餌がどうとか……」
「そう、なんだ……はは」
まつりは、ふと、そのさらに奥を指さして、複雑な顔をした。
「あ、靴……これかなあ。くたびれたサンダルが……向こうの流れが速まってる川に、流れてる気がするんだけど」
……もはや、コメントすることが見つからなかった。彼の物であろうが、なかろうが、なんだかどちらでも良い。推理だとか、男にたいする感心だとかを根こそぎどっかにやってしまった。
「……帰ろうか」
「そうだね」
──シーツについては、たぶん、本当に飛んで来たんだろうと思う。
(──っていうかまだ何か足りないような気がするんだけども。まあいいか)
まつりは笑っていた。純粋に笑っていた。あの頃は。最悪で、だけど、その日々を楽しめていた気がする。
「あ、そういえば──」
まつりはふと、思い出したように口を開いた。鞄から、小さな箱を出して、こちらを、まっすぐ見つめて、ぼくに、言う。
「ハッピーバースデー、だっけ?」
そのとき、雨が、まるで拍手みたいに、強まってきた。まだ当分やみそうになかった。どうやって帰ろう。
end
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